2013年12月30日

賛美と祈り

シアトル近郊の島で行われた夏のリトリートのときに森の中で描いた絵の一枚がこれなのですが、それに色づけをして、アップしようと思っていたちょうどその時に、リトリートの敷地にあった樹齢100年近くの大木が、理由あって昨日切り倒されたことを知りました。

タイトルは「賛美と祈り」という言葉が来ていたのですが、この出来事にピッタリでした。

からだを失った木のスピリットに感謝を捧げます。

Blessings and Prayers

2013年12月16日

宇宙人になった心地


フロリダ半島というと、ほとんどの人はオーランドのディズニーランドやマイアミあたりが頭に浮かぶだろうか。私の義母は、マイアミから車で時間ほどの小さな街に住んでいる。

そこは、一時期ニューヨークからの移住者のための住宅ラッシュもあったが、今なおオレンジやグレープフルーツ農園が点在し、季節になると、道ばたのフルーツスタンドは黄色とオレンジ色に染まる。

初めてその街を訪れたのは、ちょうど今頃の季節であった。日中は冷房するほど暑くなるのに、街はサンタクロースやクリスマスの飾りで彩られ、場違いに感じられた。

シトラスの収穫がピークを迎えており、私はフルーツスタンドのひとつに立ち寄った。フルーツスタンドと言っても、八百屋の倍くらいの大きさがあり、店の中には果物以外にジャムやお土産物も並んでいた。日差しが強いので、私は薄手の長袖を着て帽子をかぶっていた。

店で品物を見ていると、何か違った空気を感じる。冬とは思えない南国の日差しのせいだろうと思い、私は見たこともない種類のオレンジや、珍しいフレーバーのジャムに夢中になっていた。

品物の入ったかごを持ってレジに向かおうとしたとき、異様な空気がピタリと肌にくっついた感覚になり、何だろうと周りを見回した。

店の人も客も地元の人なのだろう。私以外の人はみな同じように見える。同じようにというのは、人種、肌の焼け具合、服装、話し方などである。

光線を当てられたような感覚は、こちらに向けられた複数の視線からのものだった。横からチラチラというのは別に珍しいことではないが、そういうのではなかった。大きく見開かれた目がまともに私の顔から足下へ、そしてまた足下から顔へと移動するのである。

レジの人は、一体この人はどこから降ってわいたのかと言わんばかりに、私を食い入るように見つめてくる。いや、人というよりも宇宙人でも見ているような表情だった。

私は、文字通りエイリアン (Alien) なのだ(Alienとは外国人、よそ者、異星人という複数の意味がある)。そのエイリアンが、耳にしたことのないアクセントのある英語を話すとなると、一層珍しいのだろう。勘定をするときも、品物を袋に入れるときも、相手は口を閉ざし、目だけが全開していた。

私は一瞬で裸になった感覚になり、戸惑ってしまった。夫にこのショッキングな事件のことを話すと、おそらくその人たちはアジア系の人に会ったことはないのだろうと言った。私の服装も違うし、日に焼けていない肌も際立っていたのだろう、と。

確かに、滞在中アジア系の人は一人も見なかった。どうやら、その街にはレストランを経営している中国人が一家族いるのみとのこと。
「まあフロリダは田舎だよ」と夫が言った。

人種のるつぼと言われるアメリカで、まさかこんな体験をするとは夢にも思わなかった。

しかし、そんな体験をしたのは私だけではなかった。アメリカ人と結婚した私の友人は、式を挙げる前に中西部の小さな街にある彼の実家を訪れ、そのときに親戚一同が集まったそうだが、彼女一人が浮き上がってしまったという。

そこにいた小さな男の子が、まるで得体の知れないものに出会ったかのように恐る恐る彼女のそばにやって来て、穴が開くほど見つめた末に、彼女の黒い髪をためらいながらも触ったり引っ張ったりしてきたという。

「まったくもう、私宇宙人になったような気がしたわ。めちゃくちゃ居心地悪かったー。」
彼女も同じことを言った。

日本にいたらおそらく絶対に体験できないこと。いや、シアトルでも体験できなかった。

今度そんな風に見つめられたら、「ミーミーミーミー」と高音を発して驚かしてやろうかと密かに思うのだが、それは冗談として、異なる環境に出てみることはショックも伴うが、新しい体験や気づきをもたらす。あのときほど、自分という存在を強く意識させられたことはなかった。

