ふとんの中で、夫の肩に額を当ててボーっとそのまま眠りにつく体勢になっていたとき、ぼわ~んとおでこの真ん中がスクリーンになったかのように、ある映像が見えてきた。
軍服を着て馬に乗った男性。ヨーロッパのどこか。中世とかではなく、そんなに遠い昔ではない感じ。恰幅がよく、軍服にはバッジが付いている。それだけのシーンなのであるが、情報が流れてくる。
General (大将) のような高い地位にあり、人々から尊敬されている彼の肩には、率いる軍隊の運命、さらには国の運命もが重くのしかかっている。限りなく優しい心の持ち主で思慮深い彼は、一人でも多くの人を救い、国民全体の幸福を実現するという崇高な理想を胸に、これまでも数々の苦渋の選択をしてきた。軍事と政治に深く関わり、策略と戦いに翻弄された時代。
その彼の胸のうちが、手に取るようにわかる。強い社会正義と責任感で人々から尊敬されている彼は、その崇高な精神がために、自分を完全に犠牲にしていた。個人の欲求、夢、希望、自由、そういったものを完全にあきらめ、人々のためにすべてを捧げている。それが自分の道だと自らに言い聞かせ、心を固く閉じることで、公での彼という存在が成り立っていた。
さらに、情報は深いレベルの意識にまで至る。彼の心は深い深い悲しみに包まれていた。心は張り裂けんばかりに悲鳴を上げていた。もうたくさん!これ以上、自分を押し殺すことはできない!家族はどうしているだろう、愛する人に会いたい。
それは誰もが持っており、人間としての当然の欲求。ところが、彼には許されない。上からの指令でコントロールされる一方、常に責任を持って全体をコントロールしていなければならない。個人の自由は完全に剥奪され、神経をすり減らす毎日。数々の陰謀や策略をすり抜け、極度の緊張の連続の中で日々が過ぎていく。人々のためにとは言え、自分のささいな欲求さえも満たすことができないことほど、苦しいことはない。
彼の孤独感と深い深い悲しみが、私の額との接点から伝わってきた。
夫は、常に自分がコントロールしていないと気が済まないところがある。また、常に膨大な量の情報に囲まれていないと落ち着かない。彼がまだ読み終わっていない新聞を私が誤ってリサイクル箱に入れようものなら、目を吊り上げて怒る。そのたびに「箱から戻せばそれで終わることなのに、なんでこんなことで怒られなきゃなんないの!」と私は逆切れしそうになる。
彼はまた、短気な上に、人にコントロールされることをひどく嫌がる。私が思わず「こうした方がいいんじゃない」と言うと、それがささいなことであっても、「俺に指図するな!」と言って顔を真っ赤にして怒る。指図なんてしていないのに・・・。
結婚後かなり長い間、こちらが何か言うと「Are you blaming me?(俺を責めているのか)」とか「So, it’s all my fault. (だから俺のせいって言うんだな)」いう返事が口癖のように返ってきた。私の中には、blame (とがめる) とかfault (落ち度) なんて考えはこれっぽっちもなかったのに、相手がそんな風にとることにショックだった。
すぐ「俺のせいか」と考える癖は、子供の時に経験した両親の離婚が大きく影響しているのだろうか。子供は、みんな自分のせいで親が離婚したと考えるとどこかで読んだことがある。
親の離婚は、子供にはどうしてもコントロールできない出来事。彼もそれを経験している。そのことはあまりにも悲しかったから、距離を置くことで心の痛みを感じないようにしたと、彼は私に話してくれたことがある。しかし、最近になって親と接する機会が多くなり、今までぎこちなかった関係が、かなり溶けてきているように感じる。
そんな矢先に見た軍人の姿。その軍人の姿と、強い社会正義感ゆえに大学では法律を勉強し、犯罪や戦争ドキュメンタリーに釘付けになり、オバマ氏が大統領に就任したときには涙していた夫が重なった。時代は違っても、あの時とあまりにも似ている。軍人であったあの時に固く閉じた心の奥にあった悲しみは、今でも癒えずにあるのだろうか。
人生を重ねる毎に、辛い体験からの思いがまたひとつ、その上に重なって行く。しこりとなって残って行く。私たちは、もしかしたら幾重にも折り重なった複雑な感情をどこかに抱えて、今に至っているのかもしれない。
夫は、とても優しくて、すぐに傷ついてしまうほど繊細な心の持ち主ゆえに、ちょっとでも触られると悲鳴をあげるほど、そのしこりを痛く感じるのかもしれない。
そう思ったとき、涙が出てきた。ちょっとした言動の裏には、深い理由があるのかもしれない。私が見た軍人のイメージは全く根拠もなく、ナンセンスなことなのかもしれないが、それでも、それを見た後の私の夫に対する態度は変わった。深い部分で理解できたような、自分の中でしっくりする何かを感じた。
これからは、夫がやりたいことをもっと自由にさせてあげよう、大らかな気持ちで見守って、優しくしてあげようと思った。
誰でもそのように複雑に折り重なった傷を背負って、今ここにいるのだろうか。ひょっとしたら、人間関係は、自分や相手のそうした傷のひとつにでも気づくことで、大きく変わるものなのかもしれない。
2009年1月28日
2009年1月26日
電車は今日も走る
最近つくづく思う。人生って、次々と電車を乗り継いで行く旅みたいだなあって。ただし、自分で先の先まで全て計画したと思っていても、結局は進む方向も、行程も路線も、最初の計画とは大きくずれてくる。
今乗る電車だけがわかっていて、乗った時点ではどこで降りて、そこからどこ行きへ乗り継ぐのかもわからない。だから、あせってもジタバタしても仕方ない。今乗っている電車での体験や窓から見える風景を味わえばいい。そうしたら、いつか降りる駅がわかってくる。
私の場合、近所の路線で見慣れた風景を楽しんでいただけのときもあるし、環状線のようにグルグルと何度も同じ所を回っていたこともある。乗り間違えたかなと思ったこともあるし、時間待ちさせられてイライラしたこともある。途中からレールが大きく2つに分かれたこともあった。各駅停車、急行、特急、いろいろある。新幹線みたいに速いのに乗っていても、乗り継ぎ先からは鈍行になることもある。
そうやって、電車の旅は続く。長い長い旅。
ただ、ときどき不安になることがある。
「この電車はどこへ行くのだろう」
「乗ったはいいけど、果たしてこの電車でよかったのかなあ」
「あれっ?この線ってまだ完成していないのに、この線に入ってしまっていいの!?」
実は4日前、私はこれからの自分の活動のことを考えて、少し不安になった。今まで書いてきたように日記を続けて行きたいが、とても大胆で創造力があって、今の自分に満足していないもう一人の自分が頭をもたげ始めているのがわかるのである。
その朝、朝食の用意をしようと台所に入り、思った。一体自分って何者なんだろう。この突き上げる思いは何なんだろう。何を経験したがっているのだろう。もう一人の自分は、あんなことやこんなこと書きたがっているみたいだけれど、そんなことやっていいのかなあ。何だか常識を欠くようなことまで書きたがっているみたいだけど、こんなこと書いたら何て思われるだろう、などとあれこれ思い悩み始めた。
