2008年1月28日

水星の逆行

本日1月28日から2月19日までは水星が逆行する。水星の逆行は年に3回起こるが、地球から見ると、水星が通常の進行方向ではなく、逆の方向に戻っているように見えることを逆行と呼ぶそうである。

私は占星術を学んだわけではないので、詳しいことは専門家にお任せすることにして、この水星の逆行から気づいたことをお伝えしたい。

水星はコミュニケーションや交通、それに関連した通信機器などに影響を与える星で、逆行する期間は、概してこれらのことがうまく行かないときである。送ったはずの電子メールが届いていない、間違い電話がある、ファックス機やコンピュータが壊れる・調子が悪い、人にうまく意思が伝わらず誤解される、車が故障する、渋滞に巻き込まれる、飛行機が遅れるなどはその典型的な現象である。

また、過去に解決されていないことが別の形で浮上したりして、もう一度見つめ直さなければならない状況になる場合もある。逆行には過去のことが関係するようで、古い友達やずいぶん長い間会っていなかった人にばったり会ったりすることもある。

この期間は物事がスイスイとうまく進むときではないため、新しいことを始めたり、特に車など高価なものを購入することは避けた方がよいようである。また、契約書などの重要な書類にサインすることも避けた方がよいということである。

御多分にもれず、私の周りでもこの期間には何かが起こる。原因不明でインターネットに接続できなくなったり、インドからの間違い電話があったり、先回の逆行のときには、セネガルから間違い電話があった。うちは国際電話は日本からだけであるが、こういう突拍子もない間違い電話は必ずと言ってよいほど逆行期間に起こる。

コミュニケーションがうまく行かない例として、何年か前に指輪をリフォームすることがあって、水星の逆行期間が終わるまで進めない方がよいと人に言われたにも関わらず、それを無視して自分でデザインを考えて、これを作ってくれとデザイナーに渡したところ、全く違うデザインでできて来たのでびっくりしたことがあった。幸い指輪の型の段階だったので、作り直すことができ問題はなかったのであるが、あまりにもかけ離れたデザインは一体どこから来たのか不思議であった。

未解決の問題の浮上の例としては、逆行期間になると、なぜか夫とけんかをする状況になって、その都度夫に腹を立てる自分があり、そんな自分がとても嫌だった。普段は穏やかなのだが、なぜか逆行期間になると必ずというほど何かの出来事が起こって、同じ感情が戻ってくる。その原因を見出さない限り、その場でなんとか感情を抑えても、また次の逆行期間に違った出来事で同じ感情に陥り、そこから抜け出せないのである。結局、逆行期間とそのパターンが重なることに気づき、逆行は過去の解決されていないことが浮上する期間であることを知るまでに時間がかかったが、それを知ってから内省して、やっと原因を突き止めることができた。原因は夫ではなく自分にあった。

こう書くと、いかにも水星の逆行は悪い期間のように聞こえるかもしれないが、そうではないと思う。「三歩進んで二歩下がる」と歌にもあるように、人生の中でスローダウンして下がるときも必要であるということであろう。出かけるときにはいつもより時間に余裕をもって行動するようにしたり、コミュニケーションにはいつもより言葉や表現に気をつけるなど、行動や思考に対して全体的に速度を緩めるときなのであろう。

この期間は、エネルギーが内向きになるときなので新しいことを進めるのではなく、「きちんと終わっていないもの」を片付けるときであり、内省するときである。内省することにより見えてきたことを基に、転換して行くチャンスのときでもある。

また、過去に関連して、古い友達などにばったり会ったりするときでもある。第一日目である本日は、長い間会っていない知人から電話があった。飼っている犬が突然いなくなって探しているとのことである。以前、私はアニマルシェルターでボランティアをしていたので、シェルターの住所を聞こうと思って電話をかけてきたそうだ。先ほど、水星の逆行について、ある方のブログを見たら、逆行はペットにも影響を与えると書いてあった。具体的にペットがどうなるのかはわからないが、知人に起こったことも関係しているのだろうか??

いずれにしても、私たちは宇宙の一部であり、決して全体と切り離されてはいない。占星術の詳しいことは知らないが、水金地火木・・・と学校で覚えたこれらの惑星と私たちは、深く関わっているのである。それぞれの惑星に特徴があり、例えば土星は秩序、法律、自己規律、ルール、権威、社会、組織などを現すとのこと。そして、その動きも関係し、とても興味深い。そのため、占星術で自分が生まれたときの星の位置により、仕事や健康、家族、性格、今生の目的などを含め、過去生から未来に至るまで、さまざまなことがわかるそうである。

これから3週間あまりは、新しいことを始めるのではなく、自分の内外共に片付ける方に焦点を当てた方がよいようである。メールが届かなかったり、飛行機がキャンセルされたりと通信・交通に乱れがあっても慌てないように。

ちなみに水星の逆行は、今年はこのほかに5月26日~6月19日までと9月24日~10月15日までである。

2008年1月24日

こだわり (8/17/2007のブログ)

ちょっと遅れますが、一昨日強く心に響いたメッセージを。

・ 頭でゴチャゴチャ考えない
・ 心が導く方向へ
・ 成り行きにまかせる

実は今、ある人と行動を共にして学んでいることがある。それは、「こだわり」ということである。

こだわることは物などをクリエイトする世界ではプラスになることが多いが、日常の物事において度合いが過ぎるとマイナスになるように思う。

何がそうさせているのだろうか。

こだわることで制限がかかり、流れるエネルギーが止まってしまう。

例えば、過去のある出来事を今でもしっかり覚えていて、そのことにこだわって感情を開放していない。色眼鏡をかけた状態なので、その世界に閉じ込められたままになり、周りはどんどん変化しているのに、自分だけその一点にいる状態である。

マイナスの方向に向いたこだわりのエネルギーはとても粘着性があり、コールタールのように感じる。思考がある一点に執着しているため、一緒に行動していると、あちこちに粘着物がくっついてくるような感じである。

小さいことにこだわって前に進めなかったり、行動が制限されて見る世界が狭くなってしまう。ひょっとしたら、この「こだわり」は足や目に影響するかもしれない、と感じる。

一昨日は、この人と一緒に海を臨む小高い場所にある「パイクプレイス・マーケット」という市場に出かけたが、そこでとても興味深いことが起こった。

この日はこれ以上ないというくらいの晴天で、海が太陽の光を受けてキラキラと輝き、それはそれはきれいな光景であった。

海を見た瞬間、「そばまで行ってみたい!」という衝動に駆られ、お互いにパッと顔が輝いたのだが、その後すばやく彼女の頭が回りはじめた。海までは、長い長い階段を下りなければならなかったのだ。

