2011年9月13日

月と子守唄


満月の昨日、スーパーからの帰り道を歩きながら、ふと思い出したことがあった。私の母はしつけが厳しかったため、私は子供の頃よく母に叱られた。

母は目が大きく、叱るときは、その大きな目に力をこめて「めっ!」っと言って(おそらく、それはダメという意味だろう)、親指を立てて思い切り私の目の前に突き出した。それがあまりにもパワフルで、3~4歳の私は途端にウワ~ンと泣き出したものだった。私は強情で腕白だったので、お尻もたたかれたし、押入れに入れられたこともあった。

しかし、そんな風に叱られた後、私は必ず抱きしめてもらったのを覚えている。それはとても心地よく、母のことは怖いけれども大好きだった。

叱られた後もグズグズ泣いているときは、母はそんな私を寝かしつけるため、添い寝をして、ポンポンと背中を軽く叩きながらリズムをとって子守唄を歌ってくれた。歌ってくれるのは、たいてい「五木の子守唄」か「叱られて」だった。

畳の上に敷かれた昼寝用の薄い布団にごろんと横になると、涙が鼻の付け根を超えて反対側に流れていく。叱られた後に「叱られて」を聴きながら、そうやって泣きながら眠りにつく。

この歌はキーが高いので、母の声は途中からしゃがれ声になり、聴き苦しいなあと思いながらも(笑)聴いていると、いつのまにか静かになっている。母の方が先に寝てしまっているのである。それを見て私も寝るというパターンだった。

今思い出すと切ないほどの優しい気持ちになる。切っても切り離せない母子。


空を見上げる。


山の少し上に出た満月は薄いピンク色に染まり



















徐々に輝きを増していった




















懐かしさと感謝の気持ちが、月の光に溶けていく 




















グレートマザーのスピリットに捧ぐ





















<写真> バルコニーからの満月 タッチドローイング「母と子」

2011年9月10日

内側の子




昨年、タッチドローイングの創始者デボラ・コフチャピンさんによるワークショップでタッチドローイングをしていたときに20枚ほど絵を描いたが、その最後の方で、意識は突然自分の家族にフォーカスし始めた。

私は生まれたときから母親との繋がりが極めて強く、その反動もあってか(?)一人アメリカに渡り、そこから20年近くが経とうしているが、ワークショップで白い紙に向かったとき、内側から自分の家族に対する想いのようなものが出てきた。

指は母の胸に抱かれる赤ん坊である私のようなものを描き始め、その絵は、かつてへその緒で繋がっていた自分と母は、それが切れた後も、どんなに遠く離れていても、ずっと繋がっていることを語りかけてきた。突然胸の中から溢れる想いに、描きながらも涙があふれ出た。

その母子をぐるっと円で囲むと、小さな芽を描きたくなった。それは私でもあり、成長する生命でもある。それもぐるっと円で囲むと、芽はやがて大木へと育っていく。描きながら、その木は私でもあり、家系という木でもあるように感じられた。

次に、指は、最初に描いた母子とこの木の間に私の家族を描いていった。父、母、姉と私の4人の顔が互いに向かい合ったような形になった。これが日本にいる私の家族。

しかし、まるで最初からそれが用意されていたかのように、その下に中途半場なスペースが残っており、絵の具を塗った板の上に紙を置いたときのわずかなシミが、そこに付いていた。それは人の目のような形にイメージされ、そこから指は勝手にもうひとつの顔を描いた。

その後、家族4つの顔を線で結びたくなり、繋いでひとつの輪にした。追加したもうひとつの顔は、自然にその内側に入っていた。さらにその家族の固まりを円でぐるっと囲んで、今まで描いた円と繋いだ。

描いた後、全体を見てみてハッとした。

実は、私の下にもうひとつ、この世に送り出されることのなかった命があったのである。私がそのことを知ったのは、結婚後十年近く経ってからのことであった。帰省した際に、母は突然何を思ってか「もう話してもいい頃だと思うので」と言い、その事実を話してくれた。それは全く計画していなかった妊娠だったそうだ。

「子供は最初から二人と決めていたし、経済的な余裕もなかったし、あんたが生まれたばかりでまだ首もすわっていない状態だったから、そんな状態でもう一人産むことは考えられなかった」と母は言った。妊娠3ヶ月のときに中絶したとのこと。