すると、りんごを洗ってまな板の上で切ろうとした瞬間、
「汝、臆することなかれ」
という言葉が頭の中に入ってきた。
「ええっ?・・・ハア、そうですよねえ・・・。ええっ何?この古めかしい言い方!」
一体どなたがおっしゃっているのか。ちょっと圧力を感じる言葉・・・。
でも少し安心した。私たち一人一人には個性があって、その個性を活かして自己表現することこそが、自分が創造して経験したいことなのだろう。思い悩みながらも、結論を出して選んでいく。それは、きっと誰でも同じ。自分の心の声に従って、勇気を出してどんどん進んで行けばよいのだろう。それが自分を生きるってことなんだろう。
そう、自分が乗った電車には、必ず車掌がいる。車掌は次の停車駅を案内し、駅に着くとドアを開ける。降りる人はもうご縁がなくなった人。乗ってくる人は、新しくご縁がある人。最初から乗り合わせている人もいれば、一駅だけの人もいる。
車掌は自分を導いてくれる守護霊/神やガイドのような存在。自分が心を開けば、車掌と話すことができる。車掌に聞けば、路線とその周辺のことをいろいろ教えてくれるし、乗り継ぎの案内もしてくれる。
心配することはない。
人生という名の電車は、車掌や乗り合わせた人々と時を過ごし、共に風景を味わい楽しむ場のようなもの。どんな景色を楽しめるかは、自分の選択による。勇気を持って行動する人が乗る電車は、きっと絶景を見せてくれるだろう。自分が楽しければ、車掌も乗り合わせた人々も楽しくなる。
そんな電車の旅はいつ終わるかわからないけれども、必ずいつか終着地にたどり着く。
「汝、臆することなかれ」
それは、私が今乗っている電車の車掌さんの言葉。ちょっと年配の方のようだが(笑)、そうやって励ましてくれる車掌さんがいるから心強い。
どの人の電車にも車掌は乗務している。そして、静かに見守っている。あなたが気づいていようといなかろうと、旅案内をしてくれている。大船(ではなく大電車?)に乗ったつもりで、のびのびと楽しもう。あなただけの風景を探しに。
車掌は複数乗務していることも多い。別の若手の車掌さんがこう言った。
「ただですねえ、居眠りしている人が一番困るんですよね。これはどうしようもないです。眠り続けて、終点まで乗り越してしまうんです。そういう人に限って、なぜ起こしてくれなかったって文句言うんですよ。そういう人には、降りた駅から逆方向に戻ってもらうしかないんですよね」
そうならないためにも、しっかり目を開けて、臆することなく、人生という旅の車窓に広がる風景を味わいたい。
今乗る電車だけがわかっていて、乗った時点ではどこで降りて、そこからどこ行きへ乗り継ぐのかもわからない。だから、あせってもジタバタしても仕方ない。今乗っている電車での体験や窓から見える風景を味わえばいい。そうしたら、いつか降りる駅がわかってくる。
私の場合、近所の路線で見慣れた風景を楽しんでいただけのときもあるし、環状線のようにグルグルと何度も同じ所を回っていたこともある。乗り間違えたかなと思ったこともあるし、時間待ちさせられてイライラしたこともある。途中からレールが大きく2つに分かれたこともあった。各駅停車、急行、特急、いろいろある。新幹線みたいに速いのに乗っていても、乗り継ぎ先からは鈍行になることもある。
そうやって、電車の旅は続く。長い長い旅。
ただ、ときどき不安になることがある。
「この電車はどこへ行くのだろう」
「乗ったはいいけど、果たしてこの電車でよかったのかなあ」
「あれっ?この線ってまだ完成していないのに、この線に入ってしまっていいの!?」
実は4日前、私はこれからの自分の活動のことを考えて、少し不安になった。今まで書いてきたように日記を続けて行きたいが、とても大胆で創造力があって、今の自分に満足していないもう一人の自分が頭をもたげ始めているのがわかるのである。
その朝、朝食の用意をしようと台所に入り、思った。一体自分って何者なんだろう。この突き上げる思いは何なんだろう。何を経験したがっているのだろう。もう一人の自分は、あんなことやこんなこと書きたがっているみたいだけれど、そんなことやっていいのかなあ。何だか常識を欠くようなことまで書きたがっているみたいだけど、こんなこと書いたら何て思われるだろう、などとあれこれ思い悩み始めた。
すると、りんごを洗ってまな板の上で切ろうとした瞬間、
「汝、臆することなかれ」
という言葉が頭の中に入ってきた。
「ええっ?・・・ハア、そうですよねえ・・・。ええっ何?この古めかしい言い方!」
一体どなたがおっしゃっているのか。ちょっと圧力を感じる言葉・・・。
でも少し安心した。私たち一人一人には個性があって、その個性を活かして自己表現することこそが、自分が創造して経験したいことなのだろう。思い悩みながらも、結論を出して選んでいく。それは、きっと誰でも同じ。自分の心の声に従って、勇気を出してどんどん進んで行けばよいのだろう。それが自分を生きるってことなんだろう。
そう、自分が乗った電車には、必ず車掌がいる。車掌は次の停車駅を案内し、駅に着くとドアを開ける。降りる人はもうご縁がなくなった人。乗ってくる人は、新しくご縁がある人。最初から乗り合わせている人もいれば、一駅だけの人もいる。
車掌は自分を導いてくれる守護霊/神やガイドのような存在。自分が心を開けば、車掌と話すことができる。車掌に聞けば、路線とその周辺のことをいろいろ教えてくれるし、乗り継ぎの案内もしてくれる。
心配することはない。
人生という名の電車は、車掌や乗り合わせた人々と時を過ごし、共に風景を味わい楽しむ場のようなもの。どんな景色を楽しめるかは、自分の選択による。勇気を持って行動する人が乗る電車は、きっと絶景を見せてくれるだろう。自分が楽しければ、車掌も乗り合わせた人々も楽しくなる。
そんな電車の旅はいつ終わるかわからないけれども、必ずいつか終着地にたどり着く。
「汝、臆することなかれ」
それは、私が今乗っている電車の車掌さんの言葉。ちょっと年配の方のようだが(笑)、そうやって励ましてくれる車掌さんがいるから心強い。
どの人の電車にも車掌は乗務している。そして、静かに見守っている。あなたが気づいていようといなかろうと、旅案内をしてくれている。大船(ではなく大電車?)に乗ったつもりで、のびのびと楽しもう。あなただけの風景を探しに。
車掌は複数乗務していることも多い。別の若手の車掌さんがこう言った。
「ただですねえ、居眠りしている人が一番困るんですよね。これはどうしようもないです。眠り続けて、終点まで乗り越してしまうんです。そういう人に限って、なぜ起こしてくれなかったって文句言うんですよ。そういう人には、降りた駅から逆方向に戻ってもらうしかないんですよね」
そうならないためにも、しっかり目を開けて、臆することなく、人生という旅の車窓に広がる風景を味わいたい。
2009年1月21日
荒御魂の力(1)― シールの意図するものは?