「階段は大変だ」「自分は足が悪いので、歩けなくなったら相手に迷惑をかける」「不安だ」「ここで歩いて、明日歩けなくなったらどうしよう」・・・というようなことを考えているようで、その挙句、彼女の口から出た言葉は「まあ、海はどこでもいっしょだろうから、別にわざわざ行かなくてもここから見ているだけでいい」

日本から来た彼女が、シアトルの海を見て「どこでもいっしょだろうから」と言ったとき、私は直感的に「これはいけない」と感じた。体験する前に理屈をつけて頭で決めてしまうと、そのままを心で感じ取ることができなくなるからである。しかし、彼女の心は明らかに「行ってみたい」と言っていた。

私は「行ってみよう、ゆっくり行くから」と言って、先に歩き出した。幸い、降りる方が楽で、彼女の足腰にあまり負担はかからないようだ。途中でエレベーターがないか探し、それらしき物があるのが見えたときは、彼女の顔も明るくなった。でも、結局それは故障していて動かないことがわかり、不安な気持ちが戻ったようであった。

私も頭で考えると、帰りにこの階段を上るときどうなるのか、彼女の足は明日痛んで歩けなくなるのではないかと心配になり始めたが、何かの力がそれを邪魔するようにすぐに頭が真っ白になってしまい、「ま、いいか。後は野となれ山となれ」という具合。

それでも、何の問題もなく海のそばまで来ることができ、さんさんと輝く太陽の下、磯のにおいをかぎ心地よい風を頬に受け、「あぁやっぱり海はいいねー」と言った彼女はとても満足げ。それは、何にも変えられない心地よさだったのだろう。私は「ここまで来られてよかったね」と心の中でつぶやいた。

さて、帰るときに興味深いことが起こった。長い階段へ戻る途中で信号を待っているときに、足の悪い高齢の母親を連れた息子が前に立っていて、「エレベーターに乗ろう!どこにある?」と大声で話しているのだ。

迷いもなく、私たちはその母息子に加わって、信号の向こう側にある駐車場まで歩いた。もちろん、駐車場にはマーケットまでのエレベーターがあって、私たちは全く階段を使わなくても元来た場所に戻ることができたのである。

壊れたエレベーター以外にもエレベーターはあったのだ。でも、来るときはそのことを知る必要はなかったようである。

あまりのタイミングのよさと完璧さ。これは、天からの助け、というかご褒美だったのだろう。

「頭でゴチャゴチャ考えずに、心の導く方向へ成り行きにまかせて行きなさい」「ほらね、大丈夫でしょう」そう言われているようだった。

彼女といてこそ体験できる、学べるということを知りながらもついイライラしてしまったり、きつい言葉を発してしまう私はまだまだ未熟者である。それは、私の中にもコントロールしたい部分があるからだろう。私にも「こだわり」があるからなのだろう。

こだわりを捨てて制限をとり、心と対話をして感じるまま、風まかせの生き方ができたらどんなに楽だろう。どんなに楽しいだろう。そうしたら、見える世界が全く違ってくるだろう。それは、ちょっと意識を変えるだけでできることなのである。

私もそうなりたい。

言葉のチカラ

言霊(ことだま)と言われるように、言葉には波動がある。特に、「愛」「光」「平和」「調和」のような言葉は高い波動を持っているようだ。

昨年日本へ帰る飛行機の中、目を閉じて「調和」「光」「愛」という言葉を繰り返してみた。瞑想状態でやってみたが、明らかに、体は通常とは異なるエネルギーを受け取っていた。

クラウンチャクラ(頭のてっぺん)からエネルギーが入ってきて、体が熱くなるのがわかる。また、言葉によって感じるエネルギーも違うようだ。

飛行時間が長いので、何度もやっているうちに、かなり「ハイ」になってしまったが、体の細胞がイキイキして、中から力が沸き起こってくるのがわかる。心も体も喜んでいる。

日本へは年に2回ほど帰るが、時差ぼけ特有の体のだるさを避けることはできない。アメリカと日本は朝晩逆転するので、特に私の場合、最初の3日間はボーッとして辛い。

しかし、この瞑想をしてから日本へ着くと、体の調子がすこぶるよく、いつも元気でいられ、それだけでなく、滞在の最初から最後までとても気持ちよく、楽しく過ごすことができた。

それは、私自身が「愛」「調和」「光」に満たされていたため、私が経験する現実はすべてそれを反映するものであったのだろう。

鈴木美保子著「宇宙心」に、サイキックチルドレンが伝えようとしているメッセージとして、『私はいま、愛の使者なり』という言葉にフォーカスして欲しいということが書いてあった。そして、この同じことをしている人達のことを考えてみて欲しいと。そうすると、一瞬に意識は違う次元にシフトし、波動が変わるということである。

今日、散歩をしているときに、自分なりに「私は今、愛の使者である」「私は愛の光」「私は神の愛」「私は神の光」と、心の中でつぶやいてみた。すると、すぐさまに手のひらがドクドクと脈打ってきた。体にエネルギーが入ってきている。道端のコスモスの色が、一層鮮やかに目に飛び込んできた。

言葉には力がある。それは良い・悪いの両方向へ及ぶ。だからこそ、意識的に波動の高い言葉を選んで使うようにすると、思考も行動も変化してくる。また、そのような言葉は、私たちの深い部分に働きかけ、鍵がかかっていた部分が開いてくるのである。

今朝方、夢をみた。象徴的な夢であった。

ある場面で、肉体的にとても重く窮屈な空間にいた。動くのもやっとで、とても疲れる。エネルギーを多量に消耗する。しかし、ある瞬間に意識をシフトしてみたら、急に軽い世界へ出た。そこはとても心地よく、力まないでも自由に動ける。

実に、意識をちょっと変えただけなのに、環境が大きく変化したのだ。

私たちが生きているこの世界は、まさに「力んでエネルギーを消耗する」場所なのだろう。しかし、意識の持ちようでどうにでも変化させることができるのだ。

夢はそのことを教えようとしているようである。

言葉は顕在意識のレベルで理解しやすい。しかし、同時に顕在意識以外の意識のレベルに深く影響を与えるのである。

美しい言葉、波動の高い言葉を使うということは、物理的世界で生きている私たちが、高いレベルに移行する助けとなるのである。さらに、その波動は確実に周りの環境や地球にも影響を与えているのである。

