2008年12月25日

体を寄せ合うペンギンのように

あなた方一人一人はろうそくの光です
1本のろうそくの光よりも、10本の束の方が明るく
10本よりも100本の束の方が明るい

今こそ、お互いに助け合うときです



クリスマスの今日、心に流れてきた言葉。

この言葉を心の中で繰り返したとき、ふとペンギンの姿が浮かんだ。

マイナス80度の吹雪の中で、一塊になって体を寄せ合って耐えるペンギンの姿。横なぐりの強風がまともに当たる外側のペンギンは体力を消耗するので、内側のペンギンと位置を交代する。過酷な環境の中での愛と支え合い。そうやって、みんなでしのぐ。

他を生かすことは己れも生きることになる。

それが生き延びるためのペンギンの知恵。

世界に冬の時代が到来し、これから寒さはますます厳しくなる。

相手の中に自分を見、自分の中に相手を見ることができれば、自分だけよければよいという考えはなくなる。

ペンギンの知恵は、自然の大いなる智慧。

愛と支え合いの心に火がともる。


あなた方一人一人はろうそくの光です
1本のろうそくの光よりも、10本の束の方が明るく
10本よりも100本の束の方が明るい

今こそ、お互いに助け合うときです

2008年12月18日

もうひとつの結婚?

「今のだんなさん以外に、もう一人結婚してもよかった相手がいましたね」

ええーっ!?

沖縄に旅行中のある夜、旅のお相手のひよこさんと、ホテルの部屋でくつろいでいるときのことだった。ひよこさんは手相に詳しいということで、以前、遊び半分で、何人かで軽く見てもらったことがある。そのときに、私の結婚線をちらっと見たひよこさんは「あれっ?」と首をかしげて、「後でメールしますね」と言った。

夫のことで何かあるのだろうか、これから何か起こるのだろうか、そう思うと少し怖くなった。結局メールは来なかったし、今知る段階ではないのだろうと感じたので、流れに任せることにした。

知る準備ができたのは、岡部明美さんのワークショップに参加して、長い間自分の中にあった壁が破れ、壁の向こうで待っていた大切な自分の一部に気づき、大きな意識の変化が起こった後のことであった。

ひよこさんによると、手相というのは、ものすごい数の人の手相から集められた情報に基づく統計学だという。手相というと運命が決まっているかのように考えがちだが、創造する方の手の線は、どんどん変わるということである。まさに、自分の意志で道を切り開くのである。

過去の情報に関しては、幼い頃から今までに起こった大きな出来事の情報が、年齢と共に手に刻まれている。私の場合は20歳と35歳と出ていた。20歳は啓示的なメッセージを受け取ったとき、35歳は目に見えない世界への入り口に立ったときで、どちらも人生の目的へと太く通じる出来事であった。どんぴしゃり。

次に、問題の結婚線。一瞬緊張した。

ひよこさんは、とても柔らかい優しい声で「23歳から24歳のときに、結婚してもよかった人がいましたね」と言った(ちなみに結婚したのは29歳のとき)。

えっ?その年齢のとき、私には付き合っている人はいなかったけど・・・。

おかしいなあと思いながら寝て、朝起きた時に「あっ!」と声を上げそうになった。

大学を卒業して就職した会社の同僚で、とても気の合う人がいた。漫画「うる星やつら」のあたるに似ていたので、いつしか他の同僚から「あたる」と呼ばれるようになり、私もそう呼んでいた人。

彼は営業課で私はシステム課。職場はビルの向こうとこっちで離れていたが、彼はよく私を誘ってくれ、退社後、二人でお茶を飲みに行ったり、食事をしたり、コンサートに行ったり、週末もよく会っていた。今思い返せば、それは23歳のときのことであった。

当時、新卒の新入社員は、男女合わせて23人だった。いつもみんなでつるんでいたので、上司や先輩からは「新人類」と呼ばれ、「ここは仲良しクラブじゃない、社会人としての自覚を持て!社会に出れば、同期だってみんな競争相手なんだー!」と先輩にカツを入れられたこともあったが、そんなことお構いなし。退社後、みんなで食べに行ったり遊びに行ったりと、本当に仲がよかった。

私にとって、あたるはその延長線上にいた。一緒にいて何の違和感も感じない、完全に安心できる相手だった。

しかし、それは長くは続かなかった。私は職場の仕事が自分に合わなくて病気になったため、入社1年後に辞職した。それがきっかけで、あたるとは以前ほど会わなくなった。それから2年後の26歳のとき、私はアメリカに留学。その年、あたるは家業を継ぐため退職して、ほどなく結婚した。

それであたるとのストーリーは終わりのはずなのだが、実は、彼はつい最近まで、しばしば私の夢に登場していた。しかも、彼が出てくるときは、必ずと言ってよいほど恋愛感情が絡んでいた。あのときはなかった感情・・・。

と思っていたのは、浅い部分の私で、深い部分の私は、あたると強く繋がっていたことを知るに至った。この結婚線がきっかけで、今まで記憶の端っこに散らばって引っかかっていたパズルのピースが、一気に吸い寄せられて繋がった。

彼だけが私を「じゅんちゃん」と呼んでくれていた。これは子供の頃だけ呼ばれていた、聞くと心がポッとあったかくなる呼び名。中学・高校のときは専ら「くら」、大学時代には「くら」または「くらじゅん」。どちらも個人的にはあまり好きでない呼び方だった。

子供の頃の自分が本来の自分に一番近いとしたら、大人になってからでも、彼が唯一、意識の深い部分で本来の自分と繋がっていたのかもしれない。

誕生日に「たまたま」チケットが2枚あるから、と言ってコンサートに連れて行ってくれた。退社後食事に行った後は、必ず車で家の前まで送ってくれた。1時間半くらいかかる通り道のりを、夜遅いのに。

そこから彼の家まで戻るには、高速でも1時間以上かかり一般道路なら3時間近くかかるので、時間とお金を節約するために途中でサウナの仮眠室に泊まって、そこから出勤していたということを、後から知った。

会社のクリスマスパーティで、私が着ていたブラウスの襟が首のところでひっくり返っていたのを、後ろから黙って直してくれた。私が病気になったときは、私の課の同僚と一緒に、家までお見舞いに来てくれた。そして、私がアメリカに留学するときには、出発直前に空港に駆けつけて、私の両親と共にデッキで見送ってくれた。

夜遅く家の前まで送ってくれても、指一本触れたこともないし、付き合っているとか好きだとか、そういうことは一度も言わなかった。仲のよい友達・・・。

その彼と、今から12年ほど前帰郷した際に、7年ぶりに会って一緒に食事をした。アメリカに戻るその日、空港へ行く途中で会った。家業を継いで伝統職人になった彼。ちょっとフケて見えたので驚いたが、奥さんと家内別居状態だった。3人の子供がいて、一番下の子供はまだ2歳にも満たなかった。きっと様々な精神的苦労があったのだろう。奥さんとのすれ違いの話から、過去の話に移った。

「全然変わってないね」と彼が言った。

「私、あたるがすぐ結婚したからびっくりしたよ」

「じゅんちゃんが、アメリカに飛び立ったとき、『ああ、この人は本当に飛び立って行ってしまった』と思った。家のこともあったから早く結婚したかったし、そう思っていた時に、今の奥さんと出会ったんだ・・・でももし、あのとき俺とじゅんちゃんが結婚していたら」

その瞬間、カーッっと自分の頬が赤くなるのがわかった。ええっ!?そんなこと考えていたの!私たちは付き合っていたのか!と、心の中で慌てふためいた。

彼と結婚していたら、私の人生はどうなっていただろう。伝統職人の家へ嫁いで、同居。いや、もうそこまででも考えられない。あり得ない。

「じゅんちゃん、幸せ?」そう微笑んで聞いた彼の顔には、あのときの彼と、今の傷ついた彼が交錯していた。

食事だけのつもりだったのに、時間があるからと言って、結局、彼は空港まで送ってくれた。最後に、お互い国は離れていても頑張ろうねって力強く握手して、私は保安検査場へと歩き始めた。すると、後ろから追うように、彼の声が飛んできた。

「だんなさんに優しくしてあげなよ!」

私は振り返って、アッカンベーをした。

結婚してもよかった相手と、結婚した相手。

あたると夫には、大きな共通点がある。

どちらも、私を一人の人間として尊重してくれ、それとない形で優しく包んでくれる。ある感謝の念が沸き起こった瞬間、夫とあたるは固体としては異なるが、同じ種類の魂として重なった。

私を支えてくれる魂。

見えている世界の裏側にある見えていない世界が、心の目に浮かんでくる。26歳のあの日、空港での見送りを境に、私とあたるの道は離れた。あたるは家業を継いで結婚し、私は、やがて夫と出会うきっかけとなるアメリカへ。あのとき、あたるから夫へバトンタッチがあった。

結婚線が語ったストーリーは、私を促す。

だからこそ、今を大切に生きなければ。

2008年12月16日

この世に大切なのは・・・

♪ この世に大切なのは~
愛し合うことだ~けと~
あなたはおしえてく~れる~ ♪

10月23日。日本へ出発の朝、搭乗機が離陸し、空へ向かって上昇する。雲の中に差し込んでくる太陽の光をボーっと見ていたら、いきなりこの歌が頭に浮かんだ。意識を向けて心の中で繰り返してみる。その瞬間、急に涙がこみ上げた。

そういえば、半年前の4月、沖縄を発つ飛行機の中で、眼下に広がる海をボーっと見ていたときにも、いきなりこの歌が頭の中に入ってきたのだった。松崎しげるの「愛のメモリー」

「この世に大切なのは、愛し合うことだけ」

今、この言葉をしみじみと噛み締める。

すると、ある出来事が思い出された。かれこれ14年前のこと。ある夜、アラバマにいるトムから私の夫に電話があった。

16年前、夫と私はサンディエゴに住んでおり、そこでひょんなことからトムと知り合った。彼との接点は国際結婚。トムとはそれほど親しいわけではなかったが、結婚に関わる移民法のことで夫が彼の相談に乗ってあげていたことから、以後、トムはときどき夫に近況報告をしてくるようになった。

当時トムは航空会社に勤めていたが、ある日、空港で若い日本人女性と電撃的な出会いをし、恋に落ちた。その場で彼女に声をかけ、2回めのデートで一緒にスキューバダイビングをしたという(ちょっと変わったデート?)。20歳以上年下の彼女は、数回デートした後、彼のプロポーズに応えた。

留学生としてアメリカに渡った当時23歳の娘が、自分たちとさほど年が変わらない男性と突然結婚するというのだから、それも、これからずっとアメリカに住むというのだから、親は反対しないわけがない。

しかし、そんな親の反対を押し切って、二人はあっという間にゴールイン。トムは全然カッコよくない、頭のはげた気弱な中年のおじさん。結婚式でも、トムの方がビービー泣いていて、彼女がそんなトムの肩にそっと手を置いていた。なんで彼と結婚するのだろう?

私は、彼女はアメリカにいたいから打算的な考えが働いたのだろうかと最初は疑っていたが、彼女と個人的に話してみたら、彼女にとってもやはり運命的な出会いだったという。「これだけ年が離れているから、彼が私よりずっと先に死ぬことは覚悟してる」と笑ってみせた。若くても彼女はしっかりした女性だった。

結婚してすぐに二人の間に男の子が産まれ、やがてトムは異動で一家はアラバマへ。まもなく航空会社に不況の波が押し寄せ、トムは職を失う。彼女は専業主婦なので、たちまち収入源が断たれる。貯金も底をついた頃、トムは同じ業界でやっとパートの仕事にありつけた。

極端に切り詰めた生活が続く。トムは節約のため、奥さんが作ってくれたお弁当を持って、毎日早起きして、雨の日も風の日も、家からの長い道のりを自転車で通勤した。クタクタになるまで一生懸命働いて、それでもまた自転車をこいで帰らなければならない。毎日毎日この生活が続く。

パートの給料はしれたもの。生活費、すくすく育つ赤ん坊のミルクやおむつ、洋服代にお金は消えていく。日本にいる彼女の友達の多くは、きっとブランド物に囲まれて、優雅な独身生活を楽しんでいるのだろうが、彼女は家計のやりくりにヒーヒー言って、子育てと家事に追い回される。現実世界は厳しい。

トムだって同じ。趣味や遊びにお金を遣うわけでもなく、やっとありついた仕事を再び失わないように、ひたすら家族のために働いている。彼だって苦しい。

14年前のその夜、夫にかけてきた電話でトムはこう言った。

「ぼくは毎日毎日自転車をこいで、疲れて眠くてフラフラになりながらも、それでも一生懸命自転車こいで仕事に行くんだよ。こんな生活苦しいさ。でもね、仕事があるだけ有り難いと思っている。今はね、雨露しのげるだけの場所があって、家族が元気に一緒にいられたら、それだけで僕は幸せなんだ。彼女と一緒にいられるだけで嬉しいんだ。

今日は結婚記念日だったから、お金がなくて彼女にプレゼントなんてあげられないけど、でもせめて彼女と一緒に祝いたくて、3ドルの一番安いワインを買って、かばんに入れて、一生懸命自転車こいで帰ってきたんだ。彼女の喜ぶ顔を想像してね、それを思うと疲れも吹っ飛んだ。

でも、家に着いて彼女にワインを見せた瞬間、彼女なんて言ったと思う?
『ワインを買うようなお金があったら、なんで生活費に回してくれないの!』
目を吊り上げて、すごいけんまくで怒鳴るんだよ」

そう言って、電話口で泣いていたという。私にこの話をする夫の目も涙ぐんでいた。

悲しい。きっとトムは自分を情けなく思っただろう。

でも、彼が悪いわけではない。彼女が悪いわけでもない。生活が苦しくなってくると、誰だって心がカサカサしてくる。相手を思いやる余裕なんてなくなってくる。

景気後退、大幅な減益、派遣切り、採用取消し・・・毎日ニュースは不況のことばかり。不安は体を硬直させる。日本もアメリカも冷え込む経済で、この冬はさらに寒さが身にしみる。

トム一家はあれからどうなっただろう。その後連絡が途絶えたままだ。

複雑で困難で先が見えない暗い今の世の中、世界中にあのときのトムと彼女がいる。

カサカサの心を潤してくれるのは安心感。物質で心が潤されることもあるけれど、それ自体は厳しい冬を暖めてくれる炎のような暖かさは持っていない。

凍えるような心には、人の心の温かさが一番あったかく感じるものである。

こんなときだからこそ、互いに寄り添って
辛いときだからこそ、強い絆で支え合い、励まし合い
慈しみ合い、暖め合って
荒波を乗り越えよう
きっと乗り越えられる

飛行機の中で聞こえてきたあの歌は、天からのメッセージ

この歌に涙あふれるのは、心は知っているから

「この世に大切なのは、愛し合うことだけ」と

2008年12月12日

シアトルに戻りました、ブログ再開です


ブログを2ヶ月近くご無沙汰してしまいました。日本へ帰っていたのですが、なんせ実家に置いてあるチョー遅いコンピュータで、これに輪をかけて遅いダイヤルアップでしか接続できず、それだけでストレスで頭が爆発しそうになったので、ブログはお休みさせていただいていました。

こちらシアトルに戻って約1週間。ようやく時差ボケもとれてきましたので、そろそろブログを再開したいと思います。「どこ行った~、日記は書いたか~」とチェックしてくださっていたみなさん、どうもご迷惑をおかけしました。

これからまた、自分なりに気づいたこと、体験したことを書いていこうと思います。これまで、お付き合いくださってありがとうございます。拙い文章ですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さてさて、日本へ行く前に日記に書いた「キツツキの合図(http://hoshinoto.blogspot.com/2008/10/blog-post_15.html)」、あれはやっぱりそうでした。

<抜粋>
・キツツキが現れたときは、新たな霊的な飛躍が訪れるときであるという。
・その独特なリズムは、私たちに地球や他の動物の鼓動に合わせることを教えている。
・人生に新しいバランスが訪れることを象徴している。
・キツツキが現れたとき、それは、成長が加速し、癒やしの新しいリズムと能力に目覚めるときである。
<抜粋終わり>

日本で何が待っているのだろうと思った時、
「起きる出来事、出会う人々、目に入ってくるもの、耳に聞こえてくるもの、湧き起こる感情。それらひとつひとつに偶然はなく、意味がある。自分の気づきと成長へとつながる」という言葉が浮かんだのですが、まさにその通りでした。

今回の帰郷は今までで最も長く、夫をシアトルに置いて自分だけで帰ったので、自分のペースで自由に動くことができました。横浜にいる双子の魂の友人を訪ねたのを皮切りとして、伊勢神宮、大神神社(奈良 山の辺の道)と周辺神社にお参りし、ソウルメイトの友人と宮古諸島・沖縄本島11日間の旅(不思議いっぱいの珍道中)をして、さらに沖縄の旅の途中で岡部明美さん(http://anatase.net/)のワークショップに参加しました。両親、姉、甥、そして何よりも自分自身に対して新たな気づきがありました。

私にとって今回すべての体験が特別で神聖なものとなり、沖縄の大自然と繋がることで、自分の原点に戻ることができました。岡部明美さんの衝撃的な(!)ワークショップで私は自分の中のバランスを取り戻し、生きることの素晴らしさを全く違う角度から発見することができました。そして、自分の人生の新たな船出へと・・・。

今回の旅は、私をそのような方向へと優しく押し出してくれました。

旅で出会ったすべての人、訪れたすべての場所、起こったすべての出来事に感謝します。

次に何が起こるか、人生面白くて仕方ない、そんな心境です。

このゼロ(原点)に戻る旅の話を、これから少しずつお話したいと思います。


<写真:来間島の長間浜>

2008年10月15日

キツツキの合図

キツツキの合図

「トントントン」

1ヶ月前の日の午後のこと。月例のサークルから帰宅し、自分の机にあるコンピュータのスイッチを入れたとき、外で何かを打ち付けるような音がした。少し離れた所に工事中の建物があるので、音はそこから来ているのかと思い、特に気にせずメールをチェックしようとすると、さっきより強い音がした。

「トン トン トン」

ホームオフィスとして使っているこの部屋の外はバルコニーになっており、その上の方から聞こえてきた。上の階の人がバルコニーでちょっとした大工作業でもしているのだろうか、と思ったがコンピュータから目を離さないでいると、さらに強い音がした。

「トン ! トン ! トン ! トン !」

もう無視できなかった。何をしているのだろうと思って注意を向けてみると、それは上の階より少しこの部屋に近い所から発せられているように聞こえた。

私の机の横はすぐバルコニーの窓になっており、窓の外を見て椅子から立ち上がろうとしたとき、窓の上と上の階のバルコニーの間くらいから、パタパタッと鳥が羽ばたいて飛び去った。

ハトほどの大きさがあり色は灰色っぽく、胸のあたりが褐色で少し丸っこい鳥。大きく黒いまん丸な目をしており、飛び去るときにチラッと私を見たようだった。今まで一度も見たことのない鳥。

バルコニーに出てみて見上げると、どうやら屋根の一部の木の部分を叩いていたようである。そこに巣があるわけではなく、どうも虫か何かをつついていたようだ。

「あっ!キツツキ」

頭にひらめいた。そういえば、一瞬見た鳥のくちばしは、普通の鳥のものより長かった。さっそくインターネットで調べてみると、先ほど見たような鳥の写真が見つかった。キツツキにも種類があり、私が見た鳥は代表的なキツツキとは少し違っていた。

この家に住んで15年になるが、キツツキが来るなんてことは初めてである。キツツキというと森の中というイメージがあるが、私が住んでいる所は比較的街の中である。近くに小川が流れる自然公園があるので、そこから来たのかもしれない。

不思議だったのは、現れたタイミングとその場所。それは、他でもなく、私が霊気サークルの集まりから帰った直後、自分の創造的な活動の中心の場である机に向かったときのことで、外にたくさん自然の木があるにも関わらず、その机が面している壁の外側の木の板が張り付けてある場所で始まった。

これは、私へのメッセージではないだろうか。いつからか、このようなことに遭遇すると、それは何らかのメッセージなのだと思うようになった。自分の中で霊的な気づきが始まり、日々の生活の中で様々なメッセージが発せられていることに気づくようになってから、メッセージはより一層明らかな方法で来るようになった。

例えば、クモが私の方へ突進してきて目の前でピタリと止まったことがある(そのときの日記はhttp://hoshinoto.blogspot.com/2008/08/blog-post_07.html に)。花も咲かない2月の寒い日に、バルコニーに出て下の庭を見ていたら、どこからともなく突然白いチョウが現われて、ヒラヒラと目の前を横切っていったこともある。動物や昆虫は、メッセンジャーの役割をしてくれる。今度は、キツツキがメッセージを運んできたに違いないと思った。

どんなメッセージだろう。動物が象徴する事柄を説明したテッド・アンドリュー著の「Animal Speak」をさっそく開いてみた。

説明によると、キツツキが現れたときは、新たな霊的な飛躍が訪れるときであるという。喉、眉間、頭頂のチャクラが刺激され、隠れた才能が開花し直感力が活性化される。

キツツキは木を叩くことから、ドラムの達人と言われている。その独特なリズムは、私たちに地球や他の動物の鼓動に合わせることを教えている。自分が宇宙と自然のリズムからずれているときには、物事はうまく行かないということに気づかせてくれる。