先日書いた「荒御魂からの忠告」の日記で、「cleanliness(清潔に)」と書かれたシールが、私の机に積み重なっていた紙切れに何かの拍子でくっ付いていた、とお話して、「それって(きれにしろよって意味で)だんなさんがくっ付けたの?」とのコメントをいただいたが、あまりにも面白いので写真に撮った。
このシールは、何年か前に、「水の結晶」で有名な江本勝さんのシアトル講演があった際に、おまけでもらったもの。ずっと机の上の奥の方に文房具と一緒に置いてあったが、なぜか「cleanliness」だけがはがれていた。これだけが台紙からノミのようにピョ~ンとジャンプして飛び出し、少し離れた所にあった紙に着地したかのようだった。元の位置に戻したが、他のシールは買ったときのままで、爪ではがさなければ取れないほどである。
もちろん夫はシールの存在さえ知らないのだから、それじゃあどうやって?と考えると気味が悪くなる。まあ、この程度の不思議は珍しくないので、ただ「おまえ、ええ加減に掃除せんか!」という天からのお叱りのメッセージくらいに思って、「はいはい、ごめんなさい。ついに言われてしまいましたね」程度の軽い気持ちで掃除を始めた。
しかし、この掃除の「程度」に問題があったのだ。このシールが意味する掃除とは、汚れを取って整頓するだけのことではなかった。そのことに気づくのに2週間かかってしまった。
以前、日記に「荒御魂は創造するための破壊の力であると私は理解している」と書いたが、その後で、その荒御魂のことを自分は本当はどの程度理解しているのか、また、それは日常レベルではどのような形で顕れるのだろうかと、ふと思った。
それを荒御魂は聞いていたのか、その矢先に起こった一連の出来事は、まるで荒御魂が「そうか知りたいか、それでは見せてやろう」とおっしゃったように、次々に意外なことが起こり始めた。しかし、結果的には、本来の荒御魂の力をずいぶん加減して、優しい力で教えてくださったのであろうと思う。
荒御魂のことを最初はもっと早く書くつもりだったが、結局は何事にもタイミングがあるのだろう。そのことを象徴するかのように、書く体制に入る寸前の絶妙なタイミングで、母が伊勢神宮を扱った番組で知った荒神のことで電話をしてきて、作業は中断された。そのときに、物事には手順があるのだなあと気づかされ、日記の結びで「まず掃除を済ませてから書きます」とお話した。
実は、あのとき一つ書いていないことがあった。それは、そのとき起こっていなかったから、書く必要はないと思ったからだ。
母は言った。「荒神のことを最近本にした人がテレビに出てゆっとったけど、書いとる途中にコンピュータが何回も壊れて、結局3台取り替えることになったんやって。そやで、あんたも何書くか知らんけど、書くんやったらその前に部屋を塩で清めるとか、何かちゃんとせんとあかんよ。別に脅すわけやないけど」
母は私が何を書こうとしているかなど、知る由もない。しかし、電話をかけてくるタイミングといい、その話題といい、恐ろしいくらい共時していたので、これは荒御魂からの忠告と捉えた。
新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している力が、荒御魂の力。新しく創造するためには、いったん壊さなければならない。
私は今はブログに書く程度なので、荒御魂はあくまでも手加減してくださったのだろう。
しかし、それはやっぱり嵐のような力だった。
<続く>
2009年1月18日
We Have Come A Long Way
遅々とした歩みであっても、それでも私たちは前進している。人類進化の道を歩んでいる。
We have come a long way・・・ここ数日、心の中で響いているこの言葉。
振り返ってみると、私たちはずいぶん長い道のりを歩いてきたものである。
オバマ氏の大統領就任式の第一日目が始まった。歴史的な転換点を迎える象徴的な日。
1792年に着工したホワイトハウスの基礎部分は、黒人奴隷が工事を担った。就任式の出席者で埋まるスペースは、当時、奴隷労働者が寝泊りする場所だったという。黒人大統領が誕生する日が来るとは誰が思っただろう。
実は、このことを予言するかのように語っている人がいた。10年ほど前に「インディアンの大予言」という本が友人から回って来た。この本は1994年に出版されたものであるが、その中で著者のサン・ベア (チペワ族のメディスンマン) は、アメリカに女性の大統領または黒人の大統領が誕生する時、アメリカは生まれ変わるというようなことを言っていたのを思い出す。
<写真:霧の中の日の出>
クリントン氏が勝利すれば、女性大統領の誕生もあり得たかもしれない。私はこの本を読んだ時、まさかそんなことが起こるなんてとても考えられないと思ったが、奴隷解放宣言をしたリンカーンの生誕200周年である今年、黒人大統領の誕生が現実となった。
奴隷が当たり前の時代があった。女性に選挙権がないのが当たり前の時代もあった。そんなことがまかり通っていたなんて、今では考えられない。時の流れを感ぜずにはいられない。
もちろん、今でも消えていない差別は数々ある。流れに抵抗する力はいつの時代でもあるものだ。
夫は昨年、ボランティア活動でオバマ氏に一票を投じるよう、フロリダのある地域を一軒一軒回った。そのときに「黒人に投票なんてするか!」とわめいてドアを乱暴に閉める人や、「地獄に堕ちろー!」と叫ぶ人もいたという。
アメリカに住んでいると(特に田舎では)、根強く残る人種差別を感じずにはいられない。日本人も差別の対象になることがある。反日感情を表す「Remember Pearl Harbor (真珠湾攻撃を忘れるな)」はあまりにも有名な文句。
憎悪や恐怖、それは誰でも持つ感情。そこからできた無数の壁。人種差別だけでなく、あらゆる面で摩擦や緊張を引き起こす。
私たちは、歴史という流れの中で生じた出来事で体験した感情から、さまざまな制限や枠を作ってしまった。その制限を取り壊していくのは、やはり、それを作った私たちに他ならず、一人一人に変化をもたらす力があることを信じて、自分の人生に、そして社会に、積極的に参加することから始まるのであろう。
私たちはずいぶん長い道のりを歩いてきた。過ちを繰り返しながらも、今日よりも明日の方がよくなることを願って生きてきた。それは個人レベルでも、国家レベルでも同じである。