この突然の告白に、私は最初ショックで何も言葉が出なかった。おそらくじっと母の目を見続けていたのだと思う。母は、そんな私の表情を見て、少し弁解するように「あの時分は中絶する人も多くてね、3ヶ月だったら魚みたいでまだ人間の形になっていないし・・・」と言った。

その言葉と裏腹に、母の左の目から涙がにじみ出たのを私は見逃すことはなかった。その涙に、私も涙がこみ上げた。しかし、口では多分「ああそうだったの」くらいしか返事ができなかったと思う。それもよく覚えていない。

その後、無言という反応で耳と目から受け取った情報を、自分の中で整理しなければならなかった。最初に母に対する怒りが出た。それは正しさだけにフォーカスした、小さな自分の反応だった。

その後、母の涙を思い出すと、そんな批判というものは全く意味をなさなくなり、母というよりも女性の深い哀しみのようなものがこみ上げ、私は妊娠したことがないのに、自分の子宮も一緒に震えて悲しんでいた。そのときの感覚は、自分というものを超えたもっと大きな意識の一部から来たものだった。

私の指は、この絵によって、そのときのことを再び見るように促してくれたのであろう。

最後に追加したその顔は、こちらを見ている。指の勢いで描いた表情は、私の目には笑っているように見える。というよりも、そこにいることが嬉しそうに見える。

生まれてこれなかった命だけれど、こうして家族の中にいる。私の弟か妹になるはずだったこの子の場所は、家族の輪の内側。

今まで意識の上に出てくることはなかったが、こうして絵にして見てみると、これが本当に円になれる私の家族であり、完全な形であるように感じられる。

多分、私はそれをしたかったのだろう。今これを見ていると胸が痛むが、それは悲しみではない。

それを描いたときとは別に、私の中で新たに何かが癒され始めているのを感じる。


<写真> タッチドローイング「いのちと家族」

2011年9月3日

見当違いのポジティブ思考



ポジティブ思考、アファメーション、引き寄せの法則・・・これらは、人生を成功させる方法のツールとして広く世間で知られている。

使いこなせれば人生ら~くらく、世の中をスイスイと泳いで渡れる。

と、思っていた頃があった。

それができる人もいるだろう。しかし、私はそういうことから降りた。

私は、自分の思考にもう少しでだまされるところだったのである。

これは数年前の話。

それまで十年以上、私はフリーランスで実務翻訳をしてきた。翻訳業界も浮き沈みがあり、コンピュータ・IT業界の急成長期には翻訳においては需要の方が供給より多く、翻訳者は引っ張りだこだったが、その後バブルが崩壊し、需要・供給のバランスが大逆転してしまった。

顧客に提示する見積額が「セリ」にかけられ、最も低い金額を出した翻訳会社に軍配が上がるという厳しい時代になり始めた。

翻訳者には、より早い納期と高品質が求められる一方、報酬はどんどん下がっていくのである。失業して翻訳を始める人も増え、競争はますます激化。熾烈な生き残り合戦が展開する(どこかで聞いた話ですね。そう、世界中あらゆる業界で起こっている)。

その頃、私はそういった競争の中にいることにもうんざりしており、翻訳への興味を失い始めていた。そうなると、仕事は重荷とプレッシャー以外の何者でもなくなる。仕事の依頼があっても逃げ腰になり、ほとんど断っていた。かといって、自分は他に何をやりたいかも定かではなかった。そんな私を横目で見ている夫に、次第に苛立ちが募っていくのが感じ取られ、私の心は混乱と罪悪感で重くなっていった。

下降スパイラルの渦の中、収入は激減し、ダラダラしていたら、ある日たまりかねて夫が言った。

「お前はえり好みをしている。逃げている。仕事を手にするために具体的な行動をとっていない、努力をしていない」

夫も翻訳の仕事をしているが、確かに彼は来る仕事はできる限り断らずに受けている。前向きに突進していくのである。

「努力をしていない」と指摘されるのは痛い。子供の頃から「あなたは努力家だ」と周りから言われ、目標に向かってコツコツやるのが好きだっただけに、努力をしていないことはきちんと生きていないようで、自分を否定されたようで、そうなると焦りの塊になってしまうのである。

そんな私に助け舟を出すかのように、夫は言った。「それはそうと、来月翻訳の認定試験があるけど、シアトルが会場だってよ。受けてみたら? 認定されたらもっといい仕事が入ってくるだろうし、料金を上げることもできるんじゃないか」

