2007年12月25日

天空の協奏曲




お恥ずかしい話だが、私は朝早く起きるのが苦手である。朝日が昇るのを見たことは、ほとんどない。しかし、なぜか今朝は6時半に目が覚め、すがすがしい気分で起きた。そして、ストレッチをしながら、ふと窓の外を見た瞬間驚いた。

クリスマスの朝、天からプレゼントが用意されているとは夢にも思わなかったのだ。誕生日のときもそうであったが、一人だけの時間に、いつも驚くような贈り物が届く。
心が強く揺さぶられ、私は思わず天に向かって合掌していた。


天空の協奏曲

漆黒の闇に出ずる朱赤の光
南北に帯状に伸びる

輝ける黄金の光
空が歓喜にあふれる
光と雲の織りなす神秘
天空の協奏曲

やがて東方より現われし黄金の龍
力強く天空を舞い
「はじまり」を告げる


美しい地球
かけがえのない地球
私たちの地球は
私たちの家

地球とともに
自然とともに
私たちは生きる

闇の中に出ずる光のように
新しい朝のように
力強くのびやかに
意識を広げてみれば

心は黄金の龍に乗って
無限の空を駆け巡る

自然の中に自分があり
自分の中に自然がある

とても小さな存在だけれど
とても大きな力を秘めている

地球とともに
自然とともに
歩調を合わせて
今日から始まる

太陽が朝を告げるとき
鳥や木々が目覚めるように
心が目覚めるとき
「はじまり」の扉が開く

12月25日
今日のこの日は
「はじまり」の日

(この協奏曲は、カラスがいくつものグループに分かれて一定の間隔で目の前を通り過ぎ、ブルージェイドに続き、名は知らないが小さい鳥2種類が順に鳴いて、壮大なフィナーレを迎えた。)

2007年12月23日

冬至の贈り物

昨日は、一年で最も夜の時間が長い冬至だった。

アメリカ先住民は自然のサイクルの中に身を置いている。春にアイデアが芽生え、夏に活動し、秋に振り返って反省・評価し、冬にはそれが統合されて智慧となり、そうやって四季のサイクルが完了する。

冬は内向きの方向になり、陰陽では陰、植物は成長を止め、種は暗くて深く、豊富な養分を含んだ土の中で眠る。人も自分の奥深くにある、その豊かな源に心を落ち着かせるときである。

冬至の贈り物は中が真っ暗な箱。その箱を開けてみると、目には見えない何かがぎっしり詰まっている。その何かとは、限りない直観力と創造力、そして可能性。

一年で暗闇が最も長い冬至。自分の中の暗闇は自分の持つ影。冬はそれをじっくり見つめるときである。闇がなければ光は存在せず、ふたつはいつも背中合わせである。誰でもが持つ影、それを認めて知ることが、光をもたらす第一歩となる。

冬至を境に、また少しずつ日が長くなる。春に向けて芽吹くためには、その豊かな内側に入って行って、しっかりと自分を見つめてみることである。そうすれば、次に何がしたいかがわかってくるであろう。

種の中では、殻を破って出る芽が準備を始めている。

2007年12月21日

吾唯足知


吾れ唯足るを知る

しみじみとさせる言葉である。この字は円い手水鉢の四方に書かれており、京都竜安寺にあるそうだ。これをモチーフに木版画にした私の父の作品が家の玄関の壁に掛けてあるが、私はときどきこれを見てふと反省する。

吾れ唯足るを知る。ものが溢れるこの時代に、先進国では足りていない人はいないと思うが、私の頭にはそれとは対照的に、映画「千と千尋の神隠し」の「顔なし」が、人間の欲望を飲み込んで巨大な怪物になっていく姿が浮かんでくる。

食べ物に関しては、特にアメリカでは今や肥満と考えられる人が60%を超えてしまった。2人に1人を超える割合だ。運動量は減る一方なのに、食べる分量、つまりカロリー摂取量はうなぎ登りである。なぜそれほど食べるのか。そして、食べておいて、一方でダイエットに躍起になっているのはおかしい。どこか狂っている。

食べ物だけではない。企業は飽くなき利益追求に躍起となり、金儲けのためなら環境を破壊することも、健康を脅かす製品を作ることも、人間を奴隷化することも平気である。

人間はいつしか傲慢になってしまった。

分相応であることは、それほど難しいことであろうか。

人間の欲望は恐ろしい。ある一線を超えてしまうと雪だるま式になり、全てを飲み込んでしまう、そんな感じがする。

足ることを知る人間は、どんな人でだろうか。こう考えたときに、ただそこにいるだけで幸福感に包まれ、調和のとれた穏やかな人、感謝の気持ちに溢れた人の姿が浮かび上がる。