クリスマス前、大勢の買い物客で賑わう仙台のアーケードを歩く。行き交う人の服装も色も髪型も表情も、なぜか同じに見えてしまう。そして若い女子店員の、「いらっしゃいませ~、どうぞ ・・・・・ ませ~」という顔の上半分から抜けるようなあの奇妙な鼻声と抑揚は、まるでコピーをして貼り付けたかのように、どこへ行っても全く同じに聞こえる。

フロリダで体験したのは、集団の意識が作り出す場だった。日本のような単一民族の集団の力は、さらに強烈である。それに吸収されていくとき、一種の安心感も感じられる。

しかし、A定食、×○セット、「らくらく○×、「まかせて安心パッケージ」などが溢れる社会に慣れてしまうと、麻痺して自分で考える力がなくなってくる。

そこに安住したくない自分がいる。冬服のように暖かく心地よい一方、重みと粘着性もあるからだ。

左翼的で急進的なシアトルから保守的と言われる仙台に移って2年目に入るが、冬のこの時期にあのフロリダのことを思い出したのは、自分の中のエイリアンのような異質な部分を尊重したいという内からのメッセージなのだろう。



タッチドローイング・リトリートで描いた一枚
 タイトル:New Vision


2013年12月14日

干し柿、最高!


近所の道を歩いていたら、移動販売車が止まっていた。覗き込んでみると、山形から来た野菜が並んでいる。大振りのラ・フランスが手招きしていたので、3個買ってさあ行こうと思ったら、お客のおばさんが「その干し柿3本ちょーだい!」と指差した。



その先を見ると、トラックの天井に干し柿が数珠のように吊るしてある。途端に私も「おじさん私も欲しい!」と叫んでいた。そこから干し柿を欲しい人が急増し、おじさんはちょっと困った顔をした。



「なあ~に、みんな。これだけしかねえや~。なあ~んだぁ、うちに帰ればいっぺえあるのになぁ~」



みんなも笑っている。おじさんは特に商売っ気もないし、買う側も争うこともなく和気あいあいという感じで、なんとも素朴であったかい。



で、私は1本買えた。隣にいたおばさんが「袋に入っているのも美味しいけど、やっぱり吊るしてあるのが一番」と私に言った。


ワクワクしながら家に帰った。こういう吊るしてある干し柿を手にするのは生まれて初めてである。一個食べてみたら、う~ん、柔らかくてジューシーでとろけるよう。最高!しあわせ~。








2013年12月12日

マザーツリー



何度も何度も頭の中にシグナルを送ってきていた絵を無視し続けてきたら、「ええかげん色塗ってくれや~」と迫られたので、今日また一枚色付けをしました。先日と同じリトリートのときに描いたものです。

思うに、このリトリートはかなり濃厚だったので、普遍的なメッセージ性のある絵が出てきているんですよね。たくさんあるのですが、今それをひとつひとつ噛み砕いて消化する段階なのかもしれません。肥やしにさせるためにも、時間をかけて消化することは自分にとって大切だと感じています。

この絵は、森の中で時間を過ごした後に描いたものです。


2013年12月10日

色づけというプロセス

夏のリトリートで描いた何十枚ものタッチドローイングを見ていたら、絵が「ね~、そろそろ色付けてよー」と声をかけてきたので、昨日は色付けをして時間を過ごしました。今回、鳥の部分に初めてラメの入った絵の具を使いました。ハートから出ずる何か輝かしいものを感じたからです。


この絵は、ネルソン・マンデラ氏が残されたメッセージとも繋がっているような気がします。うまく言葉にはできませんが。

平和はやはり私たちの心の中から始まるのだということを、絵が示しているように感じます。

こうして色付けしている間に絵との対話があって、未完了だったものが完了した感覚になりました。それは小さな感覚ですが、「これでいいのだ。さあ、次に進もう」という感覚が自分の中から沸き起こってきます。

普段ワークショップでは時間が足りないのでなかなか色付けまでこぎつけませんが、2日間のワークでは絶対に入れたい大切なプロセスだと思います。


2013年12月9日

ソウルカード



「これどうして日本で売らないの?」と私はタッチドローイング創始者のデボラ・コフチェイピンに聞いた。
「実はアプローチをかけたのだけど、日本の出版社に却下されたのよ」とデボラ。