この地球上にいる私たちには、使う言葉に責任がある。言葉は波動である。言葉にはチカラがある。

溜め込まず分かち合う (8/21/2007ブログ)

溜め込まず分かち合う。ここ数日、この言葉が何度も私の中で響いている。

収穫のときを迎え、自然は1人では食べきれないほどの豊かな実りを与えてくれている。なのに、それを十分に分かち合っているだろうか。

これに関することが3つあった。

1つは反省したこと。
私はここ9年ほどオーガニック畑で色々な野菜を作っているが、冷蔵庫の中で古い野菜を次々に新しくとれるものの下敷きにして腐らせてしまうことがある。先日このメッセージを受け取ったときに寄付に出そうと思いつつ、そのままになってしまった。遅かったか!今日チェックすると、案の定、きゅうりが2本腐っていた。あぁ、なぜあのときすぐに残っていた分を惜しみなく寄付しなかったのだろうか。きゅうりさんに申し訳ない。欲張って溜め込み過ぎていた。反省。

2つめは感動したこと。
私は、シアトル市が所有する土地で「1件に1つの畑を!」をモットーに運営されている「P-Patch」と呼ばれる組織に参加して畑をしている。そこには100を超える区画があり、たくさんの人が野菜や花を作っているが、余った野菜を1箇所に集めて、定期的に市内のFood Bankやその他の施設に寄付することになっている。

先週、ズッキーニときゅうりがたくさんとれたので、そのほとんどを収集場所に持って行ったところ、ある老人施設からのお礼の手紙がそこに置いてあった。「収入が限られている私たちには、このような新鮮な野菜が手に入ることがとても有難く、皆さんのご親切のお陰で、厳しい生活がほんの少し楽になっています。これからも、どうぞご寄付をよろしくお願いいたします」というような文面で、住人一人一人の署名が末尾に連なっていた。ゆがんだ字、弱々しい字、波打っている字など・・・。深くしわ寄った手に鉛筆を持ち、小刻みに震えるこわばった手で一生懸命署名したお年寄りの方達の姿が目に浮かび、胸が熱くなった。

高齢になって経済的に不安であるというのは、さぞ心細いことであろう。でも、私も何かの役に立っているのだ。そう思うと、ほんの少しの野菜を寄付しただけなのに、とても嬉しくて心が満ち足りて、その日は1日中気分がよかった。これからは、惜しみなく寄付しよう。

自然が与えてくれるものを分かち合うことは当たり前のことなのに、いつしか私たちは抱え込むことしかしなくなってしまった。でも、これからは違う。人が助け合って分かち合うことの素晴らしさが広がる、その時期に来ている。そう感じる。

3つめは力が湧いたこと。
本日8月20日付けの新聞 Seattle Post IntelligencerのB面(地域の出来事)に、庭で食べきれず、とらなかったら腐って落ちてしまう果物を、連絡1つでボランティアがやってきて収穫し、付近のFood Bankに寄付するという記事があった。このプログラムはいつ始まったかは書かれていなかったが、シアトル市内の多くの地域で行われているとのことである。

昨日、雨で道にたくさん落ちているりんごを見て、そのほとんどが食べられそうだったので、このまま腐るだけなのはもったいないな~と思っていたところである。他にも、そう思っている人がたくさんいるだろう。

個人レベルで動きが始まっている。そして、それをサポートする体制ができつつある。この記事によって、寄付する人とボランティアをする人が共に増えるだろう。素晴らしいことである。

溜め込んでも腐ってしまうと無駄になる。生かされていないのである。私も、私なりに与えられた実りを無駄にすることなく、分かち合おうと気持ちを新たにした。


最後にもう1つ。
食べ物だけでなく、自分が学んだこと、気づいたことも「溜め込まず分かち合う」ことで健全な循環が始まる。

愛を実践する

義務と思った瞬間、それは愛ではなくなる
我が入ったとき、それは愛ではなくなる
情が入ったとき、それは真の愛ではなくなる

愛は心の中からほとばしるエネルギーであり
純粋に喜びだけである

理由はいらない
理論もいらない
知性もいらない

奥深くから突き動かされ
次々に沸き起こり
疲れを知らない

それが愛

愛を実践するとき、その何倍もの喜びを受け取る
愛は与え、与えられるもの

愛を実践するとき、人は真に生きている
愛を実践するとき、人は真の自分になる

夢日記のすすめ

夢にも色々あり、全く意味をなさないものも多いが、時としてメッセージ性の強い夢や啓示的な夢を見ることもある。

私は夢日記を付け始めて8年ほどになるが、なんだこりゃと思うような内容のものでも書くようにしている。しばらくたってから読み返すと、大きな意味があったりするものだ。

ひとくちに日記をつけるといっても、寝ている間に見たことを目覚めたときに書き記すというのだから、なかなか容易ではない。特に、最初のうちは慣れるまでに苦労するかもしれない。緊張してしまって深い眠りに入れないかもしれない。そういう場合は、あまり日記を書くことにこだわらない方がよいだろう。質の良い睡眠をとることの方が大切だからだ。

枕元に紙と鉛筆を置いておいて、目が覚めて記憶が新しいうちにできるだけ詳細に書くようにする。これを習慣付けるとなかなか楽しいものになってくるだろう。そして、日記を付けているうちに、結構内容が濃いものになってきたり、あるパターンがあることもわかってくるかもしれない。

私の場合は、メッセージ性のある夢は本人が全く意識していないときに出てきて、強烈なのでしっかり覚えている。記号やシンボル、文字・文章、動物、色、自然現象などビジュアル的に訴えるものや、音楽、声など聴覚に訴えるものもある。予知夢、警告、ヒーリング・治療、過去生の情報、守護霊・指導霊・異星人からのメッセージ、魂の出所の情報、時空間移動など様々だ。私は夢について学問的な知識はないが、夢はかなり深いレベルまで見せてくれることを経験で知った。

興味深い例として、私の場合、大きな波がやってくる夢は、必ずと言ってよいほど変化を迎えるときである。波の大きさを始め、その波を遠くで見ているか、自分に降りかかってくるかでも変化の度合いや内容が異なるようである。