その言葉に、私の心にポッと明かりがともった。
「そうだ、私は翻訳者資格を取ればいいんだ。認定試験に合格すれば、ステータスが付いて自信がつくし、料金を上げる正当な理由にできる。この広いアメリカで、今回シアトルが会場だなんて、そんなこと数年に一回あるかないかのチャンス。なんというタイミング!それに、申し込みの締め切りが明日だなんて。このことを知るのがもう少し遅かったら、アウトだったじゃあないか!これはもう絶対天からのメッセージに違いない!うん、そうしよう。資格を取って、また新しく始めよう!」

決断というのは大きな力である。そう決めた瞬間に身体にグッと力が入り、カーッと熱くなった。その後、早速申し込みをし、私はアファメーションをしたり、資格を取った後の自分をイメージしたりして、ポジティブなエネルギーですっかりその気になり、ワクワクした夢でも見るだろうと期待しながら、やる気満々で床に就いたのであった。

それで、合格の夢を見た?

とんでもない!

それどころか、突然上から威厳のある一言が、爆弾のように頭の上に落とされた。

「その必要はない」

ただその一言。

「へっ?!!」

寝ていたが、頭は起きていた。「その必要はないって、資格を取る必要はないってこと?」
ショックとともに目覚めたのである。

あの威厳のある声の主は誰だったのだろう? やる気満々の私の意志をへし折ったその言葉は、そのときから私の心に居座って、試験会場までついて来た。

会場は街でも名の通ったホテルの会議室のような場所だった。英語から日本語への翻訳試験なので、受験者はほとんどが日本人だった。席に着いたとたん、私は目を見張った。テーブルは、カンナをかける前の荒削りの板を張っただけのものだったのだ。紙に翻訳を書き込むのだが、鉛筆の芯が木目のでこぼこに入り込んで紙が穴ぼこだらけになってしまい、書けやしない。

全く信じられなかった。これは何かの冗談?

受験会場に、あまりにもお粗末すぎるテーブル。こんなどこから拾ってきたのだろうと思えるようなテーブルが、ホテルに存在すること自体考えられなかった。試験を主催する翻訳協会の人は、何も気に留めていないようで、私が指摘したら「厚紙か何か、下敷きになるものを探して使ってください」と、シャーシャーと言ってのけた。日本だったらプラスチックの下敷きがあるが、このアメリカでそんなもの見たこともない。受験に厚紙持参なんてことも書いてなかったし。

このテーブルは明らかに受験の障害となる。なのに、周りの受験者は誰一人文句も言わず、静かに紙に向かっている。この人たちは一体何?

私はトワイライトゾーンへ滑り込んだのか・・・「その必要はない」という言葉だけが心の中でガンガン響く。

すっかりやる気が失せてしまった。
その上、試験中にだんだんアホらしくなってきた。試験環境が、実際の翻訳環境とあまりにもかけ離れていたからである。

翻訳に必要なのは実際にはコンピュータだけである。原文を開いて、翻訳をタイプしていく。辞書もすべてコンピュータのデスクトップにあるし、その他の調べものはインターネット検索を駆使する。

それが、この認定試験では、おそらく今では誰も使っていない紙の分厚い辞書だけが使用を許可され、訳は紙に書き込むやり方だった。新しいやり方を導入できず、古いやり方を続けていることは聞いて知っていたが、実際にやってみると、これが何の意味になるのかと思えてきて、ペンを投げ出したくなった。いや、もう全く不真面目になっていた。

それ見ろ、その必要はないって言ったじゃないか・・・とあの声の主がニヤリとしながら見ているようでもあり、その横に一緒にもう一人の自分がいて、頷いているようでもあった。

結果はもちろん不合格。後で聞いた話だが、採点は同業者の翻訳者がするとのこと。そこに利害関係が全くないとは言い切れないだろう。認定試験では様々な言語を対象としているが、中でも英日翻訳の合格率は極めて低いことも知った。

もともと、この認定試験制度というもの自体、翻訳者からなる翻訳協会が作り出したものであり、国家試験ではない。他の言語はともかく、英日・日英に関しては国家試験は存在しない。おそらく表現・言葉の選択など、感覚的な要素が含まれるため、きっちりとした基準を定めることは難しいのだろう。

合格した人は素晴らしい。私は合格しなかった。ただそれだけのことで、私に何のインパクトも与えなかった。

そのことがあってから数年後の今、あの言葉は正しかったとはっきり言える。

結局、認定を受ける必要はなかった。認定によるステータスも、それによる自信も必要ではなかった。私にとって食べていけるだけの仕事があればそれでよく、お金は確かに必要なときに必要なだけ入ってくる。