キツツキのもうひとつの特徴は、頑丈で鋭いくちばしを使って木を叩いて穴を開け、そこに長い舌を突っ込んで幹の中にいる虫を食べることである。この舌のお陰で、くちばしを使って作った穴から栄養を抜き出すことができる。

口と、舌をはじめ口に備わっているものは、消化をして命をはぐくむ基点となるもので、口という部分には食べ物と言葉が深く関係する。食べ物を消化することは言葉を「理解すること」に当たり、命をはぐくむことは「魂」をはぐくむことに相当する。物質世界と精神世界は、このように表裏一体をなしており、キツツキが現れたときは、自分の人生において言葉がより重要になるときであることを示唆している。

さらに、キツツキは他の鳥とは違って、趾(あしゆび)が前と後ろに2本ずつあるため、幹の側面でバランスを保ち、木を登ることができることから、人生に新しいバランスが訪れることを象徴している。

キツツキが現れたとき、それは、成長が加速し、癒やしの新しいリズムと能力に目覚めるときである。

と、このような説明になっている。

興味深いのは、私が見たキツツキが叩いたリズムは、「トン トン トン」と比較的ゆっくりしており、しっかりしたリズムであったことだ。以前、別の種類のキツツキが木を叩くところを見たことがあるが、それはドリルで穴をあけるときのように「ガガガガガガガガ」と、ものすごい速いスピードだった。ということは、私自身がこれから宇宙と繋がる新しいリズムは、穏やかなものなのかもしれない。しかし、それは力強く着実にやって来るように感じる。

1週間後に日本へ帰り、今回は12月初旬まで滞在する予定である。夫をシアトルにおいて・・・。日本で何が待っているのだろう。

起きる出来事、出会う人々、目に入ってくるもの、耳に聞こえてくるもの、湧き起こる感情。それらひとつひとつに偶然はなく、意味がある。自分の気づきと成長へとつながる。

キツツキの合図をしっかりと受け止めて、自然のリズムに心の耳を傾け、着実に進んで行きたい。

2008年10月12日

松のおしえ


松の種が岩の上に落ちた
岩の表面にはわずかながら土があったので、種から芽が出た
種が芽を出すのは自然のプロセス

しかし、そこからが大変である
下が岩であることを知っていたら、種はそこに落ちたであろうか
残念ながら、種は場所を選べない

「こんなはずではなかった!」
「岩があったら成長できないから、生きるのはやめよう」

松はそう言っただろうか
いや、「ね」を上げるどころか、むしろもっとしっかり「根」を張ることにした

松は知っている

自然のプロセスに従って一生懸命生きることが、自分のなすべきことであることを
命は与えられたものであり、強く生きていくことこそが、自分のなすべきことであることを
逆境にも工夫して柔軟に適応できる能力があることを

「他の松ほど大きくはなれないけれど、他の松より多く根を張れば、それなりに生きていける」
「これが与えられた環境で最善を尽くした自分の世界」
「背は低くても、大人になったら実をつけて種を残そう、今度は子供たちがよりよい場所で生きていけるように」

松はそんなことは考えない
それが自然の当たり前の姿だから
それが自然のありのままの姿だから

しっかりと地に根付き、自分を支えている
今を一生懸命に生きている

与えられた命を生き抜くことは
自分自身に対する責任

自然はみんなそうしている
それが当たり前のことだから
それがありのままのことだから

人間も自然の一部だから
この松のように与えられた命を生き抜くことが
自分自身に対する責任

写真:ウィスラーマウンテンにてハイキングの途中で見つけた木

2008年10月6日

生きる力のプレゼント





昨日、私は天から降ってきたような思わぬプレゼントをいただいた。

私の友人は、シアトルに住む日系人の高齢者のために、食事会や小旅行などの楽しい行事を計画して実行する仕事をしている。その友人から一昨日電話があり、参加者が一人急に欠席することになったので、その代わりに私に来ないかということであった。クルーズ船の中でジャズを聴きながらブランチをするという行事で、支払済みのチケットが1枚あるという。

エリオット湾上をクルージングしながらブランチとジャズを楽しめる、それもタダで、ということで、私は二つ返事で招待を受けた。

前日シアトルは嵐で、停電になるほどの猛烈な風雨に見舞われたが、昨日は風はすっかりおさまり、時折うっすらと青空さえ見えた。

参加者は全部で16人。ほとんどの方が80歳以上で、一番高齢の方は91歳の男性だった。といっても、皆さんとても元気。少々足が悪くても、杖を突きながら積極的に様々な行事に参加されている。昨日も、皆さんとても80代とは思えないほど、イキイキハツラツとしていた。

この方たちはアメリカで生まれ育った日系二世。親はアメリカに移民としてやって来た。ほとんどの方は英語を話すが、日本語も大体わかるようである。

高齢者の方たちと一緒にいると、とても穏やかなエネルギーに包まれて心がホンワカする。私の両親よりかなり年上であるが、気分が若いので、ほとんど自分の親と話している感覚だった。埠頭までのバスの中で、私の隣に座ったキヨコおばあちゃんは、おもむろにバッグから梅干あめを出して、私にくれた。昔の日本のおばあちゃんみたいである。皆さん、日本には特別な思いがあるようで、私の出身地や家族のことなど、色々と尋ねてきた。

船に乗り、ジャズの演奏が始まると、ダンス好きの私の友人はリズムに乗って体を揺すり始めた。すると、その隣に座っていた91歳のジェームズおじいちゃんも、足でリズムを取り、恥ずかしげに音楽に合わせて手を動かし始めた。それを見て、みんながニコニコしてジェームズおじいちゃんを写真に撮ったり、一緒に体を揺すったりと、とても和やかな雰囲気になった。

このおじいちゃん、おばあちゃん、本当に楽しそうだなあ。でも、その裏に、皆さん計り知れない苦労や苦しみ、悲しみがあるのである。アメリカの日系人は第二次世界大戦中、ライフル銃を持った兵士が監視する強制収容所での辛い生活を強いられた。

ミヨコさんは、小学6年生のとき、たまたま祖父母を訪ねて日本に遊びに来ていた最中に戦争が勃発し、両親は強制収容所に入れられ、自分は終戦まで徳島の祖父母の所に残る破目になった。外見は普通の日本人と何も違わないが、字は平仮名しか読めなかった。地元の小学校に通うことになり、読み書きができないため1年生のクラスを勧められたが、本人はそれは絶対に嫌だったため、無理押しして6年のクラスに入った。

元々色白のミヨコさん、日本人の顔をしていても中身はアメリカ人。日本語もおぼつかない。クラスの男の子たちに、「メリケン子(粉)」と言ってからかわれた。悔しくて悔しくて、家へ帰って毎日泣いたそうだ。そんな彼女に祖父は人の10倍頑張れと言って励まし、彼女は本当に人の10倍頑張って、後にはクラスでトップの成績を取れたという。これは並大抵の苦労ではない。

楽しそうにリズムに乗っているジェームズおじいちゃんも、そのような時代に日系人の男性としてアメリカで生きていくには、大変なご苦労があっただろう。誰もわざわざそのときのことに触れて胸中を語るようなことはしないが、私には想像もできない辛い思いがさぞたくさんあったのだろうと思うと、何とも言えない気持ちになった。

戦争に翻弄され、差別と屈辱の時代を生き抜いて来られたこの方々。皆さんそれぞれに、家族を思い、子供の未来を思い、アメリカ国民としてアメリカのために人の10倍頑張って生きて来られたのだろう。

今ここで明るくニコニコ笑っている。自分から積極的に外へ出て行って、元気に今を楽しく生きている。その姿に胸がジーンとした。

この日、私はクルージングとジャズとブランチだけでなく、おじいちゃん、おばあちゃんから、生きる力というプレゼントを逆にいただいて帰って来た。


写真1: エリオット湾から見えるシアトルのダウンタウン
写真2: 船内のブランチ

2008年9月30日

3回目の水星の逆行

今年の1月末の日記に、水星の逆行のことを書いた(http://hoshinoto.blogspot.com/2008/01/blog-post_28.html)。

それが2008年の第1回目の逆行。第2回目は5月から6月にかけてあり、第3回目は先週9月24日に始まった。終わるのは10月15日である。

水星が逆行するときは、コミュニケーションや交通、それに関連した通信機器などに乱れが生じるときであるという。先日、日本では東北新幹線で信号トラブルによる運転見合わせがあり、アメリカではスペースシャトルの打ち上げが延期されたのは、逆行の影響かもしれない。

また、過去に解決されていないことが別の形で浮上したりして、もう一度見つめ直さなければならない状況になる場合もある。逆行には過去のことが関係するようで、古い友達やずいぶん長い間会っていなかった人にばったり会ったりすることもある。

この期間は物事がスイスイとうまく進むときではないため、新しいことを始めるのは控え、きちんと終わっていないことを完結させるようにする方がよいらしい。麻生新内閣は、まさに逆行が始まったときに発足した。中山氏の辞任でいきなりつまづいたのも、逆行に関係するのだろうか。国民の支持率もあまりよくない新内閣、これからどうなるのだろう。

逆行の期間は、エネルギーが内向きになるときなので新しいことを進めるのではなく、「きちんと終わっていないもの」を片付けるときであり、スローダウンして内省するときである。内省することにより見えてきたことを基に、転換して行くチャンスのときでもある。

昨日、夫が瞑想のクラスに行った。こっそりと申し込みをしていたみたいで、ずっとバタバタ忙しく外を飛び回っていた彼が、急に瞑想のクラスへ行くと決めたことに私は驚いた。以前に座禅を少ししていたが、再開するのは何年ぶりだろうか。

クラスから帰ってきた夫が言ったことには、もっと驚いた。そのクラスの先生はもう20年も教えているが、昨日のクラスが今までの中でまれに見るほどの人数だったそうである。収容人数80人ほどの部屋に、普段は20~30人ほどだっただろう。それが、昨日は90人くらい来たそうだ。

先生は、「きっと瞑想をして内省し、金融危機を乗り越えようとここに集まったのかも」と冗談を言ったそうだが、水星が逆行中で新月の日の昨日は、瞑想を始めるにはパーフェクトなタイミングと言えるだろう。

変化が激しい昨今、意識をつなげて自分の軸を強化させるためにも、この時期に瞑想に力を入れてみるのもよいかもしれない。

加速する船

9月18日に見た3つめの夢。

「人を乗せた背の高い大きな船が、大きな川を緩やかに進んでいく。私もその船に乗っており、ゆったりとした航行を楽しんでいる。

すると突然、船がスピードを上げて暴走し始めた。カヌーやカヤックに乗った人が突然目の前に現われるが、猛スピードで走る船はそれをよけることはできず、カヌーとカヤックにぶち当たって乗っている人たちをひき殺してしまう。

はるか上のデッキから見た恐ろしい光景。しかし、船はあまりにも大きいため、衝突したときのインパクト自体は小さく、乗船している人は気にもとめない。

私も、人の命が一瞬のうちに奪われたことの恐ろしさを感じる前に、それがあまりにも速いスピードで起こり、船はそのままものすごい勢いで進んで行き、川の両側の景色が次々と変わって行くため、気にする余裕もないというのが正直なところである」


これが、朝方に見た3つの夢のうちの最後の夢だった。起きて朝刊を見ると、「ワシントンミューチュアル(銀行)売却先を検討」という字が目に飛び込んできた。私の取引先の銀行である。しかし、私の中のある部分は既に知っていたかのように、なぜか全く動揺しなかった。

リーマンブラザーズの破綻に始まり、バンク・オブ・アメリカによるメリルリンチの買収が続く中、次はワシントンミューチュアルかと、パニックに陥った人々が預金を解約しに殺到した結果、キャッシュフローの問題が生じて、ついにワシントンミューチュアルも破綻。結局、JPモルガンが買収するに至ったが、9月15日の満月の日を境に、雪崩のようにこの一連の出来事が起こった。

この夢で、私は船の上にいた。英語に「We are in the same boat」という表現があり、これは「同じ境遇にある、運命を共にする」という意味である。船は、地球という運命共同体を象徴していたのだろうか。

今年に入って、さまざまな事が今までにないレベルで急激に変化している。特に夏以降激しくなっている。私たちが気づこうと気づくまいと、変化は着々と進んでいる。それを感じ取っている人も多いだろう。これからは、柔軟に速いスピードで意識を転換していかないと、ついて行けなくなるかもしれない。

ワシントンミューチュアルに個人年金口座を持っている私は、実は、既に3ヶ月ほど前に来るべき危機を感じ取っていて、資金を動かそうかと不安になったことがあった。そのとき、頭の中に入ってきた言葉が「不増不減」だった。般若心経にあるこの言葉。

さまざまな事が起こっていても、結局、全体としては増えることもなく減ることもないという意味の言葉。この言葉に、フッと心が楽になった。

顕在意識では不安や恐怖に揺れる自分の姿があったが、それを超えて最も高い視点から見た場合、不動の自分があった。損をしないようにしないようにとハラハラして、しがみついたりこだわったりする分だけ、苦しみも多くなるように思う。

私にとって、この「不増不減」という言葉は、自分の軸をしっかり固定させる上で役立った。

意識を転換するコツは、出来事に過剰に反応して恐怖心でグラグラ揺れることではなく、むしろ平常心を保ち、変化が来た時に古い考えを捨てて頭を切り替え、しっかり前を見据えて新しい波に乗っていくことであるのだろう。

2008年9月21日

イソップ風(ふう)夢物語

先日、3つ見た夢のひとつを日記に書いたが、今日は2つめの夢について。ユニークな「材料」で作られたこの夢は笑える内容だが、そのメッセージ性は興味深かった。

夢:
「10年前に夫と私が旅行しているときのこと。使わなかったティーバッグがいくつか出てきて、荷物の整理をする時に邪魔になったので、処分したかった。ところがティーバッグは一箱になるほど数がなかったので、私たちは悪知恵を働かせ、真ん中あたりにインスタントの味噌汁やふりかけの袋を忍ばせて、空いているスペースを埋めた。そして、その箱をインド人が経営する店に売った。何も知らないインド人の経営者は、それを快く買ってくれた。

10年後、私たちは旅行することになり、たまたま同じ地を訪ねた。いくつか必要なものがあったので店に立ち寄り、そのときについでにティーバッグも一箱買った。

その箱の右端に袋の取り出し口があり、そこから毎朝一袋ずつ出してお茶を作って飲んでいた。数日後、次の袋を取り出そうとすると、インスタントの味噌汁の袋が出てきた。『あれ?』と思い、箱のふたを開けて調べてみると、味噌汁のほかに、ふりかけの袋もいくつか出てきた。

『なんだこれ!』と腹を立てたそのとき、ふと気づいた。

それは、かつて自分がごまかして売ったものであった」

動物を使ったらイソップ物語にでもなりそうなこの夢。折しも日本では不正米の転売、中国では粉ミルク汚染の問題で揺れている。昨年あたりから食品の偽装事件が後を絶たないが、こういうものは、もう芋ずる式にどんどん出てくる。

ごまかしたり、だますようなことをすると自分に返ってくる。とても単純なことなのに、欲が出たばかりに間違いを犯す。

社会で起こっていることは個人にも当てはまる。個人で起こるから社会でも起こる。作用と反作用、裏と表。

うそやごまかしは、程度の差こそあれ、誰でもあると思う。誰でも陥る落とし穴。事件を起こした会社だけを責めるのではなく、これを教訓に、自分の行いや判断を見つめ直すときかもしれないと、この夢を見た後で思った。

2008年9月19日

芯を突いた夢

今朝方、3つ夢を見た。その中のひとつはこんな夢だった。

「ある少女は、自分が周りの人と違っていることが嫌で、他の人のようになりたくてもなれないことに落ち込んでいた。自分は劣っていて価値がないと思い、自分のことが嫌いだった。そんな自分は人からも嫌われていると考え、人を恨んでいる。そのため暗い性格になり、社会に対しても反感を持っていた。

そこへ賢者の声がして、彼女にこうアドバイスをした。
『あなたはユニークな存在で、他と違うのは当たり前。一人一人が違っているのが自然なのです。違っていることは素晴らしいこと。それは、あなただけが持っているものなのですよ。そのことに気づいて自分に自信を持って、自分を好きになりなさい』

その声に、彼女はハッとした。嫌いという気持ちが先行して、落ち着いて考えたこともなかった。自分をもう一度よく見つめ直してみると、思っていたほどのことでもないではないか。そんな彼女は、やがて自分を認めて自分のことを好きになった。

ふと気づくと、いつの間にか人に好かれる存在になっていた。

それは、自分を好きであることが鏡映しになっているのである」

単純なことだが、芯を突いた夢だった。

2008年9月17日

真実をついた夢

今朝方、3つ夢を見た。その中のひとつはこんな夢だった。

「ある少女は、自分が周りの人と違っていることが嫌で、他の人のようになりたくてもなれないことに落ち込んでいた。自分は劣っていて価値がないと思い、自分のことが嫌いだった。そんな自分は人からも嫌われていると考え、人を恨んでいる。そのため暗い性格になり、社会に対しても反感を持っていた。

そこへ賢者の声がして、彼女にこうアドバイスをした。
『あなたはユニークな存在で、他と違うのは当たり前。一人一人が違っているのが自然なのです。違っていることは素晴らしいこと。それは、あなただけが持っているものなのですよ。そのことに気づいて自分に自信を持って、自分を好きになりなさい』

その声に、彼女はハッとした。嫌いという気持ちが先行して、落ち着いて考えたこともなかった。自分をもう一度よく見つめ直してみると、思っていたほどのことでもないではないか。そんな彼女は、やがて自分を認めて自分のことを好きになった。

ふと気づくと、いつの間にか人に好かれる存在になっていた。

それは、自分を好きであることが鏡映しになっているのである」

単純なことだが、真実をついた夢だった。

分かち合いの味



「うわあ、甘~い!」
熟した果実がプチュッとつぶれて、トロ~ッとした甘さが口の中いっぱいに広がる。

昨日、Kさんのお宅にお邪魔した。月一回、何人かで集まって霊気をし、その後、持ち寄ったお昼を食べて、おしゃべりをしたりして楽しい一時を過ごす。

Kさんは手作りの達人で、食べるものに関してもこまめに何でも作っていらっしゃり、いつも感心するのであるが、昨日はイタリアンプラムのジャムをご賞味に預かった。

イタリアンプラムは今が旬。お宅には広い庭があり、そこには大きなプラムの木がある。5メートルくらいあるだろうか。見上げると、上の方には熟れた果実がたわわに実っている。

「とりましょうか」と言って、Kさんはおもむろに庭へ出て行き、私はすぐに後を追った。生っているものを取るのは昔から大好きで、本能的に動いてしまう。

「こうやって取るのよ」と木の下に立って、Kさんはニコニコしながら幹をつかんで「ちょーだい、ちょーだい、ちょーだい」と呪文を唱えるように言って揺すった。すると、バラバラと空から甘い果実が降ってきて、地面に落ちてあちこちに転がった。

「うわあ~!」
歓声が上がった。

私はKさんと一緒に、ワクワクしながらかがみこんで夢中で拾った。後ろで見ていた他の方も、「あっあそこにもある、そこにも」と教えてくれ、取る人も見ている人も興奮していた。

もうみんな童心に返っていた。山菜取りでも芋堀りでもそうだが、取る人の顔は輝き、子供のときのようにはしゃいでしまう。

2回に分けて数回揺すっただけなのに、盆ざるが一杯になった。毎年、何もしなくても食べきれないほどのプラムが生るそうである。

Kさんは、「全部どうぞ」と言って盆ざるに山盛りになったプラムを私たちにくれ、みんなで味見をして、それから自分が欲しい分だけを取って分けた。欲張りな人は誰もいず、最後となった私が一番多くなってしまったのではないかと恐縮してしまった。一連のことがすべてごく当然のように自然な形で流れて、とても調和の取れた一時となった。

そこには分かち合いがあり、笑顔があり、驚嘆と感謝の気持ちがあり、ほのぼのとした温かさがあった。与えられた恵みを、みんなで分かち合う。

単純なことなのに、小さなことなのに、こんなに満ち足りて幸せに感じるのはなぜだろう。

人に取られるかもしれないと恐怖に駆られて、あわてて木を揺すって独り占めして食べたら、おそらくこんな気持ちにはならないだろう。しかも、そんなことをしたら、結局は必ず食べきれない分が出てきて、それは腐ってしまう。

足らない、もっともっと欲しいという考えから出来上がった上下の階級の中で奪い合い、弱者が蹴落とされ、持つ者と持たざる者の格差が広がる社会はもう終わりにしたい。

本当は十分にあるのに、なぜ独り占めしようとするのだろう。

一人一人が持っているものを差し出し、みんなで分かち合えば、たちまち全体が満たされる。それは物質に限らず、才能、知識、労力など、すべてのことにおいてである。

分かち合うことができるとき、人は信頼と助け合いの精神に生きることができる。分かち合うとき、笑顔と感謝の気持ちにあふれ、ほのぼのとした温かさと幸福感に包まれる。それは横に広がる力であり、そこには平和がある。

口の中に甘くトロ~ッと広がったプラムは、そんな平和の味がした。

2008年9月15日

月の光を浴びて


太古の昔から綿々と流れる時の中で
変わりなく輝く月

人が月に寄せる想いは宇宙へと広がる

時を超えて、私たちを静かに見守る月

十五夜の今宵
月の光を浴びて
これまでに生きた数知れぬ過去においても
同じように見上げていた自分の姿に想いを馳せる


(写真:自宅のバルコニーから見た月、どうしてもクレーンが入ってしまう)