変化と言えば、砂嵐の夢もそうである。「砂嵐」と聞くだけで怖い感じがするが、私にとってはこれは「ちょっと難と思われることがあるけれど、結果的には良い」というみたいである。

繰り返し見る夢は、自分の中で解決されていないこと、実行されていないことを伝えているのかもしれない。アメリカに引越しして自分自身が確立されていない数年間、私はまるで後ろ髪を引かれるがごとく毎日のように夢の中で日本の両親と一緒にいた。しかし、ある気づきがあってから、そのような夢はピッタリとなくなった。

過去生の情報は、何年たっても忘れられないものであろう。映像を見ているだけなのに、すべてがわかる不思議な世界である。そしてその情報は、きっと夢を見た時点の自分が何かを深く知るために必要なものなのであろう。私が見た過去生のひとつは、自分の中のトラウマの原因と、それを助けてくれている夫との関係を深いレベルで理解する上で大きな助けとなった。

さて、「私は夢は見ない」という人もいるだろう。私の友人でもひとりそういう人がいるが、話してみると、そういう人に限って、大事なときには必ずといってよいほどポコッとメッセージ性のある夢を見ている。誰でも夢で必要な情報を受け取っているのだろう。ただ、本人がそれをどれだけ理解しているかは別だが。

また、解釈にこだわる必要もないと思う。わからなかったら、そのままにしておけば、いつかわかるときがくるだろう。私は自分の魂についての情報を受け取ったときには、それがそういう情報であることさえ全くわからなかったが、5年程たってあるチャネラーから魂の出所を知らされて、ある日何気なく夢日記を読み返していたら、ズバリそのものを示す夢を見ていたことがわかった。「あぁこのときに来てたんだ。でも、あまりにも通常の感覚を超えた域だったから理解できなかったのだ」とわかった次第。書いておいてよかった。

夢と上手につきあうと、問題の解決策、自分のやるべきことなど日常生活の中で助けとなる情報を得られて、より前向きに生きられるのではないかと思う。

夢日記をお勧めする。

ふと思ったこと

エネルギーの使い方を逆にしてみる

押すより引くこと

力を入れることより抜くこと

吸うより吐くこと

リラックス

すると本来の力が出る

心が広がり

周りに溶けていくよう

なんだ、こんなに簡単なことだったのか

気づきへの一歩

どんなに一生懸命説明しようとしても、言葉では表現し尽くせないということがある。もうひとつの現実、目に見えない世界が確かにあるということを知る近道は、シンクロニシティ(共時性、偶然の一致)や神秘体験なのかもしれない。

シンクロニシティは、そのもうひとつの現実からの招待状のようなもの。それに対して返事をするかしないかは自分で決めることである。その未知の世界に心を開くかどうかは自分自身にかかっているが、返事をしたら、その先にある扉の前に立つことになる。そして次に、その扉を開くかどうかを決めることになる。そうやって、段階を追って進んでいく。

シンクロニシティの裏には、いったいどういう力が働いているのだろうか。私が経験したシンクロニシティの中には強い方向性があり、無視できない状況を迫られるものもある。

例えば、私は肉体的なレベルにおいて、体質を変える必要があった。今思えば、私は酸性体質であった上に、体内に様々な毒が溜まっていて、その毒を出す上でも食事を変えることが必要な時期があった。また、自分の波動を上げるうえで、精神的なレベルを高める必要もあった。

それを示唆するメッセージが、まず車の後部に貼ってあるステッカーという形で現れた。ある日、車を運転していると、前に走っている車の後部に貼られた「Become Vegetarians!(ベジタリアンになろう!)」と書かれたステッカーに目が留まった。そのときは、それだけのことだったが、同じ日に違う場所で、やはり前を走っている車に (もちろん違う車だが) ベジタリアンを勧めるステッカーが貼ってある。そして、なぜか同じ内容のステッカーがある車の後を走ったり、そういう車が追い越していく場面にその後1週間の間、何度も遭遇した。


もちろん「これは何か言われているな」と感じてはいるものの、具体的に何をするということもない。すると、今度は「STOP (止まれ)」の道路標識が落書きで「STOP Eating Animals(動物を食べるのを止めろ)」になっているのに目が留まる。「まただ・・・」


これはある種のメッセージだということを感じていたので、このあたりから、摂る肉の量や回数を減らすようになったが、それだけではダメだったようだ。

今度は道を歩いているときに、「Go Vegan (完全菜食主義者になれ)」と道路に刻まれた文句がいきなり目に飛び込んできて、思わず立ちすくんだ。この字が浮き上がって私の前に迫ってくると同時に、「Go Vegan」という声が空から聞こえた来たような感覚に陥り、かなり強烈な印象を受けた。


「来たな来たな~」と思ったが、子供の頃から今までずっと食べてきて、好きだった肉を完全に止めることは、やはり勇気がいった。頭の中で抵抗があり、心の中で葛藤があった。そして、そのまま行動に移れず中途半端なことをしていると、間もなく決定的なメッセージがやって来た。


ある日、行き着けのスーパーで「ジョン・ロビンズ*が完全菜食主義と地球環境についてシアトルで公演をする」というポスターが目に留まった。少し離れたところにあったのだが、写真のジョン・ロビンズの目に吸い込まれてしまった。そして、家に帰った後も「完全菜食主義と地球環境」という言葉が頭の中で鳴り響いていた。具体的に何であるかはわからないのだが、インパクトがあったのだ。

それから数日たったある日、「たまたま」ダウンタウンに出かけた夫が、ジョン・ロビンズが設立したアースセーブ・シアトル支部の前を「たまたま」通りがかり、入り口に置いてあったニュースレターに目が留まったので持ってきたと言って、家に帰るなりそれを私に見せた。先日スーパーで見たポスターのことなど、夫には言ってはいなかったのに・・・。このときは、さすがに鳥肌が立った。私がなかなか煮え切らない状態だったので、ついに夫まで巻き込み、これでもか、これでもかとメッセージが来たわけである。


このニュースレターには、当時ジョン・ロビンズの最新書著であった「The Food Revolution」が紹介されており、これが決定的なきっかけとなった。

この本には、完全菜食主義と地球環境のことがあらゆる角度から論理的に説明されており、その考え方と姿勢はストンと私の「腑に落ちた」。最後のページまで読み終わったとき、とてもすがすがしい気持ちになり、その日からきっぱりと肉を食べることを止め、約3年後に体が少し必要とするようになるまで続いた。後で振り返ると、この時期にこうすることは、次の段階へ進むために必要であったのだ。