自ら作った制限や枠を超えることができたとき、私たちは真に新しい世界に突入できるのであろう。
2009年1月8日
アセンションという言葉、嫌いです
はっきり言って、「アセンション(次元上昇)」って言葉嫌いです。
「アセンション、アセンション」って、なんだかみんな浮き足立っている感じがして仕方ありません。あるコンセプトを頭だけで理解して、宙に浮いてしまっている感じがします。本や情報の受け売りで現象にとらわれると、現実逃避に陥ってしまいます。自分が今やるべきことをしないで、空に向かってそのときを待っている人の姿が浮かびます。
今日、ある方のアセンションに関する日記に共感しました。地球の波動が上がっていくから、それに乗り遅れないように、スムーズに移行できるように、自分の波動を上げようとスピリチュアルグッズを買い集めたり、テクニックを身につけようとしたり、ひどい場合には貨幣経済が崩壊して、「そのとき」がやってくるから働かないと言っている人や、やって来る光の波にうまく乗ってしまえば楽な五次元へ行けるという考え方が、私も気になります。
すごく違和感を感じます。私だけでしょうか。
私は、フォトンベルトのことを少しウェブで読んだだけで、アセンションに関する本を一冊も読んでいないので、こういうことを言う資格はないかもしれません。
でも、日記は自由に書くスペースだから、思ったまま書かせていただきます。
アセンションのコンセプトが、現実逃避の原因になっていないでしょうか。
地球の波動が実際に上がってきており、それに伴って人間の肉体や意識に変化が起きることも経験上わかっていますが、2012年でこの苦悩に満ちた三次元世界ともおさらばという考えを持つのではなく、自分がいるこの場所で、自分の足元、この人生を真正面から見つめて、精一杯自分にできることをして、「丁寧に」生きることが今一番必要とされていることではないでしょうか。
そのように地に足をつけて力強く生きる人が多ければ多いほど、よりスムーズに地球の波動は上昇していくのではないかと思います。宇宙→地球→人間という一方向ではなく、人間→地球→宇宙という方向も等しく重要であるように思います。
本来は、人間を通して次元を上げていくべきものなのですから、また、そのために肉体を持ってこの地球にいるのですから、それが少し遅れてしまっていようと、やはり人間はその努力をすべきではないでしょうか。
波動の低い人は淘汰されるからと無視しますか。
困っている人を見ても、あと3年ですべてが移行するからと放っておきますか。
キラキラした光がやってくるのを見逃さなければ、後は楽に行けるのですか。
ワクワクする人生って、楽しいことだけをしていればよいのですか。
私たちが多次元的な存在であることは、日々の生活の中でこそ学ぶことだと思います。物事をスピリチュアルな観点から見ることで、より高い次元から理解できるようになり、生きていることの素晴らしさに気づくものです。しかし、それであっても、現実を直視することを忘れてはいけないと思います。
あと2~3年 (?) で女性の子宮が閉じてしまうとか、子供は別の形でできるようになるとか、光がやってくるとか、ある友人が話していましたが、それが起こると起こらざるとに関わらず、それよりも今ここに生きていることを大切にして、重心をしっかり下に向けて現実的に、しかし高い視野から物事を捉えて、貴重な毎日を丁寧に過ごしていくことが求められているのではないでしょうか。
「アセンション、アセンション」って、なんだかみんな浮き足立っている感じがして仕方ありません。あるコンセプトを頭だけで理解して、宙に浮いてしまっている感じがします。本や情報の受け売りで現象にとらわれると、現実逃避に陥ってしまいます。自分が今やるべきことをしないで、空に向かってそのときを待っている人の姿が浮かびます。
今日、ある方のアセンションに関する日記に共感しました。地球の波動が上がっていくから、それに乗り遅れないように、スムーズに移行できるように、自分の波動を上げようとスピリチュアルグッズを買い集めたり、テクニックを身につけようとしたり、ひどい場合には貨幣経済が崩壊して、「そのとき」がやってくるから働かないと言っている人や、やって来る光の波にうまく乗ってしまえば楽な五次元へ行けるという考え方が、私も気になります。
すごく違和感を感じます。私だけでしょうか。
私は、フォトンベルトのことを少しウェブで読んだだけで、アセンションに関する本を一冊も読んでいないので、こういうことを言う資格はないかもしれません。
でも、日記は自由に書くスペースだから、思ったまま書かせていただきます。
アセンションのコンセプトが、現実逃避の原因になっていないでしょうか。
地球の波動が実際に上がってきており、それに伴って人間の肉体や意識に変化が起きることも経験上わかっていますが、2012年でこの苦悩に満ちた三次元世界ともおさらばという考えを持つのではなく、自分がいるこの場所で、自分の足元、この人生を真正面から見つめて、精一杯自分にできることをして、「丁寧に」生きることが今一番必要とされていることではないでしょうか。
そのように地に足をつけて力強く生きる人が多ければ多いほど、よりスムーズに地球の波動は上昇していくのではないかと思います。宇宙→地球→人間という一方向ではなく、人間→地球→宇宙という方向も等しく重要であるように思います。
本来は、人間を通して次元を上げていくべきものなのですから、また、そのために肉体を持ってこの地球にいるのですから、それが少し遅れてしまっていようと、やはり人間はその努力をすべきではないでしょうか。
波動の低い人は淘汰されるからと無視しますか。
困っている人を見ても、あと3年ですべてが移行するからと放っておきますか。
キラキラした光がやってくるのを見逃さなければ、後は楽に行けるのですか。
ワクワクする人生って、楽しいことだけをしていればよいのですか。
私たちが多次元的な存在であることは、日々の生活の中でこそ学ぶことだと思います。物事をスピリチュアルな観点から見ることで、より高い次元から理解できるようになり、生きていることの素晴らしさに気づくものです。しかし、それであっても、現実を直視することを忘れてはいけないと思います。