「担当者は男性だった?女性だった?」
「男性よ。頭カタそうだった。」

「う〜ん、そうだろうなあ。はっきり言って、ソウルカードは他のタロットのようにキラキラした絵や色使いじゃないから、一般向けじゃないんでしょうね。出版社は売れそうなものしか扱わないと思うし、まだ今の日本には早いのかな・・・男性だと視点も感性も違うだろうし。それに、まだまだ書いてあるメッセージを受け取るだけの方を好む人も多いと思う」と私が言うと、デボラも頷いた。

ところがワークショップでこのソウルカードを使うと、参加者はカードに惹き付けられる。そしてカードを一枚引くと、誰もがそこに描かれた絵から何かしらのメッセージを受け取り、自分の今の心の状態に結びつけて、時には詳細に説明するのである。

明るくキラキラしたカードではない。どちらかと言うと、ドキッとさせたり心をザワザワさせるものが多い。カードの意味もメッセージもなく、ただ絵があるのみである。しかし、絵はそれを観る者の心のドアを叩く。

私のワークショップでは、通常、引いたカードをじっくり心で味わい、感じたことをシェアした後に、ドローイングのセッションに入る。その後、自分が描いた絵を振り返って感じたことをシェアし、最後に再び同じカードを眺めてもらう。すると、毎回ほとんど全員が最初とは異なるより肯定的な解釈をし、ドローイングを通して意識が変容したことを理解できるのである。

無意識の中にあったことがドローイングで浮上し、それを絵というかたちで見ることにより意識化され、言葉で説明することでさらに意識化が強化される。

カードを引くと、ほとんどの人が絵の人物は今の自分だと言う。そして、同じカードでも、引いた人によって全く異なる解釈となり、毎回その本人にとって重要であるメッセージが本人の口を通して出てくる。このことには驚くが、結局自分のことは自分が一番よく知っているのだろうから、当たり前のことなのだろう。

カードに書かれたメッセージやタロットリーダーを通じて教えてもらったメッセージが必要なときももちろんあるが、それに頼らず自分で感じ取ってみると、案外最も納得できるメッセージが、自然に自分の中から出てくるのではないだろうか。

妊娠と出産に不安を抱いていた妊婦の方は、このカードに、これから生まれてくる子供の愛を感じ取り、自分の未来に大きな希望を持つことができたと話してくれた。

この同じカードを引いた乳がんで片方の乳房を切除した方は、カードに自分の中の無垢な少女の存在と大人の自分を見て、切除はしたが自分の右胸には確かに乳房がある、失ってはいないと語った。




デボラによると、ソウルカードがカードになったのにも面白いエピソードがあるそうだ。ある日デボラが飛行機で移動中、たまたま隣り合わせになった男性と軽い会話をしていたら、話の流れで、かばんに入れてあった自分が描いた何十枚もの絵の写真を取り出して見せることになったという。

それを見た途端、男性が興奮して言ったそうだ。
「これだ、これなんだ!!これをカードにして、俺はこれからこれを使うんだ!」

彼は長年タロットリーディングを生業としてきたが、自分のリーディングはもう行き着くところまで行き着き、限界と物足りなさを感じて、これからどうしようかと思い悩んでいたという。

彼は、デボラの絵に自分の将来を見た。そこには、人からアドバイスを受けるのではなく、自分で見て自分でメッセージを受け取るクライアントがいた。

私も思うのであるが、カードを通して自分の心と対話する・・・結局、それが本人にとって一番深く納得できるものなのではないだろうか。

デボラにとって彼との出会いは必然的だったのだろう。それから間もなく、このカードが出来上がったそうである。

さて、あなたにこのカードをお見せしよう。このカードから何を感じますか?タッチドローイングをした後には、さらに異なった見方へと変化していることでしょう。



どのカードも深いメッセージをもたらすことでしょう。この中に気になるカードはありますか?



2013年12月2日

しこりの少女はすでに描かれていた?!

マンモグラフィに映ったしこりの二次検診の日を待っている間に、しこりに意識をフォーカスしてタッチドローイングで描いたところ、しこりから炎を胸に抱いた少女が出現し、そのことをブログにして先日シェアした。


その直後に、カナダにいるカーリンからメッセージが届いた。Facebook の投稿には英語では最小限のことしか書かなかったし、ブログは日本語のみであったにも関わらず、彼女からのメッセージはまるでブログを読