シンクロニシティが助走をしているようなものであるとしたら、神秘体験は一気にジャンプするようなものかもしれない。一瞬の体験で、見る世界の捉え方や価値観がガラリと変わってしまうだろう。まさに「百聞は一経験にしかず」の世界なのだ。

日々の出来事に様々なメッセージがある。気づきとは、そのメッセージに気づいてひとつひとつ拾っていき、パズルの一片を合わせるようなものかもしれない。そして、それを続けていくと、あるときにひとつのまとまった形になる。今まで裏側にあった目的が、そこでやっと見えてくるだろう。目に見える現実と並行して存在する現実があり、そこにはゆるぎない真実がある。そのことに気づいたときに、目の前の壁が取り払われ、新しい世界が広がるだろう。

しかし間もなく、それで終わりではなく、それはより大きなものの一部分でしかないことに気づくであろう。常により大きな真実へと向かっていくのである。そして、目に見える現実以外の現実は、ひとつではなく多次元で網の目のようになっているのかもしれないと気づくに至る。

このように、気づきはさらに広く深いレベルへと進んでいく。

*ジョン・ロビンズ: 父がサーティワン・アイスクリームの創業者。息子である彼は事業を継がずに独立し、理想的な食生活や人類のあり方、地球環境をテーマに数々の著書を執筆している。

試されるとき

自分の信じる道を歩むとき、人は孤独に出会う
あるとき、ふと気づくと周りには誰もいない
わかって欲しいと思う人に背を向けられる

親はもっと要領よく生きろと言うかもしれない
配偶者は食べていく方が先だと言うかもしれない
友達は非現実的だと言うかもしれない
世間は馬鹿なことをしているとあざ笑うかもしれない

しかし、あなたは他人に認められるために行動しているのか
確かにその他大勢に従う生き方の方が楽である、安全である
その方が人から非難されることもなく、むしろ賞賛されるだろう
他人は喜ぶだろうが、果たして自分はそれでよいのか

先が見えず、頭で考えると不安が襲う
しかし、このときこそが試されているときなのである

あなたは自信を持っているか
自信とは自分を信じる力のことである
常に自分の心に耳を傾けているか
自分の軸をしっかりと築いているか
己の真実をしっかりと見つめているか
情熱の火をともし続けているか

試されるときは、途中何度もやってくるかもしれない
そんなとき思い出して欲しい

あなたの中には、あなただけに与えられた贈り物がひっそりと眠っている
花のつぼみのように眠っている
その贈り物とはあなたらしさ、あなた自身を表現することである
あなただけの色、あなただけの形である花を咲かせることである

そして、最後にあなたはその美しく花開いた贈り物を
他の誰でもない、あなた自身から受け取るのである

2008年1月23日

寝かせることも大切

ここ1週間くらいの間に繰り返し出会うのが、「寝かせる」という考え。

寿司のネタは鮮度が一番で、市場から口に入るまでの時間が短ければ短いほどよいと思うのが普通だが、名人と言われる寿司職人によると、特に白身の魚やマグロは味を引き出すために寝かせることが不可欠だという。マグロに至っては、強いものは6日くらい置いておく必要があるそうだ。

昨日、あるサークルに参加させていただいて、そこで喜寿を迎えた方が十分に寝かせた粉を2時間こねて作ったという、うどんをご馳走になった。歯ごたえのあるシコシコ麺で、それはそれは美味だった。その方は今でも何でも自分で作るそうで、77歳とは思えないほど元気でシャキシャキしていらっしゃる粋なおばあちゃまである。

その方と饅頭など日本の伝統的な食べ物の話になったときに、いっぺんにやろうとしないで、少しずつ時間をかけて作ることが肝心だと教えられた。例えば、饅頭のあんを作るにしても、1日目は弱火で豆を煮て、2日目は砂糖を混ぜて豆から水が出て来るのを待ち、3日目にさらに煮つめるような作り方をすると、砂糖が豆の中までしみ込んで、水分の取れたおいしいあんができるという。

なるほど、私は昨年の年末におせちを何品か作ったが、あせって作ったので、どれも美味しくなかった。おせちを代表とする日本の伝統料理は、時間がかかるものばかりである。特に煮物などは、いったん火を止めて置いておく、言い換えれば、寝かせることで、形が崩れることもなく柔らかく味が中まで浸透し、噛めば噛むほど旨みが出て実に美味しいものができる。

「寝かせる」ことは、旨みを引き出すひとつの知恵であることを達人は知っている。それは食べ物の世界だけではない。

宇宙には静と動という相反する2つの要素があるが、これまでの社会は経済成長や社会の発展を掲げ、がむしゃらに「動」中心に進んできて、静をないがしろにしてきたところがあるように思う。今、この変化の激しい社会にあって、私たちは逆に「静」の部分にもっと注意すべきではないだろうか。寝かせることは静に通じる。いったん動きを止めて「寝かせる」ことで、自分の中の真の自分を見極め、それを自分なりの形で表現する、つまり、自分が持っている独特の「旨み」を引き出すことができるのではないだろうか。

新年を迎え、誰もが目標新たに燃え突っ走る傾向にあるが、力みすぎたりあせると逆効果になる。余裕がなければよいものはできない。そういう意味で「寝かせる」時間も必要であろう。

「いっぺんにやろうとすると大変だから、少しずつやればいいのよ」と人生の達人である、このおばあちゃまがおっしゃった。寿司の達人も人生の達人も「寝かせること」の大切さを知っている。静には知恵が詰まっているのだ。

2008年1月11日

トワイライトゾーン、単なる偶然を超えたとき

私の夫は左脳人間で、思考においては感情が邪魔することはなく、論理的で明快に判断する頭脳を持っている。私も脳はほとんど左ばかりを使う仕事をしているため、必然的に左脳人間であったが、8年前のある日を境に目に見えない世界という左脳では処理できない世界に引き込まれることとなり、その後速いスピードで新しい世界がどんどん展開していった。私は夢中になり、ためらいもなく導かれるままに進んで行ったが、気がついたら夫と私との間にはギャップが生じてしまっていた。