あと2~3年 (?) で女性の子宮が閉じてしまうとか、子供は別の形でできるようになるとか、光がやってくるとか、ある友人が話していましたが、それが起こると起こらざるとに関わらず、それよりも今ここに生きていることを大切にして、重心をしっかり下に向けて現実的に、しかし高い視野から物事を捉えて、貴重な毎日を丁寧に過ごしていくことが求められているのではないでしょうか。
2009年1月7日
黒糖の味
私は、サトウキビのジュースと、サトウキビのアイスキャンデーにアイスクリーム、そして黒糖が大好きである。
宮古島からフェリーで15分のところに伊良部(いらぶ)島という島があり、その島と川を隔てて下地島という島がある。その島の観光スポットのひとつ、「通り池」の入り口で、地元のおじさんが車で運んできたサトウキビをその場で搾ってジュースを売っている。冷やして固めたアイスキャンデーもある。その横のベンチには、黒糖も並べてある。
「この黒砂糖は混じりっけなしだからね~。空港で同じもの売ってるけど、ここより100円高いよ~、ここで買うのが一番安い!」
下地島は小さい島。そこで、観光客相手に稼げる場所は限られている。野良着の格好のままで客を呼び込もうと商売っ気を出しているおじちゃん、ちょっと可愛い。笑うと陽に焼けた顔が深いシワでくしゃくしゃになる。
私はこの土地の人たちの笑った顔がとても好きである。何という素朴な顔だろう。シワは生きてきた人生の深さを物語っている。やわらかい眼差しは、あまり人が擦れていないことを表わしている。こちらの心も和やかになり温かくなる。
黒糖のかけらを試食してみたら、これがまた素朴で格別な味がした。口の中で複雑な甘さがふわ~と広がって、細胞にスーっと吸収されていくようだ。全然しつこくなく、変な後味が残らない。
混じりっけなしの黒糖ってこういう味なのか。それだけで満たされる味、豊かな味。お饅頭を食べると次におせんべいが食べたくなり、その後、また甘いものが欲しくなるといった、両極端の永久ループに陥ることなく、小さなかけら1つで十分である。
サトウキビジュースもアイスキャンデーも、やさしい甘さがする。スーっと体の中に溶けていき、細胞が喜んでいる。自然の味ってこういう味なんだ。私が作っている畑の野菜もそうだが、素朴で豊かな味。他に何もいらない。
それが本物の味。
本物はすごいなあ。真正直でごまかしがない。飾らなくても色をつけなくても、そのままストレートに味わう人の心を動かす力を持っている。
黒糖を1つ、口に放り込んで思う。
私も、こんな素朴で豊かな味がする人生を送りたいなあ。
<写真:通り池>
2009年1月6日
ホースの夢
一昨日、こんな夢を見た。
満月の日の午前4時に外に出て見ると、外にはたくさんの人が集まっていた。宗教的な集まりのようである。
私は月を見ようと立っていると、向こうから教祖のような男性が、お供を連れてこちらに向かって歩いてきた。彼に特別なパワーと能力があるのは、その存在感からでも明らかだった。そう感じたとき、自分の頭の中で条件反射のごとく「パワー = すごい人」という式が成り立ってしまい、その瞬間、私の左のわき腹に黒いホースが差し込まれた。
このホースは、その教祖と私を結ぶ導管のようなもので、私のエネルギーをコントロールして彼のシステムに組み込んでしまう。まるで、映画「マトリックス1」のようだ。主人公ネオが、自分の体がいくつものホースでつながれ、人間の養殖機の中にいることに気づく、あのシーン。私の場合は1本であるが、そのシーンと重なった。
あわてた私は、必死にこのホースを引っ張って体から引き抜こうとするが、硬いゴムのように少し伸びるだけで抜くことはできない。教祖と信者たちは黙って私を見ている。引っ張っても引っ張っても、太いホースはしっかりとわき腹に食い込んでいる。
「バステトさま!」必死になって、いつも私を守っていてくれるガイドに助けを求めた。意識を集中してもう一度引っ張ったら、伸びて外側の一部がプツンといってちぎれたが、やはり芯の部分はしっかりつながったまま。ガイドがすべて処理してくれるわけではない。
あせりが募る。このホースをある一定の時間までに取らないと、永久に取ることができなくなり、システムから抜け出すことができなくなってしまう。残り時間はあと数秒・・・。
そのとき、直感的に、心を落ち着けて意識を自分の内側に向けようと思った。私は目を閉じて、事実を客観的に見てみた。
「自分があの男性の持っている不思議な力に魅力を感じ、そんな力を持つ彼にあこがれる気持ちがほんの少しあったため、ホースは体の中に差し込まれてしまったのだ」
それが事実であった。
そう気づいたとき、私は、他の人の力にあこがれて頼る浅はかさ、弱さが自分の中にあるということを認めた。
とその瞬間、ホースはスポンと切れた。
一度切れたホースは再びつながることはない。私は解放されたのだった。
この男性に帰依している人たちは、ホースを切ることができた私を羨ましそうに見ている。彼らは、このシステムに組み込まれていることに気づいていても、本当は後悔していても、自由になりたくても、恐怖があるため逃げられない。
「自分は他の人の霊的な力に依存せず、きちんと自分の足で立ち、どこにも属することなく自由であること、それがこれからの私なのだ。私には弱い部分があったが、これからは神につながる人に頼るのではなく、自分で直接神とつながる。外に求めるのではなく、自分の中に見出す」
そう自分自身に言ったところで、夢から覚めた。
ホースの感覚がとてもリアルであった恐ろしい夢。
確かに人より霊的な能力が秀でている人はいる。しかし、だからといって、その人のすべてが素晴らしいわけでもなく、ましてや神に代わるわけがない。パワーグッズもそうであるが、頼りすぎると間違った方向に行ってしまう危険性があるのではないだろうか。
直観力や霊感というのは、もともと誰でも持っており、発達させることができるものだから、帰依する必要などないと私は思う。
このご時世で、人の不安や恐怖心につけこむ人たちや商売は、減ることはないだろう。しかし、これからは、自分の中にある神に通じる心を見出し、その心を通して直接神とつながることができるときが来ていると思う。