2008年9月13日

不自然な山






「山全体がゴルフ場みたいなもんだな」
ゴンドラリフトから周りの山を見回しながら、夫がボソッと言った。

先週、夫と二人で始めてカナダのウィスラーへ行った。ウィスラーと言えば、北米最大規模のスキー場として有名である。リゾート施設が充実しており、夏はハイキングやマウンテンバイク、ゴルフを楽しむ人たちで賑わう。

スキー場として開発されたウィスラーは、ブリティッシュコロンビア州の大自然に囲まれた、とても美しい場所にある。しかし、ここは、私たちが今まで訪れた山とは違っていた。ロマンチックな白銀の世界をかもし出す雪がない夏山は、本当の姿がくっきりと浮かび上がる「裸」の状態であった。

山のあちこちに、バリカンで刈られたような筋が走っている。それもそのはず、200以上のコースがあるそうだ。

マウンテンバイクでは1200メートルの標高差を楽しめるとあって、チャレンジ精神旺盛な若者が集まっていた。特に、グラディエーター(古代ローマの剣闘士)のような鎧風のガードを着けた男性が目立った。そのグラディエーターたちは、リフトに自転車を乗せて山の上まで上がり、レベル別になったコースを一気に駆け下りる。

リフトは全部で38基あり、夏はその一部が稼動している。私たちはハイキングをするために、まずリフトで標高1850メートルの所まで行くことにした。

長い長いゴンドラリフトが上へ上へと引っ張っていき、下界がグングン小さくなっていく。と同時に、周辺の様子が次第にはっきりしてくる。

ウィスラーマウンテンを取り囲むように青く連なる山並みの景観は雄大で、光と雲の織りなす表情が刻々と変わってゆく。神秘的なその様子に、畏敬の念が沸き起こった。

近くに目を落としてみると、ウィスラーマウンテンがそれとは対照的な姿を見せている。夫が「山全体がゴルフ場みたい」と言ったように、ウィスラーは山の上から下まで、ことごとく人間の手が入っていると言えるだろう。窓から真下を見ると、そこらじゅうでグラディエーターたちが駆け回っていた。「こんなんじゃ、クマは睡眠不足になってしまうなあ」

ハイキングを開始して5分とたたないうちに、頭上で掘削機がゴンゴンゴン!と大きな音を立て始めた。ウィスラーは2010年オリンピックのスキー会場に選ばれたため、現在、これに備えて整備・拡張・新設工事が至るところで行われている。

その一環として、2つの山頂を結ぶ世界最長4.4キロの水平型懸垂リフトの建設が進められており、今年の冬までに完成する予定である。ハイキングに欠かせないクマベルは、どうやらここでは必要ないようである。

確かに今までのハイキングとは違っていた。途中で目の前に現れた湖の水は、鏡のように美しかったが、そこから少し離れた所には、雪を作るための人工湖もあり、底には黒いビニールと、周りには動物よけの電線の柵が張られてあった。高山植物がいっぱいの草原の向こうには、リフトの鉄塔が高くそびえていた。

かつては、遠くに見える雄大な山々のように美しかったこの山は、スキー場開発で掘られたり、削られたり、穴を開けられたりし、夏の乾いた土の中には、毎日無数の自転車のタイヤが食い込む。

この山では、自然が創りあげたものと人間が創りあげたものが隣り合わせになっている。不自然になってしまった自然の山。人間が楽しめれば、それでよいのだろうか。

案内所でもらったパンフレットには、「ウィスラーは一位の座に甘んじることなく、さらなる革新を続けていきます」とあった。さらなる革新とは、さらなる開発のこと。

そんな山が、私に送ってきた言葉は「蛮行」であった。悲しい言葉である。随分と痛めつけられているのだなあと思うと、複雑な気持ちになった。山は泣いているのだろうか。人間を嫌っているのだろうか。

ハイキングの後、さらに上へ上がるため、高速チェアーリフトに乗って辺りを眺めながら、そんなことを考えていると、山頂間近で、すり鉢状になって雪が溜まっている所の上にさしかかった。そこは、先シーズンの終わりから人間が足を踏み入れていない場所であった。

雪の上へ出た途端、周りの音もリフトの震度も全くなくなり、深い瞑想状態に入ったような「無」の空間へ滑り込んだ。リフトは動いているのに、全てが静止しているようで、2つの異なる次元が重なった。その空間は、何もないのに全てがあるように満たされていて、完全な静寂の中で細かく振動していた。

それが迫ってきたと感じた瞬間に、私はその中に溶け込んで広がって行き、限りない優しさに抱かれた。完全に満たしてしまう何か。それを無条件の愛のエネルギーというのであろうか。圧倒されるようでいて心地よいエネルギー。急に心が震え、涙が溢れ出た。

人間の蛮行で傷つけられた山は、それでも私たちを優しく包んでくれていた。なんということであろう!

技術を駆使したリフトに乗って、毎日大勢の人が標高2160メートルの山頂に達する。しかし、人間が作ったその高速リフトのお陰で、私たちがこうやって簡単に山頂に到達できるということは事実であり、人はそこで景観を一望し、自然の美しさ、雄大さ、力強さに感動する。

もともとこの地には、先住民のスコーミッシュ族とリルワット族が住んでいた。山頂で雄大な景色を前に、私の心には、自然と調和の中で生きるすべを知っている先住民の言葉が響いてきた。

「常に七代先の子孫のことを考えて生きよ」

200年先でも300年先でも、子孫が今と同じ環境の中で生きられるよう、未来に限りない責任を持って判断し行動することの大切さを教えているのである。

はるか下にウィスラーの街が見える。2年後の冬季オリンピックには、この地はさらに人であふれかえるだろう。

自然と人間の関係は、どこで折り合いをつければよいのであろうか。私は複雑な思いを胸に、頂上でこう祈らずにはいられなかった。

「私たち人間が足ることを知り、自然の一部として調和の中で生きられますように」


写真1:鏡のような湖面
写真2:周辺の山々
写真3:ウィスラービレッジを見下ろす

2008年9月8日

野菜天国




<写真1>(左上から右へ)
・ピクルスキュウリ: 小さいが、みずみずしくて美味しい。
・レインボーチャード: 茎が鮮やかな蛍光ピンク、イエロー、オレンジ。炒めると美味しい。
・ ズッキーニ (グリーンとイエロー): グリーンの方は、とり忘れると直径10センチ、長さ40センチほどの巨大ズッキーニになってしまう。
・ニンジン: 黄色いのは「イエローストーン」という品種。間引きのものなので小さいが、普通に成長したものは、この3倍くらいの大きさになる。
・サボイキャベツ: 肉厚で葉の表面がちりめん状。スープなど煮込む料理に最適。

(左下から右へ)
・ロマノビーンズ: 25センチくらいの大きさになるが、やわらかくて美味しい。
・ワックスビーンズ: 緑黄色野菜に混ぜると彩りがきれい。
・パープルトップ ターニップ: その名のとおり、上部が紫色のカブ。スープに入れると美味しい。
・ワラワラ スイートオニオン: ワシントン州ワラワラ市の特産品。水分が多く、柔らかくて甘い。
・レッドオニオン: サラダに向いている。
・グリーンビーンズ: おなじみのインゲン。

<写真2>
ジャガイモ (ユーコンゴールドポテト)、ミニトマト、しそ。ミニトマトは、このオレンジ色の種類のものが一番甘い。

<写真3>
野菜の種(左から)
ズッキーニ、ロマノビーンズ、ワックスビーンズ(黄色だが種は黒!)、グリーンビーンズ、ニンジン、パープルトップ ターニップ、チャード。


野菜天国

収穫のときがきた

太い茎から斜めに力強く延びるズッキーニ
葉に隠れるようにして、たわわにぶら下がっているインゲン
黒い土の中から勢いよく伸びる鮮やかなチャードの茎

畑の元気な野菜たち

自然の力に驚嘆する

なんて美しい形なのだろう
なんて美しい色なのだろう

自然が創った完全なる最高傑作

その いのち の始まりである種も
ひとつひとつがユニークで
大きさ、形、色さまざま

この白い楕円形の種一粒からは、30本以上のズッキーニが育つ
このわずか1ミリの種からは、直径10センチのカブが育つ

自然の力に驚嘆する

なんて力強いのだろう
なんて神秘的なのだろう

畑の元気な野菜たち

ありのままで、そのままで完全
ありのままが、そのままが美しい

大地よ 水よ 光よ 風よ
神よ 宇宙よ
大いなる循環の中で光輝くいのち

野菜天国は
自然の恵み、大地の恵み
豊かな恵みにあふれる

そのあふれるほどの豊かさを
分かち合い、感謝しあう

大地よ 水よ 光よ 風よ
神よ 宇宙よ
ありがとう

2008年8月31日

草の根のように




シアトルでは2~3年前から「地元の農家をサポートしよう」という声が高まり、ファーマーズ・マーケット(青空市場)は最近すっかり定着してきた。給食に、地元でとれた野菜を取り入れる学校や病院も増えている。地産地消(地域でとれたものをその地域で消費すること)の考えが浸透しつつある。

集合住宅に住む私は、庭がないので、シアトル市が運営する「ピーパッチ・プログラム」と称するコミュニティガーデンで、9年ほど前から区画を借りて野菜を作っている。「1軒に1つのガーデンを」をモットーに、市内の土地を購入してオーガニックガーデンを拡大しているピーパッチ・プログラム。

このガーデンでは、希望する人が足りなかったり途中で放棄する人がいたりして、通常なら毎年空きの区画がたくさん出る。昨年も私の周りでは、草がぼうぼうに生えた空きの区画をあちらこちらに見た。ところが、今年は申込者が殺到し、1500人が順番待ちをしたそうだ。貸す側もびっくり仰天。こんなことは今までに聞いたことがない。

これは、ファーマーズ・マーケットで買うだけの立場から、自分で作る半自給自足への進展を裏付けるかのような現象である。

改革派が多いシアトルでは、このように面白いことが起こっている。さらに、そのシアトルの先を行くのが、サンフランシスコをはじめとする北カリフォルニア。ここは、いち早く新しいアイデアを実践する「変化の震源地」とでも言えようか。今日の地元の新聞で、興味深い記事を見つけた。

最近、農業に興味を持っている若者が増えているが、意欲はあっても土地を買う資金がない。そんな人のために、北カリフォルニアのチコでは、自分の庭や土地を提供する個人が出始めたということである。スペースを提供して、その代わりにできた野菜を毎週届けてもらう。

若者にとっても、経験もないのにいきなり規模の大きい土地から始めるのはリスクを伴うが、小さなスペースで始めるというのは絶好のチャンスかもしれない。仕事をすっかりやめて、農業に切り替える必要もない。芝生をはがして土を耕し、ブロッコリーやキャベツ、レタス、エンドウなどを育てる。私も畑をしてみてわかったが、スペースはそれほど大きくなくても、かなりの量の野菜がとれるものである。

アメリカの庭は広い。その広い庭に敷き詰められた緑の芝生を美しく維持するためには、頻繁に刈って雑草を抜き、肥料をやって水遣りをする必要がある。これは結構大変な作業。人によっては負担になる。畑にするというのは、持ち主にとってもスペースの有効利用ができ、買い物に行かなくても新鮮な野菜がタダで手に入るため、一挙両得と言えよう。

ホームステイがあるように、一般に他人を自分の家にステイさせることをいとわないアメリカ人にとっては、庭を他人に開放することは、それほど抵抗ないことかもしれない。新聞記事には、実際に、庭を提供している人の例として、不動産仲介業、退職者、学校の事務員、新聞配達など、さまざまな職業の人が挙げられていた。提供する人は、これからもっと増えるだろう。さらに、老夫婦や一人暮らしの老人などにとっては、若者と触れ合うことは、刺激と生きるハリになるかもしれない。

この動きは人々をつなげる。個人主義で人と人の関係が薄くなりつつある社会にあって、人々がつながり合うことで対話が生まれ、信頼関係ができる。そこからまた何かが始まるかもしれない。

複雑化し混沌とした社会の中で、よりよく生きるために、今何が必要なのだろうか。そう問いかけた時、返ってくる言葉が「地に足をつける」。

人はすべてのものを失っても、命をつなぐためには食べなければならない。食べることは、生きていく上で絶対必要なことで、最も基本的なこと。情報が溢れ、知識ばかりを重視し頭でっかちになっている今の社会で、食べることに向き合うことほど、地に足がついたことはない。

今日見つけたこの記事に書いてあったことは、土を耕して作物を作りたい者と、自分ではできないが、庭を有効に使って欲しいと思う者の気持ちがつながった素晴らしい例。どちらも足元を見つめたら、そこにあったこと。自分だけでは実現できないが、助け合うことで相乗効果が生まれる。お互いにとって良いこと、これこそがこれからの社会を元気にすることと言えよう。

上の例は草の根的な考え方である。草の根はどんどんと広がってゆく。平凡でそこらじゅうにあるが、逆境にも耐える力強い生命力を持っている草。そんな草は、一般大衆である私たち一人一人のこと。私たちが足元を固めてしっかりと根を張り、心を開いて行動すれば、人々がつながっていく。横へ横へとつながっていく。それは、やがて勢いを増して、社会を変える大きな力へと発展する。

力まなくてよい。本を読みあさる必要もない。足元に視線を落とし、この足、この手で今自分にできること、今ここから始められることに意識を引き戻すと、ずっと以前から目の前にあったのに、見えていなかったことに気づくものである。

単純で小さなことの中に隠れていた、よりよい生き方の大きなヒント。自分にできることは、根を下ろしたそのときから具体的に動き始める。

今日見つけた新聞記事は、そのことを気づかせてくれた。

<写真1: 近所のファーマーズ・マーケット>
<写真2: 私が区画を借りているピーパッチ・ガーデン。全部で200区画ほどある>
<写真3: 私の畑のブロッコリー>

2008年8月22日

未来が見える山



標高3954mのマウント・ロブソンは、カナディアンロッキーの最高峰。そそり立つ荒々しい岩肌が特徴のこの山は、ダイナミックで男性的な様相を呈している。

最初にこの山に出会ったのは、今から14年前の1994年の夏のこと。日本から両親が遊びに来たため、夫と4人でカナディアンロッキーの旅をした。カナディアンロッキーと言えば、バンフとジャスパーが有名であるが、ジャスパーよりもさらに北に車で1時間くらい走ったところで、いきなりこの山が視界に飛び込んでくる。

そのときのインパクトはあまりにも強く、今でもはっきり覚えている。私たち4人の目はこの山に釘付けになり、車の中が静まり返った。目も心も調節しないと入りきらないほどのスケールの大きさに、感動を通り越して、ただただ見上げるのみ。母は見た瞬間、鳥肌が立ったと後で教えてくれた。

マウント・ロブソンは州立公園なので、バンフやジャスパーのような街はなく、自然のみがあるという感じである。私たちは、そこから少し離れたスイス人が経営するレストラン付きのシャレー(山小屋)に泊まったが、そこで興味本位にバッファローの肉を食べた夜に体験した恐ろしい夢に、私はここは圧倒的に自然が支配している場所であるということを思い知らされた。先住民はまず創造主への感謝の儀式をして、それから食す。その感覚がわかると同時に、ここがいかにパワフルで、他とは違う場所であるかということに気づかされた。

マウント・ロブソンとの第1回目の出会いは、そのように特別な記憶を残した。

2回目に訪れたのは、それから6年後の2000年の夏。今度は夫と2人で来た。最初に来たときと同じシャレーに泊まり、州立公園の中で3時間ほどのハイキングをした。

そこはかなり波動の高い場所だった。頭のてっぺんがツンツン突き刺されるように痛く、歩いても歩いても疲れない。ハイキングをした日の夜は、普通なら心地よい疲労感に包まれるものだが、11時半近くまでソファに座って読書をしていても、一向に眠気が来ない。これからもう一度ハイキングをしても大丈夫なほど元気である。夫も、やはり同じように頭がすっきりはっきりしているようだった。

しかし、翌日の活動のことを考えると、眠くなくても寝なければならないと思い、床に就いた。隣に横たわった夫からはすぐに寝息が聞こえてきたが、私は何度も寝返りを打った。あせりさえ感じる中、1時、2時と時間だけが過ぎていく。

やっと眠れたと思ってもごく浅い眠りで、見る夢が異常なほどはっきりしていた。その夜はトイレ休憩(?)を挟んでつながった2つの夢を見たが、その内容は今でも最初から最後まで完全に覚えているほど強烈であった。

未来の情報を含んだ夢とでもいうべきか。

それは、地球がもうこれ以上住めない極限状態に来ており、人々がある場所に集まって新しいときへ移行する瞬間を待っている場面から始まる。その瞬間を境に、周りにいる人々の顔かたち、性別、私との関係が変わっていた。

ここで目が覚め、私は起きてトイレに行った。

その後、見た夢は先ほどの続きであった。アジア系の男性(小泉前首相のような顔!)として新しい肉体を持った私が、今の自分として新しい世界を見ていた。

ここでは人々は新しい物のやり方をしていた。「自然志向」、それがキーワードのようである。

具体的に3つの場面を見た。それはどれも瞬間的な場面だったが、十分な情報が入ってきた。

1つめの場面は車。一台の車を見ている。この車から有害な排気ガスは全く出ていない。この新しい世界では、空気を汚す車はなかった。

2つめの場面は食品の包装方法。プラスチック、ビニール類は使われていない。カウンターの向こうにいた店員は、量り売りのものであろうか、それを昔懐かしい黄緑色っぽい薄い紙で包んでいた。

3つめの場面は、人々の健康維持の方法のひとつ。この世界では、リラックスすることが健康な状態を保つ上で極めて重要なことを誰もが知っている。屋内のプールのような場所で、人々は泳ぐのではなく、水に浸かったり浮かんだりしている。それは、子供から大人まで、いつでも手軽に利用できる公共施設のようである。水は冷水ではなくやや暖かく、体によい成分を含んでいるようで、少し色が付いていた。無重力状態になって筋肉をリラックスさせるのであろうか。とにかく、そこは日常生活に密着しており、人々が頻繁に利用する場所のようであった。

2000年に見たこの夢の場面。その頃は、私のような何も知らないごく普通の人間にとっては、どれも現実味を帯びない内容であった。

しかし、8年後の今、車の代替燃料への取り組みがさかんになり、対策は具体化してきている。さらに研究開発が進み、社会の制度が改革され、空気を全く汚さない車を手軽に利用できるときが来ることは不可能ではない。

また、シアトル市では、来年1月からスーパーなどの店のレジ袋を有料化することになり、客に買い物袋の持参を奨励している。すでに袋を持参する人は増えているが、これはほんの第一歩。全分野において作る側、売る側、買う側のそれぞれの立場から、生じる結果に対してもっと意識を高めれば、2つめの場面を実現することも夢ではないだろう。

3つめの場面については、私には知識がないので何のことなのかわからない。しかし、リラックスの状態がもたらす恩恵は、今のところ過小評価されていることはわかる。

夢で見た未来の可能性。こうなるとかならないとか、そんなことはどうでもよい。ただ、人間の活動が、良くも悪しくも地球の状態に影響を与えることは事実である。

私たちは資源を使い放題にして、地球を荒らすだけの存在になるのか。それとも、地球の守り手として、すべての生き物にとってより良い場所に保つことのできる存在になるのか。私たちに与えられている智慧と創造力を、何にどのように使うのか。それは私たちが決めること、しかも責任をもって決めること。

人を寄せ付けないような荒々しい岩肌を持つ男性的なこの山の茶色と白のツートンカラーは、意外にも、生クリームがかかった甘いチョコレートケーキを思わせる。地殻変動で下から突き上げられ形成された茶色い岩に、空から降ってきた真っ白な雪が留まる。男性性と女性性、天と地が重なる場所。それぞれ相異なる要素が共存しているこの山は、天界からのエネルギーの中継となっている。

その山で見た夢は、私に希望を与えてくれた。私たちは意識をつなぎ合わせ、力を合わせ、より良い環境を作り出すことができる。そのチャンスを与えてもらっている。

未来が見える山。その山に一人一人がなれる。地に足をしっかりつけ、そびえ立つ山のごとくまっすぐに背筋を伸ばして天を仰ぐとき、何かが見えてくる。周りのすべてに意識を向け、現実的に冷静な目で見つめれば、足元から今この一歩をどう踏み出すかが見えてくる。

未来が見える山に訪れずとも、未来が見える山のような存在になるときに、人は今ここに生きていることの意味をしっかりと捉え、未来に限りない責任を持って行動できるようになる。


<写真: マウント・ロブソン>

2008年8月11日

パターンを変える夏


この夏、アメリカでは「ステイケーション」という言葉がお目見えし、日常の会話に浸透しつつある。

staycation、それは vacation をもじったもの。vacation は vacate = 立ち退く、空けるという意味の言葉から「休暇」という意味になったが、休暇=遠出の旅行は過去の話になりつつある。ガソリンの急騰で、車社会のアメリカ人は窮地に追い込まれている。この夏は家の周りに stay =とどまる形で休みを過ごす人々が、工夫を凝らしたステイケーションを自分たちなりに楽しもうとしている。

家族で遠く離れた祖父母や親戚を訪ねるついでに、国立公園などに寄ってバケーションを楽しむというのが、アメリカ人の典型的な夏休みの過ごし方のようである。大陸横断なんていうのも珍しくなかった。しかし、移動に飛行機か車を使うこの国で、ガソリンの価格が昨年の3倍以上ともなると、さすがに大半の人が足を引っ込めてしまう。