夫は、私が自分の手の届かない世界へ行ってしまうのではないかと強い不安に襲われたようで、私に対して不快感を示し始めた。無理もない、私が豹変したのだから。私も立ち止まって考えてみると、二人で共有できない、楽しめないというのは寂しいことであるということに気づき、これでよいのかというあせりが生じ始めた。このままではいけない、でも何とかして自分が今経験しているこの世界を知ってもらいたいと強く願っていたところ、夫に実に不思議な出来事が起こった。それは今から7年くらい前のことである。

その頃、よく二人で家の近くの中国レストランにランチを食べに行っていた。ある日いつものように行ってみると、今までとは違う新しいウェイトレスのおばさんがいた。オーナーの奥さんかと思うほど落ち着きがあり、恰幅のよい人であった。

常連は決まったものを注文するものだが、私たちもそこへ行くといつも決まって特製ヌードルを頼んでいた。この日もそれを注文しようとメニューをたたんで待っていたら、おばさんが親しげな様子でテーブルにやって来て、夫に声をかけた。まるで友達にするような挨拶の仕方である。なれなれしい人だなと思ったが、特に気にせずヌードルを注文すると、メモする様子もなく確認することもなく、とても軽い調子で受けるので、変だなと思った。

間もなくヌードルができあがって、それを運んできた彼女は、夫にわけのわからないことを話し始めた。こちらがキョトンとしていてもベラベラ話し続け、個人的な内容の話となって行く。とうとう我慢できずに夫は彼女をさえぎって、「あの~すみません、人違いじゃないですか。私はあなたに会ったことはないんですけど」と言うと、彼女はびっくりしたように目を見開いて「なに冗談言ってるの!」と取り合ってくれない。

夫も必死になって、このレストランにはよく来るが、いつも違うウェイトレスで、あなたに会うのは今日が初めてだと繰り返した。すると、彼女はまだ信じられないという顔をして
「あれーあなたじゃなかったの?あなたとそっくりの××さんという人がいて、その人はいつも○○寺院に来てるんだけど」

「○○寺院?」夫と私は顔を見合わせた。そんな名前聞いたこともない。名前からすると中国人が行く仏教寺院か・・・。夫は中国人ではない、プエルトリコ系アメリカ人である。

「それにしてもホント似てるわねえ。その人もここへ来るときはいつもそのヌードルを注文するのよ。ホントに××さんじゃないの?」とおばさん。そして、まるで××さんが他の女性と来たところをおばさんとばったり出会ってばつが悪く、ウソをついてごまかしているのではないかというように、横目で私をチラッと見ると、肩をすくめて店の奥へと入っていった。

そんなことがあって、その日はずっと変な気分だったが、よく似た人は世界に7人いると言われているので、そんなこともあるのかと受け流そうとしていたら、今度は追い討ちをかけるように、それから数日とたたないうちにショックなことが起こった。

夫も私も家でコンピュータに向かう仕事をしているため、定期的にジムへ行って運動をしている。その日は水曜日の午後だった。私はエアロビクスをしてから筋力トレーニングをし、夫は筋力トレーニングだけに集中する日であった。ジムには、所狭しと部屋一杯に様々なマシンが並んでおり、特定の筋肉を鍛えるために、その中からいくつか特定のマシンを選んでコースにしてトレーニングをする。人によって目的が違うため、コースとして組むマシンの種類は当然違ってくる。また、マシンは使う人の足の長さや座高の高さに合わせたり、トレーニングに合ったウェイトの重さにするため、ひとつひとつ設定が異なってくる。そのため、マシンは使う前に必ずひとつひとつ調節しなければならない。

そのジムでこの出来事は起こった。その話は、運動が終わって車に戻ったときに「信じられないことがあった」という夫の言葉で始まった。

「ジムに俺がいたんだ」と夫は言った。
「へっ?」
「俺が運動しているのを見たんだ」
「・・・??」
「俺とそっくりのヤツがいて、俺と同じことをしていた。俺が使うのと全く同じマシンを全く同じ順序で全く同じ設定で使ってて・・・」

どうもその人は夫と同じコースでトレーニングをしていたようだが、常に夫の1つ前のマシンを使っていたそうだ。コースの全マシンの組み合わせがピッタリ同じなため、夫は嫌でも彼の後について回ることになり、しかも彼が終わった後のマシンの設定は、夫が必要な設定そのものであったという。背格好が同じなら、いすの高さなどが同じになるのはわかるが、ウェイトの重さまで同じというのは気味が悪い。

そして、夫がそう思っていると相手も感づいたのか、夫を意識するようになったという。その人は白人で人種は異なるが、顔の作りはもちろんのこと、背格好や雰囲気、すべてがそっくりだったという。見てみたかった・・・。

そんな風に、夫はその人の後をついて回っていたが、ある時にけんすいをするマシンで二人が一緒になったそうだ。けんすいマシンは2つ並べて置いてあるので、隣通しに並んですることになった。夫は横目で相手の設定を見ると、やはりピッタリ同じだと言う。 設定レベルは1~10まであるのに。そして、気づくと相手も横目で夫を見ていたという。彼も同じことを考えているのが手に取るように伝わってきたそうだ。

そんな風にしてトレーニングが終わった後、夫はシャワーを浴びて帰る支度ができたが、私がまだ運動していたので、私を待つことになった。そういう場合、夫はよく角にあるスターバックスにコーヒーを買いに行く。その日もコーヒーを飲もうと歩いて行き、2つあるうちの1つの入り口のドアに手をかけた瞬間、中からドアが開くので手を引っ込めると「あの男性」がコーヒーを片手に出てきたという。二人がドアで鉢合わせになり、お互いにびっくり仰天。それでも、「知らない人同士」なので会話するわけにもいかず、何も言わなかったが、相手も明らかに動揺を隠せなかったようだという。外観や雰囲気が似ているだけでなく、行動までが同じとは!