さて、「足りる」というのは主観的なことで、文明や経済の発達と比例しているわけではない。

地元の新聞に、アフリカから移民として来た一人の女性の記事があった。この女性は自分が後にしてきた町の女性や子供の教育を支援するために、アメリカで働いて稼いだお金を毎月送金しているそうである。

このアメリカでは、飽きたらすぐに捨て、新しい物を買い求めるのが普通である。物質に埋もれ、それでももっともっと欲しいと買い続ける。彼女が言った。「アメリカ社会は Do you want it? (欲しいから買う) の社会」

しかし、彼女は子供の頃から何か欲しいと思ったときに、きまって母親がこう尋ねたという。Do you need it? そのため、本当に必要な物しか買わないことが常識となって身に付いたそうだ。

この言葉にハッとさせられた。私も「欲しい」から買ったものに埋もれて、本当に必要なものはごくわずか。物が多すぎて、家の中が片付かないのが現状である。見るだけでストレスになるほど物を溜めておいて、それでシンプルな生活がしたいと思っているのは、とても身勝手で利己的な考え方であると反省した。Do you need it? そう自分に聞いてひとつひとつ整理すると、残るのはごくわずかであろう。

人は心が満たされていない分だけ、物で満たそうとするのだろうか。年に一回巡ってくるクリスマスショッピングのこの時期、特にアメリカでは家族の行事なので、義理も重なってあの人にこの人にもと、買い物は儀式化する。そして、クリスマスが過ぎるともらったけれど要らないものが行き場をなくす。今年は景気が後退しているため、買い物客の懐は少し固いと言われているが、私が見る限りどこの店も賑わっている。

飽和状態を超え、消化不良になっている私たち。特効薬はこの言葉。
「Do you need it? それは本当に必要?」

物だけで心は満たされないことに早く気づき、分相応にわきまえないと、大きなしっぺ返しが来ることになる。いや、もうそれは始まっている。今ここにこうして生かされているからこそ、できることがたくさんある。それがどれほど素晴らしいことか。何不自由ない生活ができる今の私たち。吾れ唯足るを知れば、欲望というぜい肉がとれ、体も心も健全になれる。

2007年12月18日

色のふしぎ

先月夫の叔母から、クリスマスのプレゼントにマフラーと帽子を編むので好きな色を教えてくれと聞かれ、たくさんある好きな色をすべて教えた。そして、叔母さんから昨日パッケージが届いて開けてみたら、なんと好きな色には入れていなかった大胆な真っ赤なマフラーと帽子が目に飛び込んできた。「やられた・・・」と思った。

叔母さんは霊感が人一倍強い人で、私が好きな色ではなく「必要な色」を送ってきたのである。本人に聞いてみたら、私の好きな色ではないとわかってはいたが、私へのギフトと考えたときに、赤が「編んでね」とささやいたのだという。

私の持ち物の中で、赤のものはほとんどない。衣類においてはゼロに近い。嫌いというわけではないが、自分から選ぶことはない色である。考えてみれば、子供の頃から赤には縁がない。

小学校で必要な持ち物のひとつに水筒があり、入学したばかりのときに、母と一緒にデパートに行って水筒選びをしたことを今でも覚えている。色々な絵が描かれた水筒がずらりと並んでいたが、色に関しては、ほとんどのものが上と下の部分が白で真ん中の絵の部分が赤(ピンク)か青であった。私は一目見ただけで、ひとつだけあった白地に緑の水筒に強く引かれた。母は女の子だから赤がよいのではと言ったが、私は緑がいいと言い張った。ドナルドダックのような絵が描いてあっただろうか。これからこの若草色の水筒と一緒だと考えただけで、胸がワクワクした。その特別な気持ちを今でもはっきり覚えている。

次の日、ランドセルに水筒をぶら下げて弾む気持ちで学校に行ったら、緑の水筒を持つ子はクラスで私だけだった。男の子は全員が青で、女の子は全員が赤かピンクだった。なぜ男と女で色が分かれるのか納得いかなかった。私は自分の水筒が大好きだったけれども、私一人だけ違っていて、男の子たちに冷やかされたのだろうか、その部分は覚えていないが、母いわく、その日私はショックを受けて学校から帰って来たという。

体育帽も男の子が青で、女の子は赤。ランドセルは男の子が黒で、女の子はやはり赤。なぜ女の子は赤なのか、私は赤は好きではないのに・・・そう思っていた。

そして、今でも緑や青、紫系の服が多く、特に青緑やロイヤルブルーの色は大好きだ。最近ではラベンダー色や優しいピンクも好きだが、概して身に付けて落ち着ける色が好きである。

赤はそれとは正反対。緑や青が夜の月に対して、赤は昼の太陽。交感神経を刺激して、活性化させ元気にさせる色。そして、人体の基本となる生命力やエネルギー、活力、生殖器に関わる第1チャクラの色である。