満月の日の午前4時に外に出て見ると、外にはたくさんの人が集まっていた。宗教的な集まりのようである。
私は月を見ようと立っていると、向こうから教祖のような男性が、お供を連れてこちらに向かって歩いてきた。彼に特別なパワーと能力があるのは、その存在感からでも明らかだった。そう感じたとき、自分の頭の中で条件反射のごとく「パワー = すごい人」という式が成り立ってしまい、その瞬間、私の左のわき腹に黒いホースが差し込まれた。
このホースは、その教祖と私を結ぶ導管のようなもので、私のエネルギーをコントロールして彼のシステムに組み込んでしまう。まるで、映画「マトリックス1」のようだ。主人公ネオが、自分の体がいくつものホースでつながれ、人間の養殖機の中にいることに気づく、あのシーン。私の場合は1本であるが、そのシーンと重なった。
あわてた私は、必死にこのホースを引っ張って体から引き抜こうとするが、硬いゴムのように少し伸びるだけで抜くことはできない。教祖と信者たちは黙って私を見ている。引っ張っても引っ張っても、太いホースはしっかりとわき腹に食い込んでいる。
「バステトさま!」必死になって、いつも私を守っていてくれるガイドに助けを求めた。意識を集中してもう一度引っ張ったら、伸びて外側の一部がプツンといってちぎれたが、やはり芯の部分はしっかりつながったまま。ガイドがすべて処理してくれるわけではない。
あせりが募る。このホースをある一定の時間までに取らないと、永久に取ることができなくなり、システムから抜け出すことができなくなってしまう。残り時間はあと数秒・・・。
そのとき、直感的に、心を落ち着けて意識を自分の内側に向けようと思った。私は目を閉じて、事実を客観的に見てみた。
「自分があの男性の持っている不思議な力に魅力を感じ、そんな力を持つ彼にあこがれる気持ちがほんの少しあったため、ホースは体の中に差し込まれてしまったのだ」
それが事実であった。
そう気づいたとき、私は、他の人の力にあこがれて頼る浅はかさ、弱さが自分の中にあるということを認めた。
とその瞬間、ホースはスポンと切れた。
一度切れたホースは再びつながることはない。私は解放されたのだった。
この男性に帰依している人たちは、ホースを切ることができた私を羨ましそうに見ている。彼らは、このシステムに組み込まれていることに気づいていても、本当は後悔していても、自由になりたくても、恐怖があるため逃げられない。
「自分は他の人の霊的な力に依存せず、きちんと自分の足で立ち、どこにも属することなく自由であること、それがこれからの私なのだ。私には弱い部分があったが、これからは神につながる人に頼るのではなく、自分で直接神とつながる。外に求めるのではなく、自分の中に見出す」
そう自分自身に言ったところで、夢から覚めた。
ホースの感覚がとてもリアルであった恐ろしい夢。
確かに人より霊的な能力が秀でている人はいる。しかし、だからといって、その人のすべてが素晴らしいわけでもなく、ましてや神に代わるわけがない。パワーグッズもそうであるが、頼りすぎると間違った方向に行ってしまう危険性があるのではないだろうか。
直観力や霊感というのは、もともと誰でも持っており、発達させることができるものだから、帰依する必要などないと私は思う。
このご時世で、人の不安や恐怖心につけこむ人たちや商売は、減ることはないだろう。しかし、これからは、自分の中にある神に通じる心を見出し、その心を通して直接神とつながることができるときが来ていると思う。
2009年1月5日
荒御魂からの忠告?
先回の日記の最後に、次回は荒御魂(あらみたま)の力について書くと言ったが、これについて今、強烈なシンクロが起こっている。
本当は本日書く予定だったが、「待った」がかかった。
私は神道の知識もないし何も知らないが、ここ2~3年の間に速いスピードで不思議な力に導かれている。今年の春と秋に伊勢にお参りしたときに、不思議な体験をしている。秋に宮古島へ行ったときにも、これまた不思議な体験をしている(これらについて、まとめて詳しく書く計画を立てている)。
荒御魂とは、神の荒々しい側面であり自然の猛威であるとだけ、ここでは申し上げておこう。
2008年は、伊勢にお参りした際に数々の荒御魂に強いご縁を感じた。宮古島ではまさに荒御魂である龍神パワーを体験した。
今朝、伊勢神宮のことなどインターネットで調べて、午後に荒御魂のことを書き始めようと思っていた矢先に、母から電話があった。
先日日本では、ビートたけしの番組で、たけしが伊勢神宮にお参りしたときのことを放送したという。そこで、彼は「荒神」について話したという。なんというタイミング!「お母さん、それそれ、そのことを今書こうとしてるの!」と私は思わず叫んだ。
母を通しての見えない世界からのメッセージは、「敬意を払い、きちんとした手順を踏んで書きなさい」ということであった。
お恥ずかしい話だが、これを書いている私の机は散らかっている。そして、私がいる部屋も、模様替えの真っ最中で物が散乱している。この部屋は自宅オフィスとして夫と共有しているが、部屋の中央にまだ片付けきれない物が散らかっている。
私の机には走り書きした紙が何枚も積み重なっていた。インスピレーションが来た時に書き留めておくからだ。それが整理しないまま散乱していた。
12月のある日、私の机に積み重なっていた紙切れに、何かの拍子で一枚のシールがくっ付いているのに気づいた。見てみたら、シールに「cleanliness(清潔に)」と書かれてある。うわー来た来た!とうとう言われてしまったと思った。机の上はもう何ヶ月もそういう状態だったので、私は注意されたのだった。相手も業を煮やしてこの手に出たのだろう。
そういうわけで、年末の2日間で狂ったように大掃除をしたが、今まであまりにも汚かったので、完全には終わらない。元旦に夫はその要らない机を整理した。本当にお恥ずかしい話だが、何かに押し出されるように、今オフィスを整頓している。
母は言った。ジュディーオングは版画をする前に体を清めたり、きちんとした手順を踏むらしい。
そういったことに無頓着だったが、やはり、きちんとしなければいけないこともあるのだなあと反省した。