しかし、なぜこのタイミングでこの男性に会ったのだろう。実は、その男性が受付カウンターで係りの人と雑談している後ろを、夫が通り過ぎるときにチラッと聞いたところによると、彼はその日「たまたま」会社が休みだったので、昼間の時間に運動しに来たということだ。私たちはいつも昼間にしか行かないため、彼に会うのはそれが最初で最後になるだろう。またしても、不思議な出来事。これは、先回よりも強烈だった。

その翌朝、夫はボート漕ぎのクラスに行ったら、以前同じクラスを受けていた人が久しぶりにやって来て、「昨日ウォリングフォード(町の名前)のピザ屋でピザ食べていたね」と言ったという。ピザ屋は絶対に行かない所のひとつなので、「そんな所行ってないよ」と言うと、「いいえ、あれは絶対あなただったわ。同じようにそんな帽子かぶってたよ」

夫の反応はご想像のとおり。しかし、3件もこのような出来事が続くと、これはただの偶然ではないとしか言いようがない。もう十分気味悪い思いをしている。

ところが、まるでそれでもまだ足りないかのように、夫はこの不思議な現象から解放されることはなかった。それも現象の度合いがエスカレートしていく。それがどれほどのものかは、家に帰って来た夫の顔が、ゆがんでほとんど蒼白になっている様子からうかがえた。

それは、ピザ屋の話から1週間ほどたった日のこと。夫は普段家で仕事をしているので、ダウンタウンへ行くことはめったにない。行くとしても年に2回ほどだろうか。その日もその数少ない日のひとつで、終日のセミナーを受講するためにダウンタウンへ行った。

ランチの休憩時間に、食事を終えてから通りに出ているスタンドでコーヒーを買うため列に並び、自分の番が回ってきたので注文したそうだ。ランチタイムで賑わう雑踏の中で大きな声を張り上げて注文している姿が目に浮かぶ。ちなみに夫のコーヒーの注文は、ちょっと変わっている。
「Double tall split shot two percent(レギュラーとデカフェを半々にしたエスプレッソを2ショットに、低脂肪の牛乳を多めに入れたのをください)」
するとバリスタが小さな声で何かブツブツ言ったので、「はい?」と聞き返すと
「昨日と同じのね・・・」と言ったという。
「ええー?!・・・・・ちっ ちょっと、俺はここへは昨日は来てない。ダウンタウンへは年に2回ほどしか来ないんだ。昨日ここで、コーヒーを頼んだなんて絶対にあり得ない!」

この間からこんなことばかりなので、またかというように夫は声を荒げたという。するとバリスタの女性は、「でも、ここへ来たんだもん」と言ってから、ゆっくりと顔を上げると無表情にじ~っと夫の目を見つめ、それからうんざりした顔で
「あなた、記憶障害か何かです?」と言ったそうだ。
その瞬間、夫はショックで周りの風景が少しずれて見えたという。まるで体の一部が他の次元に入り込んだかのように。
「もうたくさん!頭がおかしくなりそうだ。俺は今いったいどこにいるんだ!」

考えてもみて欲しい。Double tall split shot two percent・・・そんな変てこな注文をする人はそう多くはない。それだけでも確立は低いのに、夫と瓜二つの人がまったく同じ注文をするという確立は、一体どれくらいになるだろう!言っておくが、夫の顔はそうあちこちにいる顔ではない。

「昨日と同じのね」ということは、そのバリスタの女性とその男性は何かの会話をして、あるいは彼が時々そこへ来る人で、彼女の記憶の中にしっかりあるということであって、まったく見知らぬ人に対して彼女が当てずっぽうに言ったわけではないと考えられる。

「この間から、急に現われて付きまとう自分によく似た男性の影、それも毎回場面も服装も異なる。一体誰だろう。それともひょっとして、それはすべて自分で、過去と未来が逆になったのか」

トワイライトゾーン、もう一人の自分・・・。こうなると、もう左脳が好きな論理は通じなくなる。

その後も、夫は友人宅へ招かれてバルコニーから外を見たときに、庭の向こうに自分によく似た人が歩いていたところを目撃したりしている。中国レストランから始まったこの一連の出来事は1ヶ月くらいの間に立て続けに起こり、友人宅での出来事を最後にピタリとなくなった。

普通の感覚では理解のできないことが存在するのである。シンクロニシティ(偶然の一致)が重なって単なる偶然を超えてしまうと、抵抗することも排除することもできず、ただ認めるしかない。そして、自分が何か説明のできない力に導かれているかのように感じるものである。日常の出来事の水面下で何か意味のあること、それも深いメッセージを秘めた何かが起きていると感じたときに、新しい気づきが始まるのである。

ちなみにこの一連の出来事が起こる数日前に、私は夫と二人で自転車に乗って近所を走っている夢を見た。道は狭くて砂利道で、人もいるので運転しにくい。倒れそうになるが、後ろに夫が乗っているので、一人だったら倒れるところでも二人なのでうまくバランスがとれる。その夢の中で私は「二人だったら安定してるね、倒れないんだね」と言っている。

夫とのギャップに悩んでいたときに起こった出来事。それは見えない世界へのいざないであったのだろうか。宇宙からの応えは、私一人で勝手に突っ走って行くのではなく、夫にもある程度理解してもらい、二人でうまくバランスを取って歩んでいくことが大切なのだということのようだ。このことをきっかけに、夫も見えない世界を尊重するようになった。

2008年1月6日

無骨でいい

「畑のキュウリのようになりなさい」

これは、私の友人が、瞑想中に自分のガイドスピリットから初めて受け取ったメッセージである。2000年の春のことで、その後一緒に食事したときに私に話してくれた。彼女へのメッセージであったが、私の心に強烈な印象として残っており、この話をしてくれたということからも、これは彼女だけへのメッセージではないと感じた。

年頭にあたり何を書こうかと考えたときに、このメッセージがすぐに浮かんだため、彼女が話してくれたことに、私の感じたことを加えて書いてみたい。


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大地から水と養分を吸い上げ、さんさんと輝く太陽の光を浴びて、農薬も化学肥料も使わず自然の中で伸び伸びと育ったキュウリ。形は少々曲がっていても醜くても、味は天下一。

そんなキュウリのような人間になりなさい。

農薬や化学肥料で環境を整え、ハウスで栽培されたキュウリは、まっすぐでスラリと形は美しいが個性がなく、どこか弱々しい感じがする。味も淡白でどれもほぼ同じに見える。

自然のキュウリはそうではない。地面や障害物に当たれば、それをよけて成長するため、曲がったり一部だけ太くなったりする。形は完璧とは程遠いかもしれないが、味わい豊かで実に美味い。それに何てったって強さがある。