よし、やろう!と決めたときのあの体からみなぎる元気に、もう少しでだまされるところだった。コツコツ努力とプラス思考は的が外れていた場合、それに気づかなければ、エネルギーを不要なところに使うことになってしまう。

不安がなくなったとは言えないが、自分の自信というのは、認定の有無に左右されるものではなく、自分を認めて受け入れることから始まることを知った。また、罪悪感から自分にとっての滋養になるものは生まれないことも知った。

今では、依頼があったときは、逃げ腰にならず、現実の社会を知る手段として仕事に向かっている。期限も金額も自分のペースで交渉すると、意外にも相手は受け入れてくれる。自分の納得のいく翻訳ができれば自分は満足感を得られ、相手も気に入ってくれるようだ。

その後、カウンセラー・セラピストへの道が目の前に開けたが、もう無理にアファメーションはしない。引き寄せなども意識しない。

静かに心に向かう。やりたくないことは罪悪感なしにやらないことを受け入れるようにし、目標に向かって自分を駆り立てたり、走り続けることもしないようにしている。

静かにしていると、雨の日や晴れの日があるように、波のようなリズムがやってくるのを感じる。動きたくないときや、動けないときは動かない。動かないことも大切なことなのだろう。そして、動きたいときは思い切り動く。

見当違いのポジティブ思考で遠回りをするよりも、風を感じるときのように自分の感覚を信じ、興味が引かれることや、自分の中でわずかに共振することを感じ取る触覚を育てることに時間とエネルギーを使い始めると、出来事が向こうからやってくるようになる。

その出来事のひとつひとつがより大きな流れへと注ぎ込まれていくのを感じたら、もう後戻りはしないだろう。

2011年9月1日

野菜ばんざぁ~い



今年の畑。200近い区画からなるオーガニック畑で野菜作りを始めて、今年で11年目になる。

土を耕し、種を蒔き、そこから収穫までは水遣り、草抜きを繰り返す。

かがみこんで草抜きをしていると、腰が痛くなる。土が爪の中に入るし、手は荒れる。肌は日に焼けてガサガサする。それでも楽しいから、毎年春から秋にかけて、こうして畑をしている。

水遣りは、遠くから重いホースを引っ張ってきて、土が水でドボドボになるくらいまでやる。それくらいやって丁度よい。それくらいやって、水がようやく土の中まで染み渡るのである。

しかし、それにはかなりの努力が必要で、雨の力には到底かなわない。植物は、人間と自然の力の違いを知っているかのように、雨の後はしっとりと満足げである。何と言っても、自然の雨の後の成長振りには目を見張る。畑にあっても、自然の力の偉大さを思い知らされるのである。

畑仕事は単純で純粋な肉体労働。デスクワークの世界とは180度違う。難しいことは何もない。植物がスーッとストレートなエネルギーを放ち、ここにいると余分な考えがどこかへ逃げてゆき、自分もスーッと畑の空間に溶け込んでいく。

ここは、生き物の活動の場。アブラムシもナメクジもたくさんいる。それでも、害虫駆除というのをせず、そのままにしておいても、元気のよい野菜はへこたれず育っている。それを見ていると、少々の虫食いなんてへっちゃらだと思うようになる。野菜を虫と分かち合うのも悪いものではない。

今日カメラを持って、畑に行った。

最初に向日葵に挨拶。


この2つの向日葵は、私の目には、夫婦が並んで遠くの風景を眺めているように見えて仕方がない(苦笑)。



この向日葵は、マントをひるがえして、こちらをジッと見ている大きな目玉の存在のよう。


やっぱり一心に見ている・・・そんな風に感じられる。



花の芯に魅了される。


 

 この色や形、仕組みを創造した力は何を思ってこれを創ったのだろう。





 矢車草の蜜の味はどんなだろう。


ハチの両足にくっ付いているのは、何だろう(ご存知の方は教えてください)。




今年は色んなかぼちゃを作っている。


                          くりかぼちゃ

       

                     スイートミート



                     バターカップ



                         そして、地中海品種のズッキーニ


最後に、本日の収穫!




左はレインボーチャード。その名の通り、茎の色が様々。蛍光のイエローやピンク、レッド、オレンジなど、自然のものとは思えない色もある。

収穫した後は、心が弾けるくらいに嬉しい。

自然よ、ありがとう。虫さん、ありがとう。

野菜ばんざぁ~い!!