今年は子供をディズニーランドに連れて行く代わりに、プールや湖で泳いだり、近くの動物園へ行ったり、公園や家の庭で友達や近所の人を誘ってバーベキュー、などという人も多いだろう。町でも、あちこちでちょっとした催し物やお祭りがある。わざわざ遠くへ行かなくても、近場でも結構楽しめる。

先日、夢の中でこんな言葉を聞いた。

「パターンを変えてみる。人間は慣れていることに留まりがち、その方が楽だから」

確かに、同じパターンに従う方が楽である。私たちは必要に迫られない限り、自分からはなかなか変えようとしない。

遠いところや上ばかりを見て、お金を儲けることとか、成功すること、早く仕上げることばかりが頭にあり、時間やノルマに追われたストレスまみれの日々を送ってきた人々。そのストレスを発散させようと大金を使って遠出して、そこでまたストレスが溜まる。そういう悪循環の空回りも、そろそろ軌道修正する頃。

地球上で様々な問題が起こっている中、特に原油の高騰は、世界中でそれに依存する一般人の日常生活に直接影響を及ぼすからこそ、最もわかりやすく、またパワフルな形で、今までの考え方や生き方では続かないということを私たちに警告しているのではないだろうか。

その危機的状況によって、押し出されるように始まった新しい行動の数々。

アメリカでは、車庫でホコリをかぶっていた自転車を取り出して、また乗り始めた人々が急増しているという。不便でも、給料はそのままで物価だけが上がる状況の下、気軽に車に乗ってどこへでも行くということが難しくなってきた。残念ながら、この国では日本のように鉄道が発達していないため、かなりの制約がかかるが、町の中ならバスだって十分利用できる。バスで通勤できる範囲に引越しする人も出始めた。

交通手段を制限すると、以前より行動範囲は狭くなり、一日にできることは限られてくる。だからといって人は不幸になるかといえば、そんなことはない。充実した時間というのは、何をして過ごすかという物理的なことではなく、どう感じたかという心の状態で決まるのだから。

私は、最近よく歩くようになった。町の中に住んでいるので、スーパーや銀行、郵便局、レストランなど、ほとんど歩いて行ける範囲にある。週末には、夫と一緒にウォーキングを兼ねて15キロほど歩いて日系スーパーに行き、バスで帰ってくることもある。

歩いてみると、これが結構楽しい。車で通ると前しか見ていないため、気づかなかったことがいかに多いことか。歩いていると色々なことが目に入ってくる。「あっあんな所にお店があったんだ」「あそこの家の花、かわいいな~」「あれっ?ここは更地になっているけど、前は何があったっけ?」

いつも通っていた所なのに、今まで全く気づかなかった。そんなひとつひとつを見つけながら歩くと、初めて通るみたいに新鮮な気分になる。何回か通るうちに、今度は、歩く範囲にあるすべてに対して親近感を持つようになる。この感覚もまた楽しいものである。

休暇に遠出をやめて近場で楽しもうとする人々。日常で自転車やバスの利用に切り替え、歩き始めた人々。ハンドルを握ってアクセルを踏むだけで車がどこへでも運んでくれた生活から、実際に自分の足を動かす生活へ戻りつつある。それは、地に足をつけて生きることにも通じるか。

少し活動を緩めてみる、休めてみることで、時間にも心にも以前より余裕ができ、今まで見えなかったものが見えてくるものである。不便さの中から得ることもある。全く新しい角度から自分の生活を見直すことができ、もっと大事なものを見つけ出すことができるかもしれない。それに、私達には限りない想像力がある。工夫だってできる。

この危機的な状況の犠牲になる必要はない。車庫から出した自転車に積もっていたホコリをはらうように、自分の中で使わないで眠っていた直観力や洞察力に磨きをかけ、そこから創造力を働かせて工夫し、何か新しいものを見つける絶好のチャンスと捉えてみてはいかがだろうか。

2008年8月9日

虹の贈り物


雨もそしてその後の虹も

あまねく平等に降り注ぐ

空からの贈り物


それは愛のかたち

<本日2008年8月9日午後8時21分自宅のバルコニーから撮影。>

2008年8月7日

クモの出現

おとついの朝、居間で日課となっている体操と短い瞑想を終わって、さあ立ち上がろうと思ったとき、どこから来たのか、クモがまっすぐ私の方へ向かって走ってきて、ぴたりと私の前で止まった。そしてジーッと動かずにこちらを見ている。

2年ほど前から、夢や家の中でクモが印象に残る方法でしばしば現われるようになり、そのたびに特別なメッセージを運んできてくれることに気づき始めた。

おとついのクモは、新聞紙に乗せて外に出したが、やはりメッセージがあった。そのメッセージが今、具体的に言葉となった。

明日は2008年8月8日。何かが動こうとしている。そのことをクモが伝えに来てくれたのか。

通常、昆虫の足は6本であるが、クモは8本ある。クモの体は上から見ると8の形をしており、横から見ると無限大の記号 ∞ になる。

この2つのサークルは輪廻を表わし、∞ を指でなぞって繰り返していると独特なリズムになる。これは、ある種の宇宙のエネルギーとつながる。

過去に選んだことのために、自分の周りで今のことが起こっており、今選んだすべてのことは、未来へとつながる。過去と未来、物質世界と精神世界、男性性と女性性、上と下、裏と表、様々な二極、つまりこの ∞ の中で私たちは行き来し、その中心でバランスをとることを学ぶ。

クモは渦巻状の巣を張って自分の世界を創り、その中心に留まる。その複雑な巣を作るクモは創造を象徴し、私たちはそれぞれが自分の世界を編み出していることに気づかせてくれる。ひとりひとりが編み出す巣は、人類が編み出す巣に通じる。

私たちには限りない創造力がある。ところが、往々にして最初に慣れ親しんだものにしがみつく傾向にある。それでは自分の可能性を制限してしまうことになり、自分が出した粘着性のあるクモの糸に足を取られて、自縛状態になってしまうようなものである。それは即刻死につながるため、クモはそんなことはしない。

クモはその巣を壊されても、またすぐに作り直す。私たちだってそうである。失敗してもやり直せばよい。どこからでも始められる。

8月8日は調和の中で、新しく編み出していくときである。今選んだすべてのことを、新しい未来へとつなげるために。

何が起こっても、どんなことがあっても、私たちはどこからでもやり直せる、始められる。私たちひとりひとりに、限りない創造の力があることを忘れないで欲しい。

2008年8月3日

日々淡々と

スピリチュアル = 超能力が出てきて予言してみたり、言い当てたり、人の治療をしたりすることではない。

そういうことはドラマチックなので人々は注目し、そのような能力を持つ人を盲信して崇める傾向にあるが、人々は現象だけを見てそれに振り回され、その現象が生じる根源を見ていない。能力を見出した者は、根源に通じないでテクニックだけを使うようになると、それはただの見せかけになってしまう。

自分はスピリチュアルだとか、悟りを得たと触れ回る必要がなぜあるのか。それこそが幻想である。

スピリチュアルな生き方とは、本当はもっと地味で地に足が付いており、常に自分の中心にあり、そこから泉のように湧き出でる愛に従って、日々淡々と行動するだけのことである。

2008年8月2日

家は心の中に


世の中は移り変わり
いつの間にか殺伐としてしまった

闇の中を道に迷う人たち
細い道に入り込み
戻れなくなってしまった
どこで間違えたのか

家を飛び出してもう随分たつ
がむしゃらに走り続けて
かなりの距離を来てしまった

迷子になった子供の頃の
恐怖感が押し寄せる
もう二度と家に戻れないのか
泣き疲れてあきらめかける

夕日がそっと背中にささやく
あなたの家はあなたの心の中にあると

周りがどんなに変わってしまっても
変わらない心があると

あなたが帰って来るのをじっと待っている
変わらない心があると

帰ってきなさい
家へ帰ってきなさい

あなたにはわかるはず
あなたにはきっとわかるはず

穏やかでぬくもりのある感触
温かく安心できる
懐かしい風景が
静かにあなたを抱き寄せる

帰ってきなさい
ここへ帰ってきなさい

あなたを抱きしめようと
じっと待っている

あなたの家はあなたのその心
静寂という心の中にある

2008年7月31日

型破りは自分に戻ること

「自分がやりたいこと、大好きなことをやって、決して人に認められようとなど求めないことだ。人に受け入れられれば、自分が正しいと感じる助けになる。人に認められれば、自分が正しい目的に向かって進んでいると感じさせてくれる。問題は、自分自身の内なる感じだ。それは外側の世界には何の関係もない」

今日、知人が日記でこんな素晴らしいメッセージを紹介してくれた。

私は3年前からトーストマスターズという会で、人前で話をする練習をしている。自宅で翻訳をするという仕事とは正反対の世界。人前で話すなんてとんでもないことだった。しかし、その会でマニュアルに沿ってスピーチのスキルを習得し、話す練習を重ねるうちに、次第に自分に自信がついてきて、自分の考えや伝えたいメッセージを心を込めて話せるようになってきた。最近では、そのことを楽しいとさえ思えるようになってきた。

先日、私は以前にこのブログに載せた体験(
http://hoshinoto.blogspot.com/2007/11/blog-post_11.html)をベースにしたスピーチをした。色眼鏡を捨ててありのままを見るという大切なメッセージを、自分なりの形で表現したつもりである。会話や心の変化などの状況を、舞台のスペースをいっぱいに使い、自分ができる範囲で表情や声色を変え、ジェスチャーもふんだんに使って再現した。

トーストマスターズでは、スピーチの後に論評と呼ばれる評価があり、聞いている側がコメントする。あるメンバー(妻が日本人であるアメリカ人男性)は、私のジェスチャーはオーバーだと皮肉を込めてコメントした。それもメンバー全員の前で。明らかに、彼は私のジェスチャーを認めなかった。

以前の私だったら、きっとそのコメントに傷ついたり、他の人はどう思ったかなど、とても気にしただろうと思う。もちろん、全く動じなかったわけでもない。

しかし、今回のスピーチをするにあたって、自分で最も気をつけたかったことは、自分らしく表現することだった。自分の心の移り変わりの体験を、そのときの自分になりきって再現することだった。だから、ジェスチャーがオーバーだったと言われても、自分はそう感じたのだから、どうしようもない。それに、みんなの前で腕一杯に手を広げたときは、開放感が押し寄せてきて、人前で萎縮していた以前の自分と比べ、こんなに自由に動けるようになった自分が前より好きになった。

全員の心を動かすためにやったのでもなく、それをどう受け取ったかは相手の問題。否定的な反応があっても当然だろう。一方、「パワフルなメッセージだった」とか「自分が開放される思いがした」、「楽しそうだった」、「感動した」(いずれも日本人女性)などの肯定的なコメントもあった。人それぞれ、それぞれのレベルで感じ取る。それでいいのではないだろうか。

肝心なことは、自分に正直になり、感じたことを素直に表現すること。自分自身になったときは、ただ楽しいという思いだけが沸き起こる。それは子供が無邪気に遊んでいる姿に通じるかもしれない。

スピーチをしたその会で、ある熟年のメンバー(日本人男性)が、日本のテニス界に変革をもたらした女性による本を紹介した。「日本人は規律を守り、お行儀がよくてとても優秀な国民である。スポーツでもそれが顕著に現われる。しかし、ヨーロッパ、特にスペインやイタリアあたりの選手は、型破りである。決まったフォームなどを無視して自分の意のままに動く。そのため、外れる時は大きく外れるが、アッと驚くようなプレーがあり、見ていて面白いし、考えてもみなかった結果がもたらされることがある。日本人もこの要素をもっと取り入れて欲しい」というのがその本の主なメッセージだそうである。

このメンバーは、この本のメッセージをそのままスピーチに当てはめた。例えば、話す人に少しくらい変なクセがあるとしても、それがその人の味で、大切なことは、綺麗で正しいフォームではなく、自分のスタイルを出すこと。そつがないスピーチよりも、無骨でも聞いた人が、家に帰った後や何かをしている時にふと思い出すようなスピーチをすることの方が大切ではないか、というものであった。

型破りの「型」とは一般が認める範囲のこと。自分は唯一の存在なのだから、その他大勢が認めるように妥協してしまっては、自分でなくなる。

他人がどう思ったってよい。常に自分に問いかけて、自分がよいと思ったこと、好きなことを自分の心に正直にストレートに表現してみると、楽しさや喜び、満足感が返ってくる。それは自分のためにしていることで、実は子供は常にこれをしている。


正しいと感じる基準は、他人ではなく自分である
自分の真実は他人の真実とは違う
正しい目的には常に喜びが伴う
そこには開放感がある
自分自身の内なる感じがすべての基準
自分を知っているのは自分
頼るのは自分

型破りは自分に戻ること
それができたとき、外側の世界が応えてくれる

2008年7月27日

人間が雨を降らせる日

テレビでこんなニュースを見た。

中国のある地域では、塩化銀を含んだ霧を空中に散布して雨を降らせ、旱魃の被害を免れている。「散布」といっても、画面には、小さなロケット弾のようなものを空に向けて打ち込んでいる様子が映っていた。塩化銀が核となって水蒸気を集めて雲を形成し、地上に雨を降らせるという仕組みだそうだ。「天候を技術によってコントロールする」というような表現が使われていた。

私はこの様子を見た瞬間、体の中がサッと冷たくなる感触を味わった。何か恐ろしいことが起きているようで仕方ない。

すべてのことは、私たちが自然の中の一存在であるということを認識することから始まる。自然の中に私たち人間が生かされているという立場に立つからこそ、また、偉大な力に身をゆだねるからこそ、願いは「祈り・乞う」という形になり、雨乞いは、長い歴史の中で祈りとともに行われてきた。

シャーマンやメディスンマンは一人で勝手に儀式をするのではなく、雨を乞う願いをもった村人たちを代表して、人間界と自然界の橋渡しをするのである。

シャーマンやメディスンマンは雨乞いの儀式の中で、そのような村人の心を運ぶ。そして、自然、事象、スピリットと交信して繋がり、一体となる。それは、目に見えない偉大な秩序に対する正当な手続きであるように思われる。天や雲、雨のスピリットを呼び、感謝し、許しを求め、交渉し、様々な力と繋がることで、結果として雨がもたらされるのではないだろうか。

畑をしていると天候に敏感になる。太陽の光と空気と水と大地の絶妙なバランスの中で、植物が生きていることに気づかされる。雨が降った後の植物は、人間が水をあげたときとは比べ物にならないほど、大きく力強く成長している。気温は、高すぎても低すぎても成長に影響する。そんな自然の偉大な力とその繊細なバランスを目の前に、おのずと畏敬の念が沸き起こる。

人間には限りない創造力があり、そこから素晴らしい技術が生まれる。しかし、その創造力は与えられたものである。与えられたものを十分に活用することは正しいことではあるが、超えてはいけない一線というものがあるのではないだろうか。

そう言うと、今の時代になんて馬鹿なことを言っているのだろうと科学者はせせら笑うだろう。しかし、開発した技術が現在と未来の環境に与える影響に、科学者はどれだけ責任がとれるだろうか。また、どこまでそれを意識しているだろうか。

塩化銀を打ち上げて雨を降らせることは即効性があり、農業にとっては画期的な技術である。しかし、私には、これは傲慢で乱暴なやり方のように思えてならない。

日本でも本格的な使用を前に、この実験が進められているということであるが、もしこの技術が広まれば、その先にはもっとスケールの大きい技術が現われるだろう。天候を技術によってコントロールすることは、当たり前の時代がやってくるかもしれない。それが勢いを増し、やがては国家権力が絡んでくるといったシナリオも、不可能ではない。

しかし、宇宙には秩序がある。人間の頭ではとうてい処理できない壮大かつ緻密な秩序。

利害が衝突し、人間がそこらじゅうで好き勝手なことをしたら、今でさえ混乱している世の中、ますます収集がつかなくなり、やがてはその大きなツケが回ってくるのではないだろうか。

ある日、市民農園の畑で草抜きをしていたときに、野外授業の一貫で散策をしていた近くの保育園の先生と園児のグループが、私の畑の前で立ち止まって、何をしているのか尋ねてきた。私の説明を聞き終わり、園児たちがさあ帰ろうと歩き始めたときに、そのうちの一人の女の子が振り返ってチラリと野菜に目をやり、次に私の目をまっすぐに見て
「Be gentle to the plants(植物たちに優しくしてあげてね)」と言い残して立ち去った。

一瞬、私の目にはその女の子の背中に羽が映り、妖精の姿と重なった。その真剣な面持ちと言葉は、今でも私の心に深く刻まれている。小さな体から出たパワフルなメッセージ。彼女は植物からのメッセージを伝えてくれたのだった。

「植物たちに優しくしてあげてね」

そこには、繊細で優しい心が溢れていた。

子供は見抜いている、私たちは自然の中に生かされていることを。当たり前のことなのに、いつしか忘れてしまう大人もいる。感謝と喜びの大いなる秩序の中で循環する宇宙。私たちはその宇宙の一部。

「空に優しくしてあげてね」

塩化銀を打ち込まれた空からは、傲慢で勝手な人間に対する悲しみの涙の雨が降る。

2008年7月21日

深い人間になりなさい

きれいなだけでは薄っぺらい
深い人間になりなさい

喜びだけではわからない
悲しみも知りなさい
苦しみも知りなさい

深い人間になりなさい

外側だけが光っているのではなく
内側から輝き出る人間になりなさい

山もあり谷もあり
光もあり影もある風景は
深みがあり味わいがある

そんな人間になりなさい

暗がりに慣れた目の方が
闇の中がよく見える

人の悲しみ、人の苦しみを理解できる人になりなさい

闇の中に気づかれないようにそっと入り
そこにうずくまっている人に
優しく差し伸べて
光の方へと導くことができる
癒やし手になりなさい


<7月21日メッセージ>

あなたはどんな子供でしたか

小さい頃の自分を思い出してみよう

どんな子供だったか
どんな遊びが好きだったか
どんな友達がいたか
どんなことを怖いと思ったか
どんな出来事を覚えているか

このようなことを思い出した時に、どのような気持ちになるだろうか。

幼稚園から小学校低学年くらいまでの自分を思い出すと、私はいつも外を走り回っていた。姉は家で人形遊びをするのが好きだったが、私は自分に買ってもらった人形が嫌いで、髪の毛を切って坊主頭にしてしまった。

人間が作ったもので遊ぶよりも、草を編んでかごを作ってみたり、石を削った粉で粘土にしてみたりと、自然のもので何かを作るのが好きだった。虫は怖くなく、カマキリも平気で手でつかめた。小学校に入ると、友達とよく近くの山へ行って山菜をとったり、男の子と一緒に川でザリガニやドジョウを追いかけたり、放課後男子の中に私一人女の子が混じってドッジボールをしたりと男勝りで、とにかく外で遊ぶことが好きな子供であった。

小さい頃はよく母親に叱られた。母のしつけは厳しく、道徳意識をしっかりと植え付けられた。そういう中で、知らず知らずのうちに、私は「よい子」を装うようになっていったのかもしれない。先生の間でも近所の人の間でも、よい子で通っていた。しかし、幼稚園で母親たちの集まりのときに、いたずらなど何か問題を起こした子供の中に決まって私の名前が出てきて、母がびっくりしたという話を私は大人になってから聞かされた。

単独にいたずらしたこともある。小学校へ行く途中で裏がザラザラしている葉っぱを見つけた私は、下校のときに密かに集めておいて、通り過ぎていく児童一人一人にそっと近づいて、背中に貼り付けた。

それが問題となって、数日後、学級会議で担任の先生がクラス全員の前で私を立たせて、
「あんたがそんなことをするとは夢にも思わんかったな。先生はあんたがええ子と思っとったのに、期待を裏切られた思いや。えらいミソつけてくれたな~」と言って叱り、その後、一番仲がよかった友達からは「あっ服に味噌ついとるでー」とからかわれたことを覚えている。

自分としては大して悪いことをしたとは思っていなかっただけに、先生にみんなの前で叱られて、その後友達にからかわれて、屈辱的な思いをしている。まあ、あの葉っぱくっつけ事件は、自分が考えてやったことで自分が悪いのだが。

そんないたずら好きだった私も、中学・高校の頃にはすっかりおとなしくなっていたが、内心はよく男に生まれたかったと思っていた。具体的に何があったかは覚えていないが、そのときの自分は「男だったら自分の思うようにどんどん行動できるのになあ」と思っていたことを覚えている。

また、こんな不可解な瞬間もあった。小学校高学年から高校くらいまでであるが、何かをしている最中に突然ふと「今、ここで自分が死んだらどうなってしまうのだろう。息ができなくなって、体やこの感覚もすべてなくなって、それを考える自分自身がまったくなくなって・・・」と考えると気が狂いそうになり、いてもたってもいられなくなった。このような「考えの発作」は数年ほど繰り返され、そのたびに頭がおかしくなりそうになった。

私の怖いものは高い所と水。水については、小学校に入って水泳の時間があり、避けることはできない。最初の恐怖は、プールに入る前にシャワーを浴びる場所である。天井部分にシャワーが付いていて、コンクリートの階段を数段下りてまた上がるという構造になっており、階段の部分はちょっとしたプールのように水が溜まっている。小学1年でまだ背も低い私の胸ほどの高さまでくる水の中を頭からシャワーを浴びながら通るのは、たった4~5歩で終わるのだが、私にとっては拷問のようなものであった。