人間だってそう。少々鼻が低くても足が太くても、そんなうわべのことより中身が一番である。

無骨でいい、野暮ったくていい
ありのままの姿で伸び伸びと生きよ
太陽の光を浴びて上に向かって伸びよ
要領よくなくていい、スマートでなくていい

自然の中で育ったキュウリは色も濃く
口に入れた瞬間、豊かな風味が広がる
自分の個性を磨き、「味のある」人間になれ
自然の畑で育つキュウリのように

2008年1月2日

思いがけない年明け

シアトルで迎える大晦日の夜は友人宅に招待されて、持ち寄ったお節もどきをつまみながらお酒を飲んで年越しをしていたが、今回は神社で新しい年を迎えたいという気持ちになり、友人宅へはちょっと立ち寄っただけで、シアトルから1時間ほどの山の中にあるアメリカ椿大神社へと車を走らせた。日本の椿大神社は私の実家から車で20分ほどの鈴鹿市にあり、ワシントン州にあるのはその分社である。

午前零時に祈祷があるため少し早めに出発したが、フリーウェイを走っている途中、警察車の赤と青の瞬くライトが目に飛び込んできた。その瞬間、なぜか心が騒いだ。事故があったようだ。速度を落としてその横を通り過ぎて、11時過ぎに神社に到着した。

すでに十数人ほどの人が来ており、火の回りに集まったり、仮設のテントでお茶を飲んだりしている。まだ40分ほど時間があったので、他の人に混じって夫と並んで外で待つことにした。

この椿大神社は、規模は小さいが自然豊かな環境にあり、横に川が流れており、とてもよいエネルギーを感じる場所である。以前に2回ほど日中に来ているが、夏でもピリッとした空気が流れていて霊気が漂っている。

そんな中で年越しができることをひそかに楽しみにしていたのだが、私の期待は大きく裏切られることになった。神社に到着したとたん、すぐ近くでバンバンバンという大きな音がし出した。アメリカでは大晦日の夜に花火を打ち上げるので、それだと思っていたが、夫が顔をしかめて、あれは銃声だと言った。

ボン ボン ボン ボン ボン!すぐ近くで発砲している音が闇の中で不気味にとどろく。銃ってあんな音なのか・・・。日本では聞いたことがなかったので、夫に言われるまではわからなかった。パンパンパンパンパンパン!今度は短くて乾いた軽い音。夫によるとそれは拳銃の音だそうだ。空に向かって撃っているのか。次々に弾が込められ、銃口から飛び出していくのがわかる。ボン ボン ボン ボン ボン ボン ボン!これは、大きめの銃だそうだ。夫は、流れ弾が飛んでくるのではないかと気が気でない様子。

全く信じられない。いったいどこの阿呆がやっているのか。心静かに新しい年を迎えようとしているこの場所が射撃場と化してしまい、粗野で乱暴な人間によって脅かされている。殺したり傷つけたりすることを目的にして作られた道具を遊び道具にして、天に向かって乱射しているのだ。

100発くらいだっただろうか、嫌というほど聞かされた。あと10分たらずで午前零時。祈祷の最中もこんな風だったらたまらないと思うと、腹が立ってきた。気がついたらあたかも自分からエネルギーを噴射するかのようにお腹に力を入れて、私は「鎮まれー鎮まれー!」と心の中で叫んでいた。

間もなく外で待っていた全員が中に案内され、神事が始まった。ドン!という勢いよい太鼓の音が回りの空気を浄化し、不思議なことに銃声はぴたりと止んだ。そして、何か見えない力によって抑えられたかのように、その後一発も聞こえなかった。

年越参りは日本だったら大勢の人で押し合いへし合いになり、「置き引きにご注意くださぁ~い」と通路の横でメガフォンで呼びかけられるところだが、ここアメリカではこの時間には50人くらいしか来ておらず、神事を静かに見守ることができる。神々の名前が挙げられ、こんなにたくさんの神様がいらっしゃるのかと初めて知った。

さて、帰り道でもあちらこちらに警察車を見た。事故や飲酒運転、いつも大晦日はこんなに多いのだろうか。少し異常に思えた。

そして、極めつけとして、フリーウェイの出口を出たすぐのところにある1軒の家を10台近くの警察車が取り囲んで止まっているのを見た。暗闇に瞬く赤と青のライト。何か大きな事件があったみたいだ。この数だと、殺人事件か何かだろうか。アメリカに住んで15年になるが、こんなにたくさんの警察を見たことはない。

年末にかけて、いくつかの言葉が心に響いていたが、大晦日に見たことは、決して偶然ではなく、何かのメッセージだと私は感じている。

12月に入ってすぐには、
「飛躍」と「jump-start」という言葉が浮かんだ。jump-startというのは、バッテリの上がった車をスタートさせるように、思い切って活性化させるという意味が一番近いかもしれない。

年末にかけては、英語では
violence (暴力)
disaster (災害)
intensify (激化する)
pivotal (極めて重要な)
という言葉が頭に浮かび、

日本語では
事故・事件の多発
暴力化
命にかかわる危険と隣り合わせである状態
という言葉が浮かび、

それに加え、

日本では平成20年というきりのよい数字の年
ねずみ年という十二支の頭にあたる年
アメリカでは大統領選挙のある年
というこの3つは、あるサイクルの中で重要な年であることを暗示しているように感じる。

また、数字的には「2008~2012」に特別な感触を受ける。

今年は、地球レベルで起こることが激化し、気象・安全・経済において「今までになかったようなレベル」の物事が起こり、人間の持つ性質の両極端(つまり善と悪)がはっきりと隣り合わせになった状態を見ることになるかもしれないと感じる。時間のスピードはますます加速し、ストレスレベルも上がる中、竜巻状態の中に入って振り回されるか、外にいて客観的に見るかのどちらかにはっきり分かれてくるように思う。

そして、「心してかかれ」、「真剣に生きろ」という言葉も響いてきた。

言葉だけを見てみると、良くない年のように響くかもしれないが、そうではないと思う。新しいことが始まるために必要な変化で、今までに軌道から大きくそれて進んでしまった社会や諸々のことの「立て直し」が実際に始まる年ではないかと思うのである。それも、jump-startという形で・・・。

以上は、まったく個人的に感じたことを書いてみただけで、意味のないことかもしれない。しかし、「心してかかれ」「真剣に」という言葉は私の心に強く響いてきており、私は得てして中途半場な態度で物事に当たる傾向があるので、自分の軸をしっかり持って、真剣に取り組まなくてはいけないと自分に言い聞かせているところである。そして、物事に振り回されず、平常心で事に当たりたいと願っている。