考えてみれば、そうである。昔の人は、すべてのものに敬意を払って生活していた。現代は、そういう心がなおざりになっている。私は反省した。部屋を整理してスッキリしてから書かなければ失礼にあたると気づいた。そういえば、宮古島へ旅行する前に、夢で「敬意を払いなさい」と言われたのを思い出した。
教えられることばかりである。
というわけで、荒御魂の力について書くのは、もう少し先になることになった。
まず掃除します。
本当は本日書く予定だったが、「待った」がかかった。
私は神道の知識もないし何も知らないが、ここ2~3年の間に速いスピードで不思議な力に導かれている。今年の春と秋に伊勢にお参りしたときに、不思議な体験をしている。秋に宮古島へ行ったときにも、これまた不思議な体験をしている(これらについて、まとめて詳しく書く計画を立てている)。
荒御魂とは、神の荒々しい側面であり自然の猛威であるとだけ、ここでは申し上げておこう。
2008年は、伊勢にお参りした際に数々の荒御魂に強いご縁を感じた。宮古島ではまさに荒御魂である龍神パワーを体験した。
今朝、伊勢神宮のことなどインターネットで調べて、午後に荒御魂のことを書き始めようと思っていた矢先に、母から電話があった。
先日日本では、ビートたけしの番組で、たけしが伊勢神宮にお参りしたときのことを放送したという。そこで、彼は「荒神」について話したという。なんというタイミング!「お母さん、それそれ、そのことを今書こうとしてるの!」と私は思わず叫んだ。
母を通しての見えない世界からのメッセージは、「敬意を払い、きちんとした手順を踏んで書きなさい」ということであった。
お恥ずかしい話だが、これを書いている私の机は散らかっている。そして、私がいる部屋も、模様替えの真っ最中で物が散乱している。この部屋は自宅オフィスとして夫と共有しているが、部屋の中央にまだ片付けきれない物が散らかっている。
私の机には走り書きした紙が何枚も積み重なっていた。インスピレーションが来た時に書き留めておくからだ。それが整理しないまま散乱していた。
12月のある日、私の机に積み重なっていた紙切れに、何かの拍子で一枚のシールがくっ付いているのに気づいた。見てみたら、シールに「cleanliness(清潔に)」と書かれてある。うわー来た来た!とうとう言われてしまったと思った。机の上はもう何ヶ月もそういう状態だったので、私は注意されたのだった。相手も業を煮やしてこの手に出たのだろう。
そういうわけで、年末の2日間で狂ったように大掃除をしたが、今まであまりにも汚かったので、完全には終わらない。元旦に夫はその要らない机を整理した。本当にお恥ずかしい話だが、何かに押し出されるように、今オフィスを整頓している。
母は言った。ジュディーオングは版画をする前に体を清めたり、きちんとした手順を踏むらしい。
そういったことに無頓着だったが、やはり、きちんとしなければいけないこともあるのだなあと反省した。
考えてみれば、そうである。昔の人は、すべてのものに敬意を払って生活していた。現代は、そういう心がなおざりになっている。私は反省した。部屋を整理してスッキリしてから書かなければ失礼にあたると気づいた。そういえば、宮古島へ旅行する前に、夢で「敬意を払いなさい」と言われたのを思い出した。
教えられることばかりである。
というわけで、荒御魂の力について書くのは、もう少し先になることになった。
まず掃除します。
2009年1月3日
決断の力
決断するときエネルギーが動く
自分の中で何かが変わるということは、自分のエネルギーが変わることである
それまでは、どっしりと大きな岩が行く手を阻んでいるかのようであっただろう
重い空気に包まれ、エネルギーは停滞していた
しかし、決断した瞬間に猛烈なエネルギーが発散される
これは一瞬のうちに起こり、突然壁が破れる
すると、自分のまわりの様々な状況が変わってきて、動き始める
まるで魔法のように
変化を起こすのは常に自分自身である
人は誰でも岩をも動かす大きな魔法の力を持っている
それは思考と意志であり、決断は自分が生きるその道の方向性を定めることである
*******
3年ほど前から、私は魂の双子ともいうべき友人に、半年に一度の割合でカードリーディングをしてもらっている。お互いどんなに離れていても、違う環境にあっても、何故か半年くらいの間隔で会うようになっており、有り難いことに、彼女は私がそのとき必要としているメッセージを届けてくれる。
ネイティブアメリカンとのご縁が強い彼女が使うカードは、天と地のバランスの中で自然と共に生きるネイティブアメリカンの教えに基づいたものであり、そこから何種類かのリーディングができる。
私が特に好きなのは「ティピ・スピレッド」と呼ばれるもので、8枚のカードを選ぶ。過去に既に学んだことから始まり、現在必要としていること、その裏側にあるもの、活動にあたって必要なこと、自分に力を与えてくれるもの、叶っている願い、予期しなかったチャレンジ、そして、この道を進んで得られる状況について洞察を与えてくれる。
興味深いのは、いつも何気なく引くにも関わらず、選んだカードの流れが半年前の続きとなっていることであり、1枚1枚のカードから実に深いメッセージが得られる。
今日は年頭にあたり、「決断のカード」についてご紹介しよう。
<決断のカード>
Council Fire – Decisions(会議中の焚き火の絵が描かれている)
=カードのメッセージ=
今、決断をしなければならないときが来ており、勇気がいるが、決めなければ先に進むことができない。このカードを引いた人は、変化のときにあり、決断できるときに来ている。
自分の意見、自分の真実をしっかり持ち、自分を軸にして決定する。決して他人に頼ってはいけない。他人に左右されてはいけない。自分で決める。
その際に、そう決めたことにより他人がどのように影響されるか、また、決めた先の可能性もよく考えること。その決断は、十分に勇敢なものでなければならない。
穴やトンネル、洞窟をイメージして地球の内側と繋がり、または地球の中心と繋がるイメージをして、しっかりグラウンディングをする。そのことで、決定する上でのヒントが得られるであろう。
そして、いったん決めたら振り返ってはいけない。すぐ先の新しい人生が待っているから。己の真実を見出し、それを信じて勇気を持って行動すること。
---------