それを過ぎるといよいよプール。泳ぐことはできるが、顔を水につけると途端に苦しくなり、泳いでいるときは、排水溝に吸い込まれることばかりを考えてしまう。水が渦を巻いて吸い込まれていく排水溝が怖い。

子供の頃の記憶はほかにもたくさんあるが、これらのことを思い出してみるだけでも、少し自分の内面を探ることができる。大人になると建前や社会的通念などの壁があり、型にはめられた自分といることに慣れてしまうが、子供の頃の自分の様子や行動を振り返ってみると、忘れていた自分の性質を思い出すことができる。また、心理的なものに至っては、過去世にも遡ることができる。

そのカギとなるのが感情である。感情は、自分への入り口であるともいえる。

子供時代のことを感情から仕分けしていくと、客観的に自分のことを振り返ることができる。

例えば、上に挙げたことだけでも、次のような感情に分けられる。

嬉しさ、楽しさ、幸福感 = 自然の中でのびのびと遊ぶ自分、自由に行動している自分

恐怖 = 水、渦まく水

不安 = 死、死後どうなるか

恨み = 権威ある人によって、多くの人の前で叱られたこと、友達にからかわれて馬鹿にされたこと

(隠れた)怒り = 厳しいしつけ、コントロール

理由はわからないが恐れていること、繰り返し襲ってくる不安などは、過去世に原因があることが多いようだ。私の場合、チャネラーを通じてガイドと話した時に、水の恐怖については、過去世で川で溺死させられていると教えられた。今生では水に関する事故や怖い経験はしていないだけに、異常に水、しかも渦巻く水が怖いというのは、やはり過去世に関係するのだろう。

また、死ぬことに関して気が狂いそうな衝動に駆られたのは、過去世で何度も殺されていることに関係するかもしれない。突然身に迫る死というのは、相当なパニックを伴うことであろう。

今ではこの2つはかなりクリアしたと思うが、私は外を飛び回っていた活発で素朴な子供の頃の自分に惹かれる。それは喜びにつながり、自由につながる。恨みや怒りはそういう自分が大人の期待に応えるべく、威圧的に抑えられたときに起きている。また、この恨みや怒りに関して時間を遡ると、極度に禁欲・自制したり、他人に翻弄されていた数多くの過去世にたどり着く。

これからは、もっと力を抜いて自由になって、喜びの中で流れに身を任せたい。それが宇宙の流れと調和することになるのだろう。

感情は自分への入り口。子供時代を思い出し、感情を見つめ、忘れていた自分を呼び覚ますことで、新たな自分への息吹となるかもしれない。

あなたはどんな子供でしたか
どんな遊びが好きでしたか
どんな友達がいましたか
どんなことを怖いと思いましたか
どんな出来事を覚えていますか

2008年7月20日

すべての責任をとる

先日、友人宅に立ち寄った。返さなければならないカギがあったが、その日たまたま近所まで行ったのでついでに立ち寄って、お留守ならカギを裏口のマットの下にでも置いておこうと思った。

行ってみると、外からの家の様相がガラリと変わっており、私は一瞬立ちすくんでしまった。家の前の庭にあった20メートルほどの大きな松の木が根元から切られており、幹の下の部分は、暖炉の薪用に5つくらいにスライスされて転がっていた。少し前に話したときに、友人は木が日光を遮って家の中が暗いから、いっそ切ってしまいたいと言っていた。それを聞いた私には、邪魔だから切るという風に聞こえてショックで、そんなことしたら罰が当たるんじゃないかと思ったが、そんな心配をよそに、友人は職人を雇って本当にバッサリ切ってしまったのであった。

ああ、ついにやってしまったか・・・と思いながら裏口へ行ってみると、友人は留守だったが、中からご主人が出てきた。会話は「昨日木を切ったんだよ」から始まり、ご主人は私を裏庭へと案内してくれた。ここも様相がガラリと変わっていた。ここにあったアカスギの大木もバッサリ。切られた幹が、死体のように転がっていた。

その無残な姿を見ながら、ご主人がぼそぼそと胸中を打ち明け始めた。このご主人は自然を愛するミュージシャン。彼は家にもっと光を通したいと考えながらも、木を切ることにためらいがあったが、奥さんがさっさと行動に移してしまったということで、木に申し訳なくて昨夜はよく眠れなかったということであった。おそらく泣いたのであろう、彼は赤い目をしていた。

20年ほど前にその家の元の持ち主が植えたと思われるそのアカスギは、若くて健康だったことが断面を見てもよくわかる。職人は、前庭とこの裏庭の木は、それぞれ間違った場所にあったから仕方がないと説明したそうで、それに加え、その2本とも、もともとこの土地の木ではなく、動物も住んでいなかったことがせめてものなぐさめだ、とご主人は言った。

この変わり果てた姿を前にして、私たちは立っていた。すぐにどこからともなくトンボが2~3匹やってきて、私たちの周りを飛び回った。最初、私の頭には「悪いことをした」というネガティブな考えが進入しようとしていたが、心はそうではなく、複雑な気持ちがこみ上げてきた。私は言った。

「この木に感謝の祈りを捧げましたか。とても悲しいことだけれど、感謝の気持ちがあれば、きっと木はわかってくれますよ」

そう話している間も、快晴の空から差してくる日の光は暖かく心地よい。今度は、トンボの後に白い蝶がヒラヒラと目の前に飛んできた。

「正直なところ、私も木を切るという行為は悪いと考えたのですがね、木が譲ってくれて、日の光が通されたと思うんですよ。ほら、こんなにエネルギーが変わった。すごく陽のエネルギーが増えましたね」

実は、エネルギー的なことに敏感な別の友人から、このお宅は陰のエネルギーが強すぎて洞穴状態になっていると聞いていた。そういう場所に住んでいる人は、どんどん内にこもるようになるという。

たしかに、このお宅に住んでいる友人は、その家に移った数年以上も前から仕事に強い不満がありながらも辞める勇気がなく、怒りと恐怖と不安を溜め込んで、どんどん状況が悪化している。今では完全に仕事に支配されて自由な時間はほとんど全くなく、お酒とタバコでストレスを発散させているように見受けられる。ではなぜ辞められないかというと、彼女は物質的な安定がないと心が安定しないようで、夫は当てにならず、彼女が働かなければ生活できないと固く信じているようであった。固定観念が邪魔をしているようで、わかっていても一歩前に進めない。彼女にとって、人生とは苦しみに満ちたものなのだろうか。

見るたびに状況が悪化して行く中で、そのうち病気になるのではないかとずっと彼女のことを気にかけていたが、私は最近しびれを切らして、それは彼女の問題だから私は関係ないと、気持ちの上での繋がりを切ろうとしていた。

カギのことがなかったら、この家へは来ていなかっただろう。ここに立っていると、木からも太陽からも、そしてトンボと蝶からも、すべてからメッセージが感じ取られた。

木を切るという行為は、彼女が抑えに抑えていた内面が爆発して出た行為なのだろう。彼女は、それほど光を渇望していた。

変容を象徴するトンボと蝶。エネルギーを大逆転させ、思い切って行動して変化を起こすとき。木は弱い人間の手で殺されてしまったけれど、それでも無条件の愛でそれを受け入れてくれた。いや、それは私たちがそこからどう生きるかで、私たちの中で生き続けることができるのである。

それは、宇宙の愛の循環の一部になること。

「本当の自分を生きなさい」

そのとき、私たちは感謝と愛に満ち溢れ、大いなる愛の循環の一部になれるのである。

木を切る決断をした時の彼女の気持ちはどんなだったろう。心根の優しい人なので、きっと苦しかっただろう。誰だって、生きているものを殺すことはしたくない。変わりたくても変われない、じれったい自分に道を示して欲しいがため、光を求めたのだろう。

実は、夜になって、この日体験したことは、私にとって強力なシンクロニシティだったことに気づいた。

ある方の日記の中で「他人を裁こうとするとき、それは自分の内面の浄化が必要なサインなのです」とあり、その朝、その言葉を読んだ瞬間、自分の中の何かが反応した。

それに加え、朝メールをチェックすると、双子の魂ともいうべき友人からメッセージが届いていた。彼女は、現在セラピストの立場から真実を探求しているが、自分の心をもっと掃除していこうと思ったということである。

このメールを再びその夜じっくり読んでみた。

先住民の教え「Life is all about responsibility(すべてに対して責任をとる)」について考えていた彼女のところに、ハワイに伝わる「ホ オポノポノ」(人の心を完全かつ健全な状態にするという秘伝)の伝導者・実践者であるヒューレン博士の本が舞い込んできたそうだ。
彼女がメールに含めてくれたその本の引用を私なりに理解すると、相手の問題を自分の誤った思考が具現化されたものとして謙虚に受け取り、問題の原因である誤った思考に対して謝り、そのことに気づかせてもらったことに感謝して、ゼロに戻して清めることから治癒が始まり、健全な状態に戻るということである。

これは、数年前に私が出会った The DNA of Healing という本に書いてあったことに共通する。人類は一番最初まで遡っていくとほんの一握りの数から始まり、その後子孫と言う形で次第に広がっていったが、その間に起こったあらゆる出来事に対する思考やそれにまつわる感情がすべてDNAと呼ばれる「記憶」として存在しており、何かのきっかけでそれが再生されるときに「症状」や「障害」として起こる。つまり、私たちはそれらすべての思考と感情をそれが意識にあるかないかに関わらず、共有しているのである。

この記憶である古いプログラムを認識してそれに感謝し、ゼロにしてからポジティブな状況をプログラムし直すことにより、つまり、現在自分が自分自身に対してそれをすることにより、その思考・感情を共有している過去・現在・未来のすべての人が癒されることになる、というものである。

「他人を裁こうとするとき、それは自分の内面の浄化が必要なサインなのです」

お風呂の中で、この言葉が再び浮かび、私はハッとした。私は友人の意固地な姿に失望して、繋がりを切ろうとしていたのだ。

「そうじゃないんだ、これは私の問題なんだ。現実的に食べていかなければならないし、物質的な安定は誰だって欲しい。恐怖もある。将来の約束は何もない。不安である。そう簡単に変わることは難しい。それでも変わりたい、変化を起こしたい、光が欲しい。これはすべて私の中にあるのである。それを彼女が体現しているのではないか」

また、木に対して申し訳なくて涙を流す彼女のご主人も、私の中にいた。

すると「謙虚に受け止めてすべてに感謝し、すべてを愛し、すべての責任をとり、執着を手放してゼロにすること」というホ オポノポノの教えが浮かんで来て、私は心の中で友人とそのご主人に謝って愛を送った。

Empathy という言葉が浮かんだ。en = 入れること、pathy = 感情で、辞書では「感情移入、共感、思いやり」とあるが、私なりの解釈は、他人の中に自分を見ること、自分の中に他人を見ることである。

それは、他人の問題を自分の人生に取り込んで、問題に振り回されることとは違う。それではネガティブに働くだけである。そうではなく、苦しみを認めて、それに感謝し、それを優しく手放すことである。

涙が出てきた。今私が取っているエッセンスのひとつは、「形あるものからの開放」である。そう、これは私の問題だった。言い換えれば、木は私のために死んだのである。

もう一度友人とご主人の顔を思い浮かべ、その魂に送った。そして木にも。

「ごめんなさい。ありがとう、愛しています」

そして翌日の今日、知らない翻訳会社から電話があり、「陰の浄化の瞑想」と題する瞑想のCDを翻訳する仕事が舞い込んできた。15年実務翻訳をやってきて、そこには情熱は感じられず、ここ数年の間、精神世界の翻訳ができたらいいなと、どれほど思っていても全く縁がなかったこと。それが、向こうからやってきた。

それも、よりにもよって「陰の浄化」とは。

宇宙さん、ニクイことをしてくれるなあ。

2008年7月9日

地縛霊は友達?!(4)

実家に到着すると、もう10時半を過ぎていた。私は、母が用意しておいてくれた食事を軽くとってから、お風呂に入った。湯船に浸かりながら周りの空気を読み取るようにじっと様子をうかがってみたが、嫌な感じとか変な感じはしない。もう来ているのだろうか。

夜も更けて、私は長旅の後で疲れていた。何も考えず、ただゆっくりと眠りたかった。が、油断をして霊に生気を吸われて、熱を出すようなことになって欲しくはなかった。それは、ただ私自身がそれを許すか許さないかにかかっていた。

「絶対に先回のようなことにはならない!」境界をはっきりさせて、意識の上でも自分をクリアにし、凛とした態度でそう断言すると、疲れた体の奥から強いエネルギーが湧き上がってきた。デブラさんが言ったことを思い浮かべ、目には見えないが霊がそこに来ていることを前提に、私は心の中で話しかけた。

「霊さん、そこにいますか。私はここへ帰ってきました。今回は絶対に病気にならないし、あなたにエネルギーを抜き取られるようなことにはならない。だから、どうか私のエネルギーを取らないで下さい。その代わりに、あなたの好きな布を持ってきました。何かメッセージがあったら夢で教えて下さい」

それは届いているのかどうかわからない。ただ静まり返った風呂場の中で、湯船の湯気が揺らいでいるだけである。しかし、この時も、暗い感じとか嫌な感じはまったくなかった。

私は寝る前に、念を押すがごとく布団の中でもう一度話しかけた。そして、好きな場所は私が最初に思った神社でよいのか(結局、それ以外何も思い浮かばなかったので)、他にメッセージはあるのかなどを夢で教えてもらうことを望んだ。どんな霊なのだろうか、と考えるとやはり恐い。霊というとじめじめして、どうしても悪霊的なイメージになってしまう。

「私が怖がらないような方法で教えて下さい、お願いします」
臆病な自分は、つかみどころのない闇に向かって心の中でそう頼んだ。

そんな私の心の中は、霊にとってはガラス張り。小学校で「ちょっかいを出してくる子」が、好きな相手に自分が恐れられているとしたらどんな気分だろう。怒るだろうか、それとも悲しく思うだろうか。

その夜、夢を見た。私の友達(実際には知らない人)が私に話をするという形で、霊が答えてくれた。それによると、この霊は何千年もの古い魂で、長い間、人のエネルギーを吸い取って生きている感覚になることを繰り返してきた。私のときは、左肩のあたりから抜き取っていたということである。

日本に来る前に読んだ本「People Who Don’t Know They’re Dead(死んだことを知らない人々)」で覚えた「あなたは死んだことを知っていますか」という質問をしてみたが、直接的な答えは返って来ず、その代わりに、少し間をおいて「どうしてよいかわからない」という、戸惑っているというか、しょげた感じが伝わってきた。

私は、心の中でこの霊が光の方へ進んで行くことを願った。嫌な感じや怖い感じ、冷たい感じはまったくなく、恐れるどころか、逆にこの霊に温かさと優しさを投げかける自分がいた。夢を見ているときの自分は、起きているときの自分よりも大らかである。

結局、光に送ることはできず、まだ好きな場所のことは答えてもらっていなかった。ところが、そのことを聞こうとしたときに、突然夢の場面が薄らぎ始めた。「ああ~待って!」まるで夢を乗せた乗り物が、霧の中に消えて行くみたいだ。しがみつこうとあがいてみても、すうっと目が覚めてしまえば終わりである。すでに朝になっていた。

まだ夢の余韻でボーッとしている頭の中には、場所のことではなく別のことがあった。なぜか、赤い布だけでは足りないような気がしたのだ。

「他に欲しい物はないか教えてね」

夢にもう一度戻るかのように心の中でつぶやくと、待ってましたとばかりに「赤い花」と来た。ひょっとしたら、私がそれを聞くように相手が仕向けたのかもしれない。

そのリクエストに刺激されて、頭が忙しく動き出した。赤い花、赤い花・・・。概して頭というものは、まず自分が親しみ慣れている領域から物を選ぼうとする。

「カーネーションかな?」

いや、どうも違うようである・・・わからない。そのまま頭が静止状態になると、今度は急に眠気が戻ってきてウトウトし始めた(これも相手が仕向けたか?)。すると次の瞬間、眉間の前にパッと赤いつぼみをつけた椿のような花と枝が現われた。またもや、音にならない鈴のような音が聞こえた。

「ああっ椿だ!」

ここからまた頭が動き出す。「椿なら納得がいく。カーネーションは洋花で今風だけど、椿は古くから日本で親しまれている花。古い魂が好む花としてぴったり!」
得てして頭は理屈が好きだ。

「でも、椿は花屋には売ってないだろうし、どうやって手に入れようか」

また、新しい問題が起きてしまった。う~んとうなって頭を掻き掻き下の居間へ降りていくと、父と母はすでに起きており、父はテーブルで新聞を読んでいた。その父に話しかけようとしたとき、私の視線はそのまま父の後ろの庭に流れ、そこで釘付けになった。

あの赤い花が咲いているではないか!

実家の庭に、それも居間の正面にあの花があった。まるで「これ見てよ、ここにいるじゃない」と言っているように。私は、おもわずニンマリした。

私「お母さん、あのツバキ」
母「ツバキ?ああ、あれは椿と違って山茶花」
私「サザンカ~?椿と思った」
母「椿と山茶花はよう似とるけどな、あれは山茶花」
私「そうか~」

私は、椿と山茶花を区別できるほど花に詳しくはなかった。庭に出てみると、ちょうどいい具合に咲いたものが3つあり、後は固いつぼみだった。でも、これで十分だ。

朝食の時に、父に神社のことを聞いてみた。八幡神社という地元の小さな神社で、私は子供の頃に一度くらいは行ったことがあるが、中の様子はほとんど記憶になかった。父によると、実家からの距離は1キロ弱だということである。デブラさんの言った半マイル(約800メートル)という条件にピッタリだ。

その場所が正しいかどうかはわからなかったが、距離的には当てはまるので、やはりそこへ行くしかなかった。朝食が済むと、山茶花の花を枝から3本切り取り、赤い布と線香を持って、父と母には散歩に行くと言って外へ出た。

その日は12月15日、後で調べると満月の日であった。これ以上ないというほど、きれいに晴れ上がった気持ちの良い日だった。歩きながら、見た夢のことを思い出しても、まったく嫌な気持ちにはならず、逆に暖かさや感謝の気持ちが沸き起こった。この霊は私の言うことを聞いてくれている。そう思うと、親しみさえ感じられた。

さんさんと輝く日の光を浴びて、霊と一緒に八幡神社まで散歩している気分になってきた。気づくと「晴れてよかったね~」と霊に声をかけていた。私の周りを有頂天でグルグル回ってはしゃいでいる様子が浮かぶ。すると、私の心もウキウキし始めたのは不思議である。霊の心と繋がったのだろうか。

さて、八幡神社に到着し、まずは神様にご挨拶をした。手を合わせて「私に力がなく、この魂が光に進みたくても進めないのであれば、神様どうぞお力をお貸しください」とお願いしたところ、頭のてっぺんからサーッとエネルギーが入ってきた。

そして、祈り終わってふと横を見ると、肩越しに私の父の名前が目に飛び込んできた。それは、この神社に寄付した人の名前が書かれた木の札であったが、そこには他に80ほどだろうか、寄付者の札が並んでいた。普通なら、それほどの数の中で特定のものを探すには時間がかかるのに、パッと一目で名前が入ってきたのは偶然ではないと思えた。父の名前を見た瞬間に、私は直感的にこの神社でよかったのだと確信した。

次に、布と花を供える場所である。神社の本殿から少し離れた丘の、正面からは見えない裏側に回って、そこにある大きな木を選んだ。表側に赤い布を置こうものなら、きっと年末大掃除か何かですぐに見つかって、捨てられてしまうだろう。そんなことをされたら、この霊は、おもちゃをとりあげられた子供のように、私のところに泣いて飛んでくるだろう。それはかわいそうだし、私もまた病気になっては困る。

誰もいないひっそりとした神社の木の根元に、布と花を供えた。このときも、ウキウキした気分になり「花きれいだねー」と声をかけていた。まるで、友達に話しかけるように。

その後、一緒に持ってきた線香に火をつけようかと一瞬迷ったが、地面は枯葉で覆われていたため、火事になると困るのでやめた。やめて正解。一般に線香はお寺で上げるもので、神社では不要であることに後から気づいて苦笑した。

神社を出る前に、呼び止められたかのように、境内の入り口付近にある古墳に引き付けられた。それは小さなものであったが、7世紀初めに建造されたと推定される横穴式石室のある遺跡であった。実家の付近には、他にも5世紀~6世紀頃の古墳群がある。今でこそ、山を切り開いて住宅地となってしまったこの地域一体は、その頃は全く異なる様相を呈していたのであろう。

この霊が地縛霊なので、何かこの古墳、神社、もしくはこの土地に深い関係を持った人かもしれないと思った。と同時に、私もひょっとしたら、昔にもこの地域に住んでいたのかもしれないと何となく思った。

神社を後にする私の心は、その日の青空のようにさわやかであった。あの霊は、大好きな布と花と一緒に、これからはあの木の所にいるだろう。私は自分の課題を無事終えることができたことに満足していた。

と、そのとき「People Who Don’t Know They’re Dead」の著者の講演会で、ウォリーさんが言った言葉をふと思い出した。

「もしかして、過去生で関係のあった魂かもしれないね」

私は今まで何度も帰郷しているのに、あんな風に病気になったことはなかった。振り返ってみると、今回のことは、夫の甥のJ君が発端になっているように思えて仕方がない。J君の魂は、昔自分がいた懐かしい場所を訪れていたのだろう。そして、彼を通して過去生の感情が蘇ったことで、私の中の閉じていたある部分が開き、それがこの霊を引き寄せたのかもしれない。それはいつの時代のことであったのだろう。もしかして、J君と私とこの魂は接点があるのかもしれない。