なぜ私は赤に惹かれないのか、その理由がここ5年くらいの間にわかってきた。5年ほど前にあるチャネラーにチャネリングをしてもらったときに、自分の誕生の時の悲劇について質問してみた。母から聞いた話だが、私は生まれるときに胎盤が首にグルグル巻きになっていて、ほとんど死んだ状態で出てきたという。チャネラーを通したガイドに、私はこの世に生を受けて生まれてくることに強い恐怖感を感じていたため、出たくなくて最後まであがいていたと言われた。

そのときは、へえーっとしか思わなかったが、その2年後くらいに、あるシャーマンにリーディングをしてもらったときに、血行不良から来る体調不良に関して尋ねたところ、私は上半身はしっかりと宇宙とつながっているが、地球に対する悲しみと戸惑いがあって尾てい骨から地球に向かって伸びるコードがとてもデリケートで細くて、地上を歩くことに躊躇している部分があると指摘された。頭で考えたら非現実的なことのように聞こえるが、実際はこの表現に妙に納得してしまった。これは顕在意識にはない領域のことなので、日常の生活の中では気づかないことである。

夏でも冷たい足をしている私の極端な冷え性は、下半身のエネルギーが停滞していることに深く関係している。運動しても、しばらくするとサーっと冷たくなる。シャーマンはにっこりして、こう言った。「自分の足でしっかり歩き、おとなしくしていないで、揺さぶってかき回してごらん」

さて、以前に私は過去生の夢を見ると書いたが、第1チャクラにトラウマを持つ人生をいくつか見た。このような情報を合わせてみると、無意識に自分の中で赤=生命を打ち消してきたのではないかと思う。最近早くも更年期(?)障害のような症状があり、今、第1チャクラに意識するときがきているように思う。

興味深いことに、ここ半年くらい、赤やオレンジに惹かれる。例えば、何気なく外の風景を見ていても、赤い色のものに目が引き付けられる。以前はそのようなことはなかった。とすると、やはり深い部分で赤を欲しているのだろう。しかし、そうわかってはいるものの、習慣に流されて、なかなか自分に赤を与えることができずにいた。

今回、叔母が編んでくれた真っ赤な帽子とマフラーは、私にとって特別なプレゼントとなった。すごく派手だが、不思議と抵抗なく身につけることができる。昨日も今日も身に付けて外を歩いた。なぜか気分がよく、自分の血が中でかき回されて喜んでいるのを感じる。そう、この色と一緒に自分の足で歩くと、血が動き回る感じである。どうも、私の中のもう一人の私は赤が好きなようだ。かすかだが、どこか深い部分が満足しているように感じる。

自分が好きな色、興味がない色、嫌いな色などを深く掘り下げていくと、気づかなかったことが浮かび上がるかもしれない。色はヒーリングをもたらす。顕在意識にない意識に焦点を当てることによって、自分の中で解決されていない部分に光が届き、やがて具体的に体の変化として現われてくるかもしれない。私にとっては、遠く古い記憶に遡って癒すときが来たのだと感じる。

2007年12月13日

リーダーの資質

ここ2年ほど、私はあるクラブで大切な役を努めさせていただいているが、リーダーとしてまだまだ未熟で、失敗を繰り返し、その都度学ばさせてもらっている。

この間も、メンバーのAさんの気持ちを傷つけてしまった。私はAさんにクラブの宣伝のチラシを作成する仕事をお願いし、彼女は彼女なりに毎日一生懸命デザインを考えて作成してくれた。しかし、私は仕上がったものを一目見た瞬間、それは自分が思っていたものとは大きく違っており、宣伝効果のないものだと判断したため、あっさりと他の人の前でボツにしてしまった。

私は、ただゴールだけが頭にあり、彼女の苦労など考える余裕がなかったのだ。そのことにも気が付かず、さらに彼女にここはこういう風に変更しろと指示をすると、彼女はそっぽを向いてしまった。今思うと、私より20歳以上年上の彼女に対して、私の態度は何と横柄で失礼だったことだろう。

彼女にそっぽを向かれたことが気になって、家に帰ってなぜそのような状況が起きたのかを考え直した。これは絶対理由があって起こっていることを知っているからである。すると、「私の弱点は目標を達成することに一心になって、他のものが目に入らないことである。過去生で目標達成は既に数多くこなして来たので、今生は過程を楽しむこと」と、友人から借りた「前世ソウルリーディング(ジャン・スピラー著)」という本に書いてあったことを思い出した。しまった、やってしまった・・・。