今年は、それぞれの人がそれぞれのレベルで新しい決断をするときに来ているように感じる。今までずっと同じパターンに甘んじてきた人、考えに「癖」のある人は、変えざるを得ない状況に外側から押し出されることになるかもしれない。
目に見えないレベルで特に昨年から顕著になった力があり、あくまでも、私個人が感じることであるが、これを「荒御魂(あらみたま)」の力であると考えている。荒御魂は創造するための破壊の力であると私は理解している。次回の日記に、このことについて書きたいと思う。
自分の中で何かが変わるということは、自分のエネルギーが変わることである
それまでは、どっしりと大きな岩が行く手を阻んでいるかのようであっただろう
重い空気に包まれ、エネルギーは停滞していた
しかし、決断した瞬間に猛烈なエネルギーが発散される
これは一瞬のうちに起こり、突然壁が破れる
すると、自分のまわりの様々な状況が変わってきて、動き始める
まるで魔法のように
変化を起こすのは常に自分自身である
人は誰でも岩をも動かす大きな魔法の力を持っている
それは思考と意志であり、決断は自分が生きるその道の方向性を定めることである
*******
3年ほど前から、私は魂の双子ともいうべき友人に、半年に一度の割合でカードリーディングをしてもらっている。お互いどんなに離れていても、違う環境にあっても、何故か半年くらいの間隔で会うようになっており、有り難いことに、彼女は私がそのとき必要としているメッセージを届けてくれる。
ネイティブアメリカンとのご縁が強い彼女が使うカードは、天と地のバランスの中で自然と共に生きるネイティブアメリカンの教えに基づいたものであり、そこから何種類かのリーディングができる。
私が特に好きなのは「ティピ・スピレッド」と呼ばれるもので、8枚のカードを選ぶ。過去に既に学んだことから始まり、現在必要としていること、その裏側にあるもの、活動にあたって必要なこと、自分に力を与えてくれるもの、叶っている願い、予期しなかったチャレンジ、そして、この道を進んで得られる状況について洞察を与えてくれる。
興味深いのは、いつも何気なく引くにも関わらず、選んだカードの流れが半年前の続きとなっていることであり、1枚1枚のカードから実に深いメッセージが得られる。
今日は年頭にあたり、「決断のカード」についてご紹介しよう。
<決断のカード>
Council Fire – Decisions(会議中の焚き火の絵が描かれている)
=カードのメッセージ=
今、決断をしなければならないときが来ており、勇気がいるが、決めなければ先に進むことができない。このカードを引いた人は、変化のときにあり、決断できるときに来ている。
自分の意見、自分の真実をしっかり持ち、自分を軸にして決定する。決して他人に頼ってはいけない。他人に左右されてはいけない。自分で決める。
その際に、そう決めたことにより他人がどのように影響されるか、また、決めた先の可能性もよく考えること。その決断は、十分に勇敢なものでなければならない。
穴やトンネル、洞窟をイメージして地球の内側と繋がり、または地球の中心と繋がるイメージをして、しっかりグラウンディングをする。そのことで、決定する上でのヒントが得られるであろう。
そして、いったん決めたら振り返ってはいけない。すぐ先の新しい人生が待っているから。己の真実を見出し、それを信じて勇気を持って行動すること。
---------
今年は、それぞれの人がそれぞれのレベルで新しい決断をするときに来ているように感じる。今までずっと同じパターンに甘んじてきた人、考えに「癖」のある人は、変えざるを得ない状況に外側から押し出されることになるかもしれない。
目に見えないレベルで特に昨年から顕著になった力があり、あくまでも、私個人が感じることであるが、これを「荒御魂(あらみたま)」の力であると考えている。荒御魂は創造するための破壊の力であると私は理解している。次回の日記に、このことについて書きたいと思う。
新年のご挨拶
皆様、明けましておめでとうございます。
いよいよ2009年がスタートしましたね。
昨年、新しい出会いがありました。一人一人の方とは不思議な形で出会いましたが、その出会いに偶然はなく距離も関係なく、見えないところで繋がっているのだと強く感じます。その繋がりが輪になって、その輪が今後もどんどん広がって、たくさんの方と交流できたら素晴らしいなと思います。
私の拙い文章を読んで下さってありがとうございます。感想・ご意見などをコメントでいただければ大変有り難いです。
さて、沖縄から帰った後に旅日記を書くつもりでしたが、日記として書ききれないほど様々なことが繋がり合っており、膨大な量になることに気づきました。楽しみにしていただいている方々には申し訳ないのですが、日記とは別に集中して書くことにしました。いずれ形になったときに公開したいと思います(とはいえ、そのときの気分で、少し書くかもしれませんが)。
今年も思ったままに書き綴って行きたいと考えております。どうか、今後ともよろしくお付き合いください。
皆様にとって、実りある素晴らしい年となることをお祈り申し上げます。
いよいよ2009年がスタートしましたね。
昨年、新しい出会いがありました。一人一人の方とは不思議な形で出会いましたが、その出会いに偶然はなく距離も関係なく、見えないところで繋がっているのだと強く感じます。その繋がりが輪になって、その輪が今後もどんどん広がって、たくさんの方と交流できたら素晴らしいなと思います。
私の拙い文章を読んで下さってありがとうございます。感想・ご意見などをコメントでいただければ大変有り難いです。
さて、沖縄から帰った後に旅日記を書くつもりでしたが、日記として書ききれないほど様々なことが繋がり合っており、膨大な量になることに気づきました。楽しみにしていただいている方々には申し訳ないのですが、日記とは別に集中して書くことにしました。いずれ形になったときに公開したいと思います(とはいえ、そのときの気分で、少し書くかもしれませんが)。
今年も思ったままに書き綴って行きたいと考えております。どうか、今後ともよろしくお付き合いください。
皆様にとって、実りある素晴らしい年となることをお祈り申し上げます。
登録:
投稿 (Atom)