そして、これを書いている今、気づいた。そういえば、あの夢は私の友達を通して語るという設定だった。

もうひとつ、最初に私の背中から入った霊は、距離的に地縛霊の行動範囲ではなかったため、他の浮遊霊だったかもしれない。しかし、後からこの霊がエネルギーを抜き取っていたのは間違いないだろう。それは悪意があってやったことではなく、きっと赤い布と赤い花の「赤」に象徴される生命と活力にあこがれ、寂しさからやった行為なのだろう。それがデブラさんの言う「ちょっかいを出す」に当たるのかもしれない。そう考えると、生きている人間のような悩み多き霊に対して、逆に親しみが湧いてしまう。

結局のところ、真相は誰にもわからない。それでも、地縛霊が過去生の友達だったなんてことも、なきにしもあらず。

<おわり>

2008年7月4日

地縛霊は友達?!(3)


それは、ハロウィーンも間近の10月29日のことだった。家の近所にスピリチュアル系の書店があり、そこである著者の出版記念講演会が開かれた。

今振り返ると、これも今回の地縛霊体験の「パッケージ」に含まれていたのである。

私は、それより数日前に、引き込まれるようにその書店に立ち寄り、書店のイベントのスケジュールを載せた冊子をもらった。そこでは、ワークショップや新刊本の紹介、講演会などを定期的に開いていることを知っていたが、今まで実際に参加したことはなかった。ところが、家に帰って特に目的もなく冊子のページをパラパラとめくっていると、数日後に「People Who Don't Know They're Dead (死んだことを知らない人々)」の著者によるフリートークがあるという情報が目に飛び込んできた。

これを見た瞬間、衝動的に行きたいと思った。そのときの自分にとって、とてもタイムリーなトピックだし、ましてやタダ。損をすることは何もない。その上、通常大半のフリートークは夜の時間にあり、私には仕事があったり夫が家にいたりで外出するのは難しいが、それは週末の昼間の時間だった。まるで、私のためにすべてお膳立てされているようであった。

さて、講演会場へ行ってみると集まった人は20人足らずで、会場はこじんまりとしていた。著者は劇作家のゲイリー・リオン・ヒル氏で、彼の叔父ウォリーさんが霊能力のある友人の助けで行ってきた「死んだ人のカウンセリング」のことを綴ったものであった。トークは、ウォリーさんを交えて、その著書からのエピソードを抜粋して体験を語るもの。もちろん、著書の販売促進のためであるが、死んだ人がカウンセリングを受けて成仏していくなんて話は、スリル満点だ。ましてやそれが本当の話で、中には感動するものもあり、私は話に引き込まれていった。

ウォリーさんは、年は60代後半から70代前半といったところだろうか、一見見たところ、気のいい隣のおじいちゃんを思わせるまったく普通の人であった。しかし、死んで路頭に迷っていたり、間違った場所にいる何百何千体という霊と話をして光の方向へ導くという、普通では考えられないこと(特にアメリカ社会では、こういったことは強く否定される)に40年以上も真剣に携わってきただけあり、自分の役目を心得て、迷うことなくそれを貫いてきた強さのようなものがにじみ出ていた。

また、著者のゲイリーさんは、子供の頃からこの叔父さんの活動に強い興味を寄せていたが、後に劇作家という職業柄を活かして書くことを担当したようである。この素晴らしいチームワークは、きっと世の中に大切なことを伝えるべく、目に見えない大きな力が導いたであろうと思わずにはいられなかった。

講演会の最後に質疑応答の時間が設けられたが、私は一通り質問が終わるまで待って、日本での霊体験と、シャーマンが与えた課題のことを手短に話した。ウォリーさんは40年以上もの経験があるのだから、私のような事例があったのではないかと思ったからだ。お供えの仕方とか、霊を閉じ込める方法とか、そのようなことを教えてくれるかもしれないと密かに期待していた。ところが、私の話をじっと聞いていたウォリーさんの口から出た言葉は、「もしかして、過去生で関係のあった魂かもしれないね」だけであった。

「へっ?」

それが私の反応だった。

最後に、この「People Who Don't Know They're Dead」の本を買う人は、著者のサインをもらうために列を作った。もちろん私もその中の一人であったが、聴衆の一人が帰り際に近づいてきて「微笑ましいお話、どうもありがとう。日本でうまくいくといいわね」と言って声をかけてきた。私にとっては忌まわしい体験だったのに、聞く人の耳には微笑ましい話として伝わっていたことに少し驚いた。

さて、サインをもらおうとゲイリーさんとウォリーさんの前に本を持って立ったとき、私はなぜか急に熱い思いで胸が一杯になって言葉に詰まったが、かろうじて「今日ここへ来たのは、まったくぴったりのタイミングだったように思います」と言うと、ゲイリーさんは大きくうなずき、「AT THE RIGHT TIME -(ちょうどいいときに)」と書いてサインし、「あなたには力があるよ」と言って本を手渡してくれた。私は感動して涙が出そうになった。

そして、ウォリーさんも「あなたの心がそう思えば、そのスピリットと話をして導くことができるだろう、ガイドの方達の力を借りてね」と言った。私はガイドとのつながりのことなど一言も言っていないのに・・・。もしかしたら、それはウォリーさんを通じたガイドからのメッセージだったのだろうか。ゲイリーさんもウォリーさんも大らかでさらりとしていたが、私の目には尋常でない力を持った人達として映った。

それから数日間、私はその本をむさぼるように読んだ。死んだことを知らずにある一定の時間と空間に閉じ込められている魂がいること、迎えに来ている存在がいるので、それに気づかせることで光に導けることなどを読んで学んだ後、あたかも実習が用意されているかのように、夢で既に死んだ人が具体的な形で現われた(そのときのエピソードは http://hoshinoto.blogspot.com/2007/10/1.html に)。そのときは、光に導くことはできなかったが、閉じ込められている魂がいることを直に知った。

さらに、寄生虫さながら、霊には生きた人のエネルギーを吸って「生きた心地になる」ものもいるという。実は、これこそが私が日本で体験したことだったのだ。

あのときゾクッと寒気がしてから、あれよあれよという間に力が抜けていき、高熱を出して寝込んだその日、トイレに行ったついでに鏡で自分の顔を見たときは「生きた心地がしなかった」。鏡に映った自分の顔はまったく生気がなく、昨日まではツヤツヤして張りがあった肌はガサガサになり、目は落ち込んで頬はげっそりとし、老婆のようになってしまっていたからだ。生気を抜かれるというのは、ああいうことを言うのだろう。

「それにしても、あの霊は自分が死んだことを知っているのだろうか。私は光に導くことができるのだろうか。しかし、お供えをして霊をおびき出すということは、光のもとへは行けないということなのか・・・」そんなことを考えながら、本を読み進めていった。

赤い布のことは意識の中にはあったが、日本へ行く12月中旬まではまだ時間があったので、特に自分から進んで探そうとはしなかった。そういうことは、得てしてほとんど忘れているときにやってくる。

11月も半ばになり、衣装箱を整理していたら、気に入っているが長い間着ていないセーターが出てきた。着ない間にボタンが派手すぎる年になってしまっていたが、少し地味目のものに付け替えればあと2~3年は着られる。

さっそく、近くの手芸店へボタンを買いに行った。大きい店だったので、ありとあらゆる種類のボタンがあり、選ぶのに時間がかかった。そして、やっと気に入ったものを見つけたときに、ふと布地のことが頭に浮かんだ。「ああそうだ、はぎれ・・・」

布売り場に行ってみると、はぎれの山の中にひとつだけ赤い布があった。選択の余地はない。ところが、その赤い布は、細かい模様こそ入っていないが、色といい光沢といい、あの時ふと浮かんだものとかなり近かった。それは、あまりにも簡単すぎる布探しとなったので、デブラさんに言われた後、あれほど緊張した自分を思い出すとフッと笑いがこみ上げてきた。

「これで課題ひとつクリア!」心が少し軽くなった。

家に帰ったその夜、袋から赤い布を出して、さてどうしたものかと考えた。ヤード単位でしか買えないので大きかったが、やっぱりハンカチくらいがいいだろうと思い、切って端を手で縫った。

裁縫なんて久しぶり。しかし、実は手縫いほど愛情がこもったものはないのである。気がつけば、私はその霊のことを敬う気持ちで縫っていた。

「どうせなら、綺麗に仕上げてあげよう」
そして、縫っている間、ちょっぴり弾む気持ちになった。

なぜそんな風に感じたのだろうか。相手を恐れ、この布に引き付けようと念を込めて縫う一方、敬う気持ちや弾む心があるとは。それはまったく理不尽なことであった。

布が出来上がると、後は霊が好きな場所だけである。デブラさんと話している時に瞬間的に浮かんだ実家の近所の神社については、それがあまりにもすぐに浮かんだので、あてにはならないと思った。

「こういう大切なことはじっくり瞑想でもしてわかるものだ」そう信じていたので、何度も瞑想を試みた。ところが、いつも眠くなって失敗してしまう。

そうこうしているうちに、日本へ発つ当日となってしまった。
「まあ飛行機に乗っている間に考えよう」
しかし、考えようとすると、頭がボーっとしてしまう。

結局何も浮かばなかった。そして、とうとう実家の近くの駅まで来てしまった。夜道を運転する父の隣に座り、黙ったまま正面の暗闇を見つめて私は考えた。

「あの霊は私が来たことをもう知っているのだろうか。一体どのくらいの距離で察知するのだろう。ひょっとして、もうこの車に同乗しているのだろうか」

後ろを振り返ってみたが、夜の闇は沈黙とともに私を見守るだけである。まもなく実家の玄関の明かりが近づいてきた。

<つづく>

2008年6月26日

地縛霊は友達?!(2)

それから4ヵ月後、シャーマンのデブラさんの家を訪れた。その頃私は、いっこうに改善しない極度の冷え性をはじめ、今後の自分の活動や夫との関係に関するガイダンスを求めていた。

デブラさんについては、信頼できるシャーマンであることをその2年ほど前からサークルの仲間を通じて聞いており、連絡情報をもらっていたが、そのときはまだ必要性を感じず、ずっと机の片隅にしまってあった。しかし、いよいよそのときが来たと思い、連絡を取った。

デブラさんはシベリアのシャーマンの弟子になって修行をした後、自宅でオーラリーディング、シャーマニックヒーリング、ドラムのワークショップなどをしていた。私はオーラリーディングに興味があったので、それを依頼した。

あらかじめ質問したいことを準備していたが、それはすべて自分の健康問題や人生に関するものであった。デブラさんは、まずエネルギーに繋がってから質問を受けて、その時空にアクセスするようである。通常、ガイダンスはイメージや色などのメッセージ性を持った抽象的な形で現われると説明してくれた。彼女を通して伝えられるメッセージはどれも深く、私にとってはすべて強く心に残るものばかりであった。

さて、自分が用意した質問が一通り終わった時、ふと、先回帰郷した際に病気になったことが思い出された。すると、そのことはここで話題にするべきものであるかどうかを判断
する間もなく、質問が勝手に口から出ていた。

私 「あの~、今年の5月に実家に帰ったときに2回病気になったんですが、あれは何だったんでしょうか」

デブラ 「ちょっと待ってね、見てみるわね」(目を閉じる)

私 「・・・・・」

デブラ (ニッコリして)「実家の付近にスピリットがいるわね、地縛霊よ。それがいるから体の調子が変になるみたいね」

私 「それって憑依されたってことですか。それは悪霊だったんですか」

デブラ (目を閉じてさらに詳しく見ている。しばらくして、首を振って)
「いや、そんなんじゃないわね・・・・(ニヤッとして)そのスピリットはあなたのことが好きみたいよ」

私 「えっ好きって?!」

デブラ 「うふふ(目を閉じて、まるで楽しいものを見ているように笑う)・・・ほら、例えば、小学校のクラスで、自分は全然気がないのに向こうが好きで、ちょっかいを出してくる子っているじゃない、そういう感じ。あなたのことを可愛いと思っているのよ」

私 「か、かわいい?!(そんな、霊に可愛いと思われても嬉しくない!)」

私 「それで、12月にまた帰るんですが、もう大丈夫でしょうか」

デブラ 「いや、また来るわね」

私 「ということは、また病気になるってことですか」

デブラ (淡々と)「まあそうね」

私 (「まあそうね」って人ごとだと思って・・・あのときのことを思い出すと、気が重くなった)「それじゃあ、どうすればいいでしょうか(弱気になる)」

デブラ 「そのスピリットが好む場所におびき寄せて、そこに相手が好きな物をお供えするのよ。まず、そのスピリットが何が欲しいか聞いて、それを探すの」

私 「どういう物ですか」

デブラ 「例えば、果物とか花とか、木とか石とか、色かもしれないし。いずれにしても、そのスピリットが好きな物で、それはあなたが探すのよ」

私 「はあ・・・(混乱する)」

デブラ 「そして、そのスピリットが好きな場所があるから、それも探すの。家から大体半マイルくらい離れた所ね」

その瞬間、ある神社が頭に浮かんだ。でも、それはあまりにも瞬間的だったので、そこが正しいのかどうかわからなかった。まあいいや、時間があるから後で考えよう。半マイルの範囲で絞ることもできるし・・・。

デブラ 「だから、そのスピリットが好きな場所と物を選んで、おびき寄せて交渉するのよ」


私 「交渉?」

デブラ 「そう、そのスピリットを呼び寄せて、『あなたが来ると私は病気になるから、来てもらうと困る。でも、あなたの好きな物を持ってきたから、それと交換に、ここにいて私には近寄らないで』って話しかけるのよ」

私は自分のするべきことを頭の中で整理しようとしていた。そんなことは一度もやったことがないし、それをすること自体思いも寄らなかった。場所に関しては、なぜかそれほど心配にはならなかったが、好きな物についてはまったく見当もつかない。

私 (心もとない声で)「あの~、さっき好きな物は果物とか花とかっておっしゃいましたけど、そんなこと、私わかるのでしょうか」

デブラ 「あなたのガイドに聞いてみれば、きっとわかるわよ」

私 「・・・」

すっかり弱気になっている私をチラリと見て

デブラ 「例えば赤い布だったり」

その言葉を聞くやいなや、私の眉間の前に、シルク地のような光沢のある赤い布がヒラリと揺れた。そのイメージは背景も含め全体が光っており、かなり詳細であった。ハンカチほどの大きさで、細かい模様が入った品のよい赤。着物の生地を思わせる。同時に、音にならない鈴のような音(波動音と言った方が正しいかもしれない)が聞こえたように感じた。

直感的に、これだ!と思った。デブラさんは、その私の反応を読み取っていたようであった。

そして、別れる前にデブラさんはこう言った「結局のところ、プロテクション(霊から身を守る)というのはテクニックじゃなくて、霊的に賢くなること。それは、強い心と魂を持つってことよ」

家に帰ってこれからやらなければならないことは、あの赤い布を探すことである。そして、その霊が好きな場所を見つけること。今度日本へ行くまでに、まだ3ヶ月の余裕があった。

私は、この難題を無事にクリアすることができるだろうか。

しかし、他にも知っておくべき情報があったようで、それは、ごく自然な形で与えられた。1ヵ月半後、私はある書店の講演会場に座っていた。

<つづく>

2008年6月24日

太陽に対する意識

太陽をどう捉えていますか?

今朝、朝食を取っているときに、そのことに意識が及んだ。

私自身、肌が強い方ではなく、すぐ赤くなってしまうので、強い日差しを敬遠しがちになり、外に出たときは、つい影を探して歩くようになっていた。しかし、ある時に、それまで曇っていても、外に出るとほとんど必ずと言ってよいほど晴れてくることから、自分は太陽に対する考えを改める必要があることに気づいた。

「太陽は忌み嫌うものではない」

紫外線対策、美白、シミ・ソバカス、お肌の大敵、皮膚がん。このような言葉は、特に日本にいると、毎日のように耳にしたり目にしたりする。太陽に対するマイナスのイメージが、いつしか私たちの意識の中に浸透してしまった。

確かに、太陽から放射され人体に有害な影響を与える物質の量が増えているので、それに対する対策は必要であるが、太陽がもたらす恩恵と私たち生き物との関係に、もっと積極的に意識を向けて欲しいと太陽が言っているようで仕方がない。

少し前に、ある方のお宅にヒーラーの方をお招きして、10人ほどで誘導瞑想を体験した。その瞑想で自分と地球・太陽・月・海に意識を向けたが、太陽をイメージしたときに、ほとんどの人が温かさや明るさなど、ポジティブな感覚を味わった。それが、太陽本来の意味だと思う。

そして、その瞑想が終わった後、ほんの数分の間であったが、それまでずっと覆っていた厚い雲にぽっかり穴が開いたように青空が見え、太陽の光が降りてきた。そして、その後、また雲の扉が閉まってしまった。まるで、私たちが太陽に意識を繋げたことに対して、太陽が応えてくれたかのようで、その奇跡的な瞬間に、そこにいた全員が感動した。

私たちは気づいていないかもしれないが、私たちと太陽は、もっと直接的で大きな繋がりがあるのではないだろうか。そう思ったとき、ふと、人間の集合意識は、天候にも影響を与えるのではないだろうかと思った。

ひところ前にガングロが流行り、その後美白。4月に日本に帰ったとき、健康的な肌とは思えない、異常に白い肌の人をたくさん見た。ガングロも美白ブームもどちらも自然とはかけ離れ、バランスがとれていないように思う。

顔は白塗りで黒い傘をさし、黒い服に黒い手袋をまとう人々を見て思った。病気ならともかく、それは太陽に対する、あなたの意識が表面化したものではないでしょうか、と。極度に走る私たちに、自然が警鐘を鳴らす。太陽は忌み嫌うものではない。

2008年6月23日

地縛霊は友達?!(1)

先日の日記で、以前私は地縛霊に憑依されたことがあると書いたが、最近サークル仲間で憑依のことが飛び交っているので、ここでちょっと微笑ましい(?)体験談をひとつ。

私は年に1~2回夫と一緒に帰郷するが、2005年の春はいつもと少し違った。夫の甥が急遽便乗して日本へ来ることになり、2週間私たちと一緒に、私の実家に滞在することになったのである。15歳になるこの甥のJ君にとっては、日本は始めての外国であった。

私が先に実家に戻って、一週間後に夫とJ君を迎えた。前回J君に会ったときはイガグリ坊主のかわいい小学生だったが、今では180センチを超えるほどの長身になり、15歳とは思えないほど大人っぽく、なかなかハンサムな青年(?)になっていた。

その彼は、慣れ親しんだ環境とは全く違う日本に来ても、そのまま溶け込んでしまい、違和感を感じなかったようだ。誰でも異国で一番抵抗を感じるのは食べ物であるが、彼は全く大丈夫だった。例えば煮魚、味噌汁、豆腐料理、かぼちゃの煮つけなど、いわゆるおふくろの味的なものがテーブルに並ぶと目を輝かせ、嬉しそうに食べる。もちろん、それらは彼にとっては初めて口にするものばかりである。

アイスクリームを選ばせたら、あずききなこのフレーバーが一番好きだという。大福もちはもちろんのこと、その他の和菓子も全部好きだし、日本のお風呂はリラックスできるといって大満足。とても15歳のアメリカ人とは思えない(感覚がちょっと年寄りっぽい?)。前世は日本人だった?と冗談ぽく言ってみたら、本人は否定しなかった。

そうやって、実家で何日か過ごしているうちに、気づくと私は彼を今のJ君として見なくなっていた。彼の目を見ると、いきなり時空を超えてしまって、昔々私は彼に好意を持っていたことに気づいた。私としては、時空を超えて過去の関係を感じることはJ君が初めてではなかったが、特に自分が好きだった相手の場合は、いつも相手の目に引き込まれてしまう。目は、過去生の記憶への入り口なのだろうか。

そのような感情を持つとそれが相手にも伝わるのか、彼と向かい合って座っていると、お互いに微笑み合って不思議な空間に滑り込んでしまい、心地よい波動に揺られている気分になる。現実には25歳も年下なのに、その空間では彼の方が年上になってしまう。

それは心地よい感覚であったが、私の心の状態は時空を飛び越えた領域に入ってしまうため、自分の軸が不安定になっていた。そして、そこに「すき」ができてしまったことに全く気づかなかった。

そのようなすきは、別のものにとっては絶好の入り口であるということを、そのときは知らずにいた。

それは、夫とJ君と私の3人で名古屋見物をした後、喫茶店で一休みをしているときに起こった。喫茶店の中はタバコ臭くて不快なので、外のテーブルで3人でおしゃべりをしながらコーヒーを飲んでいた。と、そのとき、道路のホコリを巻き上げ一筋の風がヒュッと吹いてきて、私は背中にゾクッと寒気を感じた。今でもはっきり覚えている。それは、肩甲骨の下の部分から少し下がったところで、思わず首をすくめるようなシャープな寒気だった。しかし、その時は寒いっと思っただけで、気にもとめなかった。