Aさんにお詫びのメールを送ろうと思ったが、その前に霊気を送って彼女に気持ちをつなげてみた。メンタルヒーリングをして、彼女の魂の部分に届くようにすると、よいエネルギーが流れていった。その後メールを送ると、すぐに信じられない返事が帰った来た。
「いいんですよ、過程を楽しみましょうね」
そして、彼女はその後はとても気持ちよく協力してくれた。コンピュータの技術的なことに明るい方なので、クラブとしても大いに助かっている。

しかし、今度はAさんが自分の意思を押し通して、クラブのみんなが不愉快な思いをするということが起こった。私はそれとなく彼女に注意したが、無視された。他にも怒っている人はいたが、誰一人として注意する人はいない。これでは何も解決せず、このままではクラブの問題として残ってしまう。

しかし、その当の本人が、今度はクラブのパーティで裏方になって支えてくれ、彼女のお陰で事がスムーズに運んだ部分もあった。また、ボランティア精神が旺盛で、他にも色々助けてくれる。ところが、勘違いをすることが多いので、みんなにとってイライラの元になることも多い。

こうなると、もうわけがわからなくなってくる。そう、人はさまざまな面を持っていて、状況もさまざまに変わる。陰と陽はグルグル回っていて、常に変化しているのである。

結局、すべては人との係わり合いの中にあり、人=心である。
完璧などなく、自分がどれだけ自分の目標に向かってチャレンジできるか、そして、自分がどれくらい気持ちよく過ごせ、人に心で接して、どれくらい愛の眼差しを向けられるかであろう。ゴールではなく、ゴールに行き着くまでの過程を、そのような姿勢で進んでいくことが大切なのであろう。

しかし、生身の人間。ストレスが溜まることもある。投げ出したいときもある。そんなときは、無理をしないで休むといい。まったく異なる環境に身をおいて、頭を空っぽにする、リラックスしてみる。するとまた、やっぱりやめないで続けようという気持ちが起こるものである。やる気が泉のように沸き起こってきたなら、やはりその仕事を続けるべきであろう。

私が思うリーダーとは

常に人と同じ高さにいて共に働き、人を下から支え、同時に上から見て全体を把握できる人

つまり、上中下のどのレベルでも柔軟に動ける人

人の良い部分を見つけ、認めて伸ばし育てる人

人の身になって考える人

自分と人の弱さを認める人

率先して動き、例として示す人

誠実で飾らない人

奉仕の心で動く人

頭の低い人

温かい心で接する人

情はあついが論理的に考えられる人

自分をさらけ出す人

人の意見を聞く人

ノーと言える人

人に失敗をさせる余裕のある人

最終的な責任をとれる人

人を信頼して仕事を配分する人

人がついて来る人

重圧も柳のようなしなやかさでかわせる人

強い意志と情熱と忍耐を持って、大きなビジョンに向かっていける人

常にプラスの思考に転換できる人

私も何度もやめたいと思ったことがあるが、結局いつも「人が好き」というところに行き着き、泉は枯れることはない。人に生かされている自分を見るからである。

リーダーの資質とは?・・・それをこれからも探求していきたい。

2007年12月12日

Practice Kindness

街を歩いていると“Practice Kindness”という言葉が浮かぶ
ここ3ヶ月くらい心に響いている言葉
今日もまた、買い物をして店から出てくるときに響いてきた
“Practice Kindness”とは親切を実行するということで、

「一日一善」にも近いだろう



親切な心
優しい心
人を思いやる心
あなたの中の高い部分
神からの贈り物

Practice Kindness
親切を実行する

簡単そうで簡単ではない
親切な心は余裕がないと出てこない
バランスがとれていないと出てこない
忙しいとき、ストレスが溜まってイライラしているとき、怒っているときは
誰でも人のことを考える心の余裕などなくなる
でも思い出して
誰にでもある親切な心

Practice Kindness
親切を実行する
純粋に親切な心は
相手の中に自分を見ることができ
自分の中に相手を見ることができ
そこから自然に沸き起こる

Practice Kindness
親切を実行する
それはあなたにできる最善のこと
それはどんな物質的なものにも勝る高価な贈り物
準備もいらない
大義名分もいらない

Practice Kindness
親切を実行する
親切の波動はあなたと相手を包み込む
それは相手の心を満たし
自分の心も満たしてくれる
人を思いやれば
あなたにも思いやりの心が返ってくる

Practice Kindness
親切を実行する
人を思いやる心は神の心
あなたの中の高い部分
神の心があなたを通して顕される
あなたが本来のあなたであれば
溢れ出るごく自然な心

Practice Kindness
親切を実行する
とても小さいこと、それでも大きく響く
とてもシンプルなこと、それでも複雑なことの中にしみわたる
とても優しいこと、それでも心を強くしてくれる
ほんの一瞬のこと、それでもいつまでも心に残る

Practice Kindness
親切を実行しよう
優しい心を広げよう