ところが、その後、実家に戻って夕食を食べているときに悪寒が走り、体は重くて座っているのが辛くなり、のどと関節が痛くなって熱が出だした。おかしいなと思ったときから1時間後には寝込んでいた。それほど急速に悪化したのだ。風邪の症状なのだが、それまで元気だったし、風邪を引く原因は何一つ思いつかないので変だなと思った。それに、状態の悪化の仕方があまりにも速かった。

それから3日間、38度5分近くの熱が続いた。関節が痛んでのどはヒリヒリするし、せきが出る。その2日後には、夫とJ君と一緒に仙台にいる友人を訪ねることになっていたので、どうしてもそれまでに回復したかった。熱でフーフー言いながらも「明日は絶対元気になってやる」と強く心に決めると、幸い翌朝熱が下がっていた。そして、無事に仙台に行くことができた。

不思議なことに、仙台にいる間は、それまで高熱を出していたのがうそのように元気だった。ところが、実家に戻るとまたすぐに同じ症状が現われて、どんどん力が抜けていき、熱を出して、再び数日寝込むことになった。今度はもうアメリカに戻る日が近づいていたので、このまま寝込んでいるわけにはいかない。結局帰るぎりぎりまで体調が悪かったが、空港へ向かうときには元気になっていた。

私はそれまで帰郷中に2回も熱を出すことなどなかったので、なぜそんなことになったのか、その後もずっと気になっていた。それに、実家を離れると元気になっていたというのも変な話である。そして4ヵ月後、気になっていたことの答えを、あるシャーマンから聞くことになる。

<つづく>

2008年6月21日

いのちの賛歌



太陽がまばゆい初夏のある午後、数年前から始めたオーガニック畑で草抜きをしていた。

しゃがんで無心に草をむしっていたところ、突然「手のひらを太陽に」の歌が勢いよく流れて来るのに気づき、ハッとして手を止めた。子供の頃に学校で習った懐かしい歌だ。

どこから聞こえて来るのだろうか・・・ここはアメリカで、誰かが音楽をかけているのではない。そう、それは直接私の頭の中に入り込み、そこから外に向かって響いていたのだ。気づくと、私はこの歌を無意識に口ずさんでいた。

♪ぼ~くらはみんな~生~きている~ 生き~ているから歌うんだ~
ぼ~くらはみんな~生~きている~・・・♪

弾むリズムに、なんだか胸がワクワクしてきた。

♪手~のひらを太陽に~すかしてみ~れ~ば~ ま~っ赤に流~れる~
ぼくのち~し~お~♪

このとき、歌に合わせて太陽に向かって手をかざしていた。目の前にある自分の手の中を、急流のごとく流れる血液が透き通って見えるようだ。そう思ったとき、この勢いよく流れる血液のように、急に体の奥からエネルギーが沸き起こり、体中がカァッと熱くなった。

♪みみずだぁ~って おけらだぁ~って~ あめんぼだぁ~って~♪

このとき、またハッとした。この歌を歌っているのは私だけでないと感じたからだ。しゃがんだまま思わず振り返ると、すぐ後ろで、腰くらいの高さまで伸びたエンドウ豆たちが楽しそうに「歌っていた」。下を見ると草が、土の中のミミズが、ブラックビートルが、そして肉眼では見えない微生物までもが歌っているのだ。

カメラで早いスピードでズームアップしていくように、目に入る部分がどんどん拡大されて、意識を集中すると、中まで透き通って見えてしまうような感覚に襲われた。すべての生き物が楽しそうだった。空中を飛ぶ蝶やハチや頭上をそよぐ風さえも、すべてのものがあらん限りの声で歌っているのを、私は体全体で感じ取った。

そのとき時間が止まり、私は異空間へ滑り込んでいた。

この生き物たちの大合唱に包まれ、私は地面にヘタヘタと座り込んでしまった。私を取り巻くすべてのものの生命エネルギー、この息苦しいほどの強烈なエネルギーが渦巻き迫り寄り、圧倒されそうになったのだ。耳をつんざくほどの大合唱。

この世界では、いのちに強いものも弱いものもなく、大きいものも小さいものもなく、優れたものも劣ったものもなく、すべてが等しかった。すべてが喜びに満ち、その精一杯の力で等しく光り輝いていた。そう私の心は感じた。

次の瞬間、私は見た。自分の胸のあたりから、きらめく太陽に向かって半透明の白いらせん状の渦が広がり出るのを。それと同時に、私は自分がいるこの空間に溶けて広がって行き、すべてのものと一体になった。

いのちの賛歌にすべてのものが光り輝き、喜びに満ちている。その中に自分が溶けて行き一体となったとき、大いなる源に抱かれた。それはとても懐かしくて温かく、父親のように力強く、母親のように優しかった。

そして、私はその一瞬、今まで経験したこともないような強烈な至福感を味わい、涙があふれ出た。

このとき、自分は生かされていること、虫たちや植物、風と同じように、自分も宇宙の一部であることを「はっきりと知った」。

時空を越えた大きな癒しの瞬間であった。

生きとし生けるもの、すべてが理由あってここに存在している。無駄なものは何一つない。そのことに気づき、自分が宇宙の一部であることを認識したとき、人間のおごりは消え、生きていることの素晴らしさ、生かされていることへの感謝の気持ちがおのずと沸き起こるだろう。

<2008年6月21日夏至の日に捧げる>

2008年6月18日

キリークの音?

「平津(実家がある地域の名前)の二階に悪霊がいる」
夢の中で声がそう言った。

ひえ~聞きたくなかった!もうすぐ実家に帰るというのに。これは、今から3ヶ月前の3月に、帰郷する準備をしていたときのことだ。帰るのを楽しみにして、それまでワクワクしていたが、この夢を見てから急に気分が重くなった。

「またか・・・もうクリアしたと思っていたが・・・」

実は、以前帰郷した折に地縛霊に憑依されたことがあり、その霊がまたやってくるのかと思った。しかし、それは悪霊ではなかったので、今回わざわざ「悪霊」と言われたのが気になった。「あのときのようにまた熱を出して寝込むのかなあ」とそのときのことを考えて弱気になる自分がいたが、「手ごわいヤツなのか・・・嫌だなあ、何か対策を立てないと。それにしても、予告があったから不意打ちを食らうよりはいいか。どうも、これもある種のチャレンジのようなものなのだろうか。それに、低いエネルギーから守るようオーラを強めるノコギリソウのエッセンスをとっていたから、以前よりは外界からの影響を受けにくくなっているかもしれない」などと、冷静に考えるもう一人の自分もいた。

さて、何をどうすればよいのだろうかと考えたところ、まず頭に浮かんだのが、10年ほど前、私の厄年のときに母が日本から送ってくれた木の札だった。このお札には凡字のキリーク(ここに表記できない)が書いてあるが、これについては不思議なエピソードがある。

32歳の3月のある朝方、突然こんな夢を見た。母と私がお寺のような所でお参りをしているのだが、母が私の左手をとって、手のひらにシュルシュルと早いスピードで何かわけのわからない記号のようなものを書き始めた。そして、その記号の最後に「、、」と2つ上下にテンを書いた。シュルシュルの部分は複雑な動きだったのでよく覚えていないが「、」はわかりやすい。

その最後の「、」を書き終わった瞬間に、「ハッ」という男とも女とも区別のつかない、人間かどうかもわからないが、こだまするような声が寝ている私の耳元から発せられ、耳から離れていった。というよりも、私の耳の中から出てきて、吹き飛ばされるというか、はじき出されると表現した方が正しいかもしれない。その瞬間、私は「とれた!」と言って目覚めた。

それは夢だったが、目覚めた後も、夢ではないような奇妙な感覚が残った。「ハッ」という声がした直後に目覚め、その声の余韻が寝室に残っていたからだ。

それから数日して母からお札が入った封筒が届いた。私は、開けて思わずアッと言いそうになった。そのお札には「、、」で終わる記号があったからだ。その頃、私は凡字のぼの字も知らなかったが、お札の凡字の右側にある上下に並んだ「、、」の位置が、夢の中で母がシュルシュルと手のひらに書いたものと同じだったので、おそらく同じ字だったのだろう。

お札が届いたお礼を言うために母に電話をして、その夢の話をしたところ、どうもちょうど夢を見た日くらいに、父と母が厄除観音の霊場である岡寺山継松寺というお寺の初午大祭に行って、33歳を迎える私のために祈祷をしてもらい、お札をもらってきてくれたことがわかった。

その「ハッ」という声は私に憑いていた邪悪な物だったかもしれない。もちろん勝手な憶測に過ぎないが。

ということで、今回日本へ行くときまでにキリークの凡字を覚えて宙に書けるようにしたいと思った。行者が呪文を唱え、宙に何かを書いている姿がイメージとして浮かび上がったからだ。

特に、正しい書き順で書くことが重要なように思われた。しかし、凡字のぼの字も知らなかった私が、キリークを正しく書けるはずがない。そんなことを知っている人などあまりいないだろう。と思いきや、ある方の顔が浮かんだ。

マイミクで直伝霊氣の師範格の方がいらっしゃる。ちょうどそれから数日後にお会いする機会があったので聞いてみると、なんと彼女は写経のように凡字を書き写すことをしているというではないか。彼女は親切にも、書き順付きのキリークの字が大きく印刷されたページをコピーして私に手渡してくださった。ありがたいことである。これで少しほっとした。

その字を持って日本に着いた。3月27日のことである。今回は、実家でいつも私に用意してもらうその寝室こそが悪霊がいる部屋かもしれないと思ったので、違う部屋で寝ることにした。といっても、その違う部屋も同じ二階にあるので油断できない。到着したときは既に夜だったので、とりあえず、換気をしてかしわ手を打って自分が寝る四方にキリークの字を書き、枕の下に字を置いて寝た。それが功を奏してかどうかはわからないが、その晩は何も起こらずぐっすり眠れた。

翌日、その波動が悪そうな部屋に入った瞬間、そこは二階部屋で全部で4箇所に窓や戸があり、南側に大きな窓があるので明るいにもかかわらず、「うっ」と来るような何かを感じた。空気がよどんでいる。西側の窓の外はすぐ隣の家の壁なので、いつもトタンの雨戸が閉まったままになっているし、大きな窓から直射日光が入って畳が焼けるのを防ぐために透かしカーテンが引いてある。廊下に通じる戸は、廊下にあるものが邪魔をしていて少ししか開けられないため閉めてある。ふすま戸は左側に寄せてあるが、右側が塞がれていて通気がよくない。そしてホコリっぽい。そういう状態だった。

トタンの雨戸をはじめ、すべての窓や戸を開けてふすま戸も中央に来るようにして両側から通気すると共に、部屋全体にまんべんなく光が通るようにし、パンパンとかしわ手を打ち、力を込めてキリークの字を書いた。これだけでかなり波動が変わったように感じた。以前熱を出して寝込んだのはこの部屋で、また、別の時には寝ている時に重いものがのしかかってきて悲鳴を上げたのもこの部屋である。

その晩も自分の寝る部屋に凡字を書いて寝た。そして明け方、こんな夢を見た。知らない人のグループの集会に参加し、リーダーの人と出席者がお経のようなものを唱えているのを聞いていると、「ウニウニウニウニウニウニウニウニ」ととても速くて高い宇宙的な音が聞こえて、あの、のどのイガイガ君のような丸くて周りにイガイガのある形をした、好意的な感じの物体が空中に浮かんでおり、その音はそこから発せられていた。そして、それが私の方へ近づいて来ると、第2チャクラ(丹田)がビリビリと振動し始めた。怖くはなかったが、かなり強い振動だった。その後、私はなぜか仰向けになった一人の女性の肩に手を当ててマッサージし、その後、塩で自分の肩と背中を清めた。

そこで目が覚めた。しかし、丹田の辺りはまだビリビリしていた。不思議な夢だった。あのイガイガ君はエネルギー体であったが意思を持っていたように思う。夢の内容が除霊っぽいので、ひょっとしたらイガイガ君はキリークと関係しているのかもしれない。「ウニウニウニウニウニウニウニウニ」というのは、キリークの周波音なのだろうか。

翌日、友人にエッセンスを調合してもらうため、横浜に向かった。選ばれるエッセンスの背後には多面的に起こる出来事があり、それはひとつひとつが独立した出来事ではなく、どれも互いに関係し合い、過去・現在・未来が繋がっている。そして、大きな流れに向かって私たちの気づきと成長を促してくれる。夢という形であったにしろ、丹田に来た振動はリアルだった。あの「ウニウニウニウニウニウニウニウニ」という宇宙音は、これから調合してもらうエッセンスや起こる出来事・気づきと何か繋がりがあるのだろうか。いつか、それがわかるときが来るかもしれない。

2008年6月16日

石がやってきた

先週の金曜日に、友人のRさんと彼女のボーイフレンドを家に招いて一緒に夕食をとることになっていた。Rさんは以前から私の畑に行きたいと言っていたので、私は、彼女に午後少し早めに来てもらって、畑に連れて行ってニラを取ったり野菜の苗を植えたりして、一緒に作業をしてから食事にしようと考えていた。ここのところずっと悪天候で畑に行けなかったので、久しぶりに畑仕事ができるのを楽しみにしていた。

ところが、前日になってRさんは、石を見たいので石屋に行きたいと言ってきた。「よかったらジュンコさんも来る~?」

「う~ん・・・」私も自分なりに心積もりがあったので、正直なところ、急なスケジュールの変更に混乱していた。少し疲れていたので、金曜日の午後に渋滞の中をわざわざ出かけることを考えるとおっくうに思ったが、気づいたら「じゃあ行くよ」と口から勝手に言葉が出ていた。

というわけで、Rさんと彼女のボーイフレンドと私の3人で、カークランドのEarthlightという石屋に行くことになった。なぜ彼女が急に石を買いたくなったのかというと、つい先日、彼女が新しい職場となるオフィスを訪れた際、首の後ろが異様に重くなって気分が悪くなり、どうもそうじゃないかと感じたので、ボーイフレンドに見てもらったそうだ。

このボーイフレンドは普段は閉じているのだが、開くと見れる人で、彼女の思ったとおり霊が憑いていたということだ。それも四体。しかし、彼女に別に危害を加えるタイプの霊ではなく、彼女にくっ付いて家まで一緒に来てしまったという軽いものであった。ただ、そのうちの一体はすぐには去らなかったらしいが、彼女がその後、外で思いっきり卓球をして発散させるとどこかへ消えてしまったという。とにかく、彼女はこれからその職場で毎日働くことになるため、オフィスの波動を上げる石を机に置きたいということだった。

さて、私が急遽便乗して訪れることになったこの石屋は、もともと私の霊気の先生が教えてくれた所で、8年前に指輪をリフォームするときにお世話になり、その後は1~2回ほどしか行っていない。実は、この店は私のガイドスピリットが霊気の先生を通して紹介してくれたもので、客はそのように何かのきっかけで訪れる人が多いようだ。先回行った時は、店長が「ここに来る人は、来るべくして来るみたいだね。以前、タイのお坊さんのグループがやってきて、夢でこの店の看板を見たのですよ、と言って入って来たんだよね。不思議なこともあるもんだねー」と話してくれた。「へえー」と言いながら、そういう不思議な話が大好きな私は、店を埋め尽くしている石を見回した。

そして、今回もやっぱり不思議なことが起こった。私はRさんのお供だったので、ただ店の中でフラ~っとしていたのだが、ふと「ここに来た理由があるのだろうか・・・何か欲しい石はあるのかな」と思って自分の心に聞いてみると、昨年私の甥のために買った石が頭に浮かんだ。「あ~あの石、何て名前だったっけー」度忘れして名前がなかなか出てこない。

すると、そのとき一人の白人女性が店に入ってきた。彼女は明らかに目的を持って訪れたようで、店員はすかさず「何かお探しですか」と聞いた。「ラブラドライトを探しているんですけど・・・」と彼女が答えた瞬間、私はハッとした。

それそれ、それなんですよ、名前が出てこなかった石は。すごいタイミング!これほどはっきりしたメッセージはないではないか。その石を買えということなのだ。

幸いにも、その店にはラブラドライトはたくさん置いていなかったので、あまり迷うことはなかった。置いておくタイプのものではなく、身につけるタイプのものがよいという感じがしていた。そして、すぐに気に入ったのは、全体が青や水色、黄色、金色など様々な色に発光するものだった。左手に持ってみると、ビリビリと強いエネルギーが伝わってきた。

一方、Rさんも魔除け用に大きなクリスタルを2つと、他にも気に入った石をいくつか見つけた。きっとこれで、首が重くなって気分が悪くなることもなくなるだろう。

さて、レジでお金を払おうとしたときに、私はアッと声を上げそうになった。レジの後ろの壁に、大きな龍の絵が貼ってあったのだ。実は、その前の週にあるヒーラーの方にお会いし、その方とのご縁で龍神様のご加護をいただくことになった。ラブラドライトは、龍神様ご指定の石だったようだ。それにしても、わかりやすい方法で教えてくれるものだなあ。

家に帰って太陽光とクリスタルで浄化した後、家にあるものを使ってシンプルなペンダントにした。

ラブラドライトには、インスピレーション、根気強さ、実行力、信念を貫けるよう導く力があり、ハートチャクラに働きかけ、その放つ光は、銀河系の他の惑星から発せられた高次元の情報であるという。見るからに神秘的だが、そのパワーもまた神秘的である。

石は、気の遠くなるような長い時間と太陽光、風、土、熱などの様々な自然の力によって形成される。過去の記憶と関係し、深く眠っていた魂レベルでの意識や記憶力を目覚めさせ、新しい世界を発見したり、理解を迎え入れる上でサポートしてくれる。そして、その新しい知識は地球と関係しており、その地球の記憶・記録が石を持つ人の人生観を変えることになる。

ご縁のある石は、向こうから呼びかけてくる。なんとなく気になるものや、一目で気に入ったものなどはたいてい相性がよく、直感的に選んだものはほとんど間違いない。やはりそのときに自分が必要としている石は、自分にとって個人的な意味があるのだろう。

ペンダントを作ったその夜、石を電気にかざして色や光を楽しんでから、私の所に来てくれたことに対してお礼を言って、これからよろしくと挨拶をして、枕元において布団に入った。寝る前に呼吸法を使ってリラックスするようにしているのだが、その夜、布団の中で深呼吸をしていたら、ハートチャクラの背中側が熱くなった。こんな感触は初めてである。

そして朝方、夢で全く新しい情報が入ってきた。それは、ひょっとすると、私のこれからの活動に関係するのかもしれない。それについては、今後具体的な展開があったらお話しようと思う。

これを書いている今、急に思い出した。Rさんの家系は龍神と関係があったのだ。

ラブラドライトを持たせることで、龍神様は私に一体何を仕掛けようとしているのだろう。

2008年6月10日

エッセンスのパワー(3)


1本のドーセージボトル(調合したエッセンスが入るボトルのこと)にブランデーを少量混ぜた水(カビや腐敗を防ぐため)を入れ、エッセンスをスポイトに取ってそこに一滴ずつ入れていく。市販の薬の服用量は年齢を基準とするが、エッセンスの処方箋はどうやって決まるのだろう。私は黙って、彼女の手元を見つめていた。

彼女は、まず手に持ったスポイトの頭の部分のゴムを押して、ローズクォーツのエッセンスを吸い取った。そして、ドーセージボトルの上2~3センチ離れたところから、中に一滴ずつ落としていく。エッセンスは音もなく次々と入っていった。

10滴くらい入ったころだろうか、落ちていく滴を見ながら彼女が叫んだ。「これ、まだ入る!」私は意味がわからずじっと見つめていると、スポイトの中のエッセンスは半分以上なくなっていた。「信じられない、こんなの始めて。これ、まだ入るよ!こんなに入ったら、他のが入らなくなるー」彼女はひどく興奮していた。さらに一滴一滴と、滴はボトルの中に落ちていく。彼女は心配し始めた。まだ他に3つのエッセンスが残っているのだ。「どうしよう、まだ入る・・・」

「入るよって言うけど、入れているからじゃない」と私は思った。彼女一人が興奮したり心配したりしていてもその意味がわからず、私はポケッとしていた。とうとうスポイトの中の最後の一滴も入った。「もうこれで終わりじゃないと溢れてしまう・・・」彼女は少しためらった様子であったが、すぐに意を決したかのように再びスポイトに新しいエッセンスを取って、ボトルの上に構えた。緊張した面持ちであった。私は、何が起こっているのか全くわからなかった。

すると、2回目に取った分の最初の一滴がボトルの中に入るやいなや、「ピシャッ」と勢いよく跳ね返るような音がして、私はドキッとした。直径2ミリにも満たない穴から5センチほど落下した滴がボトルの中の波動水に当たった瞬間の音は、彼女から80センチくらい離れて座っている私にもはっきり聞こえるほど大きく響き渡った。

「ああよかったー、これで入った(終わった)」彼女は興奮と緊張で少しほてった顔を上げ、ほっとしたように言った。「ねっ、音がしたでしょ、その音でわかるの。それにしても異常なほど入ったねえ」

驚いた。最初の20滴近くは全く何の音も立てなかったのに。どうしてあの一滴であんな大きな跳ね返るような音が出たのだろう。

そんなことを考えているうちに、彼女は早くも2つめのエッセンスを入れようとしていた。一滴、二滴、そして三滴目で今度は「ポン!」と弾けるような音がした。さっきのエッセンスと同じくらい大きな音であったが、音自体は全く違っていた。どちらも、あの小さな穴から出る滴が、その小さなボトルに入る音とは思えないような音であった。

彼女は、通常このように音で判断するということである。これを彼女は「エッセンスが教えてくれる」と表現していた。

そして、3つ目のエッセンスも同じように音で合図してくれ、いよいよ最後のエッセンスとなった。今度も最初のエッセンスのように音もなくどんどん入っていく。が、しばらくすると彼女がうなった。「う~、ああダメ!これ以上入らない」何をうなっているのだろうと見ると、彼女はスポイトをボトルの上に持ち上げたままじっとしている、というか力んでいた。「これ見て!こんなに押しても入らない」

私は前のめりになってよく見てみると、スポイトの中にはエッセンスがまだ半分ほど残っている。ところが、頭の部分のゴムはぺしゃんこになるほど強く押されているのにも関わらず、エッセンスがまるで蓋をされてしまったかのように全く出てこない。そんな馬鹿な・・・これじゃあ、マジックの世界じゃないの。

「このエッセンスはこれ以上入りたがっていないから、これで終わりってことだね」と彼女は言い、スポイトに残っている分をマザーエッセンスのボトルに戻した。そして、最後に再び私の手を取って、調合したエッセンスのボトルの上でペンデユラム(振り子)を使って、口に含む回数と滴数を確認した。

それぞれ独特の弾けるような音を出したり、押しても入ることを拒むエッセンス。ここで私が聞いたり見たりしたことは、普通の感覚ではわからないことであった。しかも、彼女はエッセンスを意思がある人間のように扱っていた。エッセンスには意思があって、適量を教えてくれるというところだろうか。

その「意思」とはどこから来るのかと思いを巡らせると、「宇宙の仕組み」のようなものに行き当たる。それは、多次元の目に見えぬ波動の世界。私たち人間の頭では理解できない、いわゆる神秘の部分と言える。

「それにしても、ローズクォーツすごかったねー。異常なくらい入ったねえ。こんなの初めて」そのとき、その「異常なくらい」という言葉が心の片隅で少し特別な響きを持って残ったが、私は新しい調合エッセンスが出来上がったことが嬉しくて、それ以上考えることはなかった。

その晩、私は彼女の家に泊まり、翌日新しいエッセンスを持ってワクワクしながら帰途に着いた。シアトルから日本に戻って4日目のことであった。途中で1週間沖縄に行くことを除き、これからほぼ1ヶ月間、実家で家族と一緒に過ごすことになる。

「明日は4月1日。新しいエッセンスを始めるには、パーフェクトな日だなあ」そのときは、ローズクォーツが「異常なくらい」入る必要があった理由などつゆとも知らず、新幹線の中で一人ほくそ笑んでいた。

今でこそはっきり言える、「すべてのことには偶然はなく、完全なタイミングでやって来る」と。

<つづく>

輪の心

皆それぞれ違う

皆それぞれに役割がある

皆それぞれに得意なことがある

皆それぞれに好きなことがある

皆それぞれ、皆それぞれ

それぞれが持ち寄り、助け合い、補い合って

輪の心 和の心



エッセンスのパワー (2)

日本へ帰って3日後、私は彼女と向き合って座っていた。自然の成り行きでアメリカに渡ってシアトルに10年間住み、また自然の成り行きで横浜という全く新しい場所に拠点を置くことになった彼女。その彼女のいる空間は、不思議なエネルギーに包まれていた。床の間がある客間なのに、なぜか山小屋にいる雰囲気がする。部屋全体が荒削りの板張りだからだろうか。

3月30日、もうすぐ4月というのに、その日は真冬に逆戻りした日であった。彼女の家に着いてから雨が降り始め、ストーブを焚いていても寒い。ヒーリングに関することに触れるときには、必ずといってよいほど雨が降り寒くなる。彼女の周りにはネイティブアメリカンとアラスカのエネルギーが取り巻いており、日本にいながらここだけ異空間になっていた。

先回彼女に会ったのは昨年の11月。そのとき、シアトルの私の家で初めてエッセンスを調合してもらった。あのときも、このように向かい合って座った。あれから、エッセンスを通して私にも様々な気づきと出来事があった。

すべてのことに偶然はなく、完全なタイミングでやって来る。数ある中で、アラスカンエッセンスというひとつの手段に出会った。人生のこの時期に、それも、双子の魂とも言える彼女を通して。それは、どのような意味があるのか。きっと、いつかはっきりとわかる日が来るだろう。

人間は宇宙の一部であり、自然という大いなる力に包まれて生かされている。見える世界と見えない世界、その両方の世界をつなげて調和の中に生きることこそが、自然と共に生きる姿であり、太古の人達はそうやって生きてきた。残念なことに、この地球上から自然が急速に消えようとしている。その消えようとする自然と並行して、私たち人間も大きくバランスを失いかけている。

彼女によると、アラスカという所は、他の場所と比べて人口密度が極めて低いので、植物や環境が、人間のエネルギーに汚染されていない比較的純粋な姿のままで太古の昔から保たれているところが多く、白夜の夏や極寒の冬などのような激しい気候の変化の中で育つアラスカの植物は、素晴らしい「適応能力」を持っている。その適応能力を私たち人間の人生に取り入れることで、目まぐるしく変動する日々を心地よく生きることができるようにサポートすることが、エッセンスの役割なのだそうである。そう、常に変化する自然の中で生きる力とは、環境適応能力なのである。

「実際、アラスカの土地に住んで体感して、そのエネルギーと同調できるから、エッセンスそのもののパワーを素直に伝える媒体になれると思う」と彼女は言った。日本ではお金を払って何日間か講習を受けただけで資格がとれるそうであるが、確かにそれとは全く訳が違う。彼女は日の沈まない世界も氷に閉ざされる世界も知っている。その大地に立ち、自然を自分の肌で感じ、目で見、手で触れている。

彼女がセージの葉を焚いて、スマッジングをして部屋とペンデュラム(振り子)を浄化した後、私は目を閉じて深呼吸をした。次のサイクルの目標を明確にするときである。自分はどのようになりたいのか。肉体レベル、精神レベル、魂のレベル、それぞれに意識を向けていく。すると、心の中でイメージが浮かんでくる。それを読み取るように、彼女が手を差し出して私の手を取り、エッセンスのボトルの上でダウジングを始めた。

彼女は強調する、「自分はヒーラーではなく導き手であり、エッセンスを選ぶのはそれを取る本人のエネルギーである」と。「本来持っている自己治癒力を最大限に発揮できるようにサポートをしてくれるのがエッセンスであり、意識の奥底に閉じ込められている過去生や魂のレベルでの凝り固まったパターンをも表面化させて、ポジティブな方向へと転換する助けとなる。自己治癒の過程は、エッセンスと共にその浄化過程を乗り切ることである」と。

自然の生命の営みを観察するとわかるように、自然は絶え間ない変化の中で常にバランスを取ろうとしている。その柔軟さと力強さこそが自然治癒力であり、私たちひとりひとりの中にある大いなる力である。

彼女は、並んだボトルの上で左から順にぺンデュラムをかざしていくと、ぺンデュラムは特定のボトルの上で大きく動きを変えた。そして、4つのエッセンスが選ばれた。それは、2種類のフラワー(ブラダーワートとスターフラワー)と2種類の石(ファイヤーオパールとローズクォーツ)だった。このうちのブラダーワートとファイヤーオパールは、これまで毎回選ばれてきたエッセンスであった。黄色い花をつける食虫植物であるブラダーワートの特性は、「物事の本質を見抜き、その中核にある真実はシンプル」であることに気づかせる。そして、古代の火山の地層から採掘される石であるファイヤーオパールは、「女性性を象徴し、絶えることのない火山帯のエネルギー」を示し、“I have energy (エネルギーを持っている= 一時的で消耗される)”から“I am energy(自分がエネルギーそのものである=永続的)”に移行できるようサポートしてくれる。

彼女が持っているこのファイヤーオパールのエッセンスは、アラスカで受けたクラスで作ったものだそうで、世界にひとつのオリジナルということであった。そして、そのエッセンスには興味深いエピソードがあった。

このエッセンスをクラスの皆で一緒に作っているときに、大風が吹いてきて、その土地の先住民にとって世界創造の神であるワタリガラスとハクトウワシが同時に飛んできたそうだ。そのクラスの受講者の一人に、薬草に精通し、鍼師をしている先住民のお年寄りの方がいたが、その方は、これはすごいことだと、その場で踊りを捧げ始めたという。この話を聞いて私は、エッセンスという見えない世界の「仕組み」の一部に触れたようで、その神秘的でスケールの大きい世界がこの小さなボトルに入ること自体が、とても不思議に思えた。

さらに、この2つのエッセンスに加え、今回新しく選ばれたスターフラワーとローズクォーツもパワフルな特性を持っている。スターフラワーは天と地を結び、人ごみの中でも影響を受けずに自分自身でいられるように助けてくれ、常に自分の心と繋がってその心で話すことができる一方、他人の意見にも耳を傾けることができる能力を強化してくれる。ローズクォーツは心を開かせ穏やかにし、inner child(内なる子供)に繋がることができ、自分だけでなく他人とも密接でいられる手助けをしてくれる。

さて、エッセンスが選ばれると、次に1本のボトルにブランデーを少量混ぜた水(カビや腐敗を防ぐため)を入れ、エッセンスをスポイトに取って一滴ずつ入れていく作業がある。「入れる量はどうやってわかるの」と私が聞くと、「エッセンスが教えてくれるよ」と彼女は言った。

エッセンスが教えてくれる?

全くその通りであった。それもあっと驚くような形で教えてくれるのだ。

<つづく>

2008年6月9日

エッセンスのパワー (1)

以前にも日記で言及したが、私の双子の魂とも言える友人が、昨年アラスカでアラスカンエッセンスを学び、もうすぐ、公認エッセンスセラピストの資格がとれるところまで来ている。

資格の取得条件として、何人かにエッセンスを調合して結果を報告するプロジェクトを完了する必要があり、私もその中の一人として参加させてもらった。私自身ちょうど体調が優れず、人生の大きな転換期に来ていることを自覚していたので、これは格好のチャンスであった。

そもそもエッセンスとは何か。私の理解では、それは自然の中に存在する「エネルギーの特性」であり、それが形として表れたものが植物であったり動物であったり、月であったりする。逆に言えば、例えば、森林火災の跡地に一番早く姿を見せるファイヤーウィードと呼ばれる植物は、そのこと自体がエネルギーの特性であり、動物では、例えば、川のある場所に住んで木や泥を使ってダムや複雑な構造の巣を作り、かじり続けていないと伸びすぎてしまう歯を持つビーバーは、そのことすべてがエネルギーの特性である。

アラスカンエッセンスでは、花、鉱物、そして環境の3つを扱う。いずれもそのエッセンス(エネルギーの特性)を水に転写して波動水を作るが、この波動水は、人間の感情や精神における不調和な部分に作用し、バランスを回復させる上で役立つ。花は意識の内的変化を促す触媒となり、鉱物はそれを安定させ、環境は活性させるという働きがある。花や石といえばすぐに想像がつくが、「環境」とは、例えば満月であったり夏至であったり日食であったり、オーロラであったりする。その状態(環境)においてエネルギーと繋がることで、水への転写を行う。

冬は氷と長い夜に覆われ、夏はほとんど日が沈まない日が続くという非常に厳しい自然環境にあるアラスカ大陸。そこに存在する植物や鉱物、そして雄大で神秘に満ちた環境。アラスカンエッセンスをとるということは、それらのパワフルなエネルギーを体に取り入れることである。具体的には、エネルギーを転写した水を一定の滴数だけ口の中に入れる。

調合にあたって、まず必要な情報として、肉体、精神、魂の3つのレベルで自分の現在の状態を把握し、短期と長期の目標を立てる。それに合わせてエッセンスが選ばれる。そして、その後1サイクルの終了毎に振り返って気づいた変化や出来事を評価して、次回の目標を設定するというもの。私は昨年の11月から約半年の間、4回のサイクルにわたってエッセンスをとり続け、つい昨日プロジェクトを終えた。

このエッセンスのプロジェクトの総合的なことについては、後ほど書こうと思うが、第1回目は彼女がシアトルにいたので私の家で作ってもらい、2回目と3回目は彼女が横浜に拠点を置くことになったのでそこから遠隔で作ってもらい、4回目である最終回は私が横浜に赴いて作ってもらった。

実際に目の前で調合してもらうのを見るのは、横浜に行った時が2回目に当たるが、最初に私の家で調合してもらった時は、私はエッセンスのことをほとんど全く知らなかったので、何が起こっているのかわからなかった。しかし、最終回のときには、かなり落ち着いて全体を見ることができた。

実際、いくつも並ぶエッセンスのボトルのうちから適切なものを探して適量を入れるという作業は、驚くような形で行われた。そして後に、そのとき選ばれたエッセンスの正確さと意味の深さに、もっと驚くことになる。目に見えない波動の世界の奥深さを垣間見た思いであった。

<つづく>

2008年5月29日

365歩のマーチ

昨日、苦しい時期の真っ只中にいる知人のことを思った時に、この歌が浮かびました。彼女に贈ります。

ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー


幸せは歩いてこない
だから歩いてゆくんだね
一日一歩三日で三歩
三歩進んで二歩さがる
人生はワン・ツー・パンチ
汗かきべそかき歩こうよ
あなたのつけた足跡にゃ
きれいな花が咲くでしょう

腕を振って 足を上げて ワン・ツー ワン・ツー 
休まないで歩け ソレ ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー  


幸せの扉は狭い 
だからしゃがんで通るのね
百日百歩 千日千歩
ままになる日もならぬ日も
人生はワン・ツー・パンチ
明日の明日はまた明日
あなたはいつも新しい
希望の虹を抱いている

腕を振って 足を上げて ワン・ツー ワン・ツー 
休まないで歩け ソレ ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー  


幸せの隣にいても
わからない日もあるんだよ
一年365日 一歩違いで逃がしても
人生はワン・ツー・パンチ
歩みを止めずに夢みよう
千里の道も一歩から
始まることを信じよう

腕を振って 足を上げて ワン・ツー ワン・ツー 
休まないで歩け ソレ ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー

2008年5月23日

旅は意識を広げる

昨年、チャネラーにチャネリングをしてもらったときに、旅について、私のガイドはこう言った。

「旅は意識を広げ、視野を広げる。日常生活以外に体を置くことで、現実から離れる。現実は行動も予測できるので、波動的には同じ場所にいるのである。

しかし、旅により、別の波動と共振する。すると、自分の中の隠れた領域が開いて、感性や感覚、感情、知性がアップする。

カルマで感情が上がったときは、出して流すようにするとよい。これは一時的なものなので、こだわる必要はない。

また、旅をしたときに、そこにいるだけでもよいが、日記をつけて『こういう感じがした、こう思った』など、すべての感覚を使って感じたことを細かにつけることで、顕在意識と潜在意識が統合されるようになる。すると、その顕在意識と潜在意識がさらにつながるようになり、意識の位置づけができる」

確かに、旅に出ると行動に予測はできない。初めての場所は、見るもの触れるものすべてが新鮮で、波動も全く違う。無意識のうちに「心の触覚」を使って感じてみている。それは、日常生活の中ではあまりやらないことだろう。この「心の触覚」を使うことで、潜在意識に焦点が当たるのかもしれない。

初めてなのに、初めてではないような感覚に襲われたり、深い部分でとても懐かしく感じる場所に出くわす場合もある。または、急に悲しくなったり、恐怖感が湧いたりすることもある。その感情がどこから来ているのか、戸惑うこともある。きっとそれは、魂が訪れてみたかった場所なのだろう。

思考や行動とつながる顕在意識だけでなく、普段隠れて気づいていない部分である潜在意識に焦点を当てることで、人の意識は広がり、より全体性に近づくことができるのかもしれない。

先月沖縄本島と石垣島、竹富島へ行った。沖縄・八重山地方の旅行は今回は二度目であったが、二年前に初めて竹富島を訪れたときに、フェリーから降りて島に足を付けた瞬間からなんとも言えない安堵感に包まれ、それは、実家に帰るときに感じるよりもずっと強く、心の奥から来る深い深い安堵感であった。

今回竹富島では、不思議な体験をした。昔「琉球」と言われていた地域である沖縄・八重山地方は、やはり特別な場所であるように感じた。そのことについては、沖縄の旅日記として後日書こうと思う。

2008年5月14日

アイデンティティの再確立

一昨日こんな夢を見た。

友人と一緒に川が流れている所にいて、川岸でウトウトしていた。太陽の光が暖かく気持ちがよい。川の水は白っぽい水色で、沖縄で見た海の色を思わせる。

白鳥が一羽水の上に浮かんでおり、周りにはトンボがいっぱい飛んでいる。トンボは水面にもたくさんいる。また、水の中には小さい魚がたくさんいるのが見える。心が落ち着き、気持ちがよい光景だ。すると、白鳥が水面にいるトンボを躍起になって食べ始めた。

突然、川の上流から水が押し寄せてきた。危ない!うかうかしていたら水にのまれてしまう!取る物もとりあえず、私は友人と一目散に高台へと走って避難した。大量の水が押し寄せてきて、私たちがいた場所はたちまち水にのまれてしまった。

水が引いた後、先ほどの場所に戻ってみると、私の財布は流されてしまっていた。財布には、お金や身分証明となる免許証やクレジットカードが入っていたが、それが全てなくなってしまった。「ああ、お金も免許証もクレジットカードもなくしてしまい、これからどうすればいいのだろう!」と嘆いていたところ、流されずに残っていたものがあることに気づいた。それは、いつも旅行に行く時に持っていく、指輪などアクセサリー類を入れる布袋であった。開けてみると、赤いスカラベ(フンころがしコガネ虫のことで、古代エジプト時代のお守り)の指輪が出てきた。そこで目が覚めた。

白鳥とトンボは、頭の中に鮮やかなイメージとして残った。大水が押し寄せてくる様子は強烈だった。これは明らかにメッセージ。そう思ったので、テッド・アンドリュー著の「Animal Speak」を開いてみた。この本は、主にネイティブ・アメリカンによる動物界の智慧の解釈を説明したもので、私は特徴的な動物の夢を見た時には、この本を開くことにしている。

白鳥の特徴を見てみると、くちばしと足以外は真っ白で首が長い。また、翼は一打で人間の腕を折ってしまうほどの力があり、くちばしも強く、白鳥の寿命は長いもので80年ということである。

スピリチュアルな解釈として、白い色は太陽(陽のエネルギー)を象徴し、長い首は、頭(高次元)と体(低次元)をつなぐものである。その教えは、「醜いアヒルの子」に象徴されるように、外観に惑わされず、自分や他の人の中にある内なる美を見出し、それを外界へとつなげていくことである。自らの中にある美と力を見出したとき、人はそこから生命の力を得ることができる。

トンボについては、水の中にいる幼虫が成長し、やがて変容して空中を飛ぶトンボになる。水は感情を象徴し、水の周りに生息するトンボは、理性と感情の両方を表現することの必要性を表している。トンボが現われた場合には、特に自分の感情に意識を向けることが大切であるということだ。

また、幼虫から成虫になるまでにほぼ2年かかることから、2年の転換期を経て具体的な形が現われるときであるか、その転換期がこれから始まるか、または2年以内に望みを達成すべく変化を起こすときであると解釈される。

トンボは日中に活動し、その活動は夏に最も盛んになることから、水のそばで太陽の光を浴びることで活力が得られると解せる。トンボは太陽と光の世界に関係するが、光は一日を通して刻々と変化するものである。トンボの一生を見た場合も幼虫から成虫への変容をはじめ、死ぬまで何度も体の色が変わる。このことから、トンボは「変化」を示すものであり、自分の中で生じている変化を認め迎え入れるときである。私たちは光の存在であり、創造性を使ってその光を輝かせることができることを教えてくれている。人生は光と色に満ちており、錯覚に惑わされず、その奥にある真実を見抜くことで、自分本来の光を輝かせることができる。

う~ん、深いメッセージである。それにしても、白鳥がトンボを「食べる」行為はいかに解釈するのか・・・。そうこう考えているうちに、それよりも、大水が来てお金や免許証、クレジットカードをなくしてしまったことの方へと考えが移った。

実は、その夢の前にも、火山が噴火して溶岩と土石流が押し寄せ、死ぬ覚悟をしている夢を見ている。昨日は、自分は高校にいたいのに、そこには新しい生徒が入り新しい場所となってしまい、もはや私がいる場所ではなくなったという夢を見た。

これらを合わせてみると、やはり変化のときが来ているようで、免許証とクレジットカードをなくすことが象徴しているように、どうも自分のアイデンティティの再確立をすべきときに来ているようである。そのときにキーとなるのが、水が引いた後に出てきた赤いスカラベの指輪。古代エジプト人にとってのスカラベは彼らの精神性を表すもので、お金や免許証やクレジットカードとはあまりにも大きく異なるものである。

もうひとつ、興味深いことは、日本で書店に入って真っ先に飛び込んできた本が「3日で運がよくなるそうじ力」(舛田光洋)。今、日本では掃除の力が見直されているようであるが、掃除で波動を変え変化を起こすというのには納得できる。日本から帰ってから、掃除をしてスッキリしたくてたまらない。それはもちろん、散らかっているからであるが、それに加えて、今回、帰郷してひとつ何かをなし終えた感があり、自分の中で何かが変わったことを感じているからであろう。

変化、アイデンティティの再確立、この言葉を胸に思い切って捨てるものを捨て、新しい自分と向かい合うときが来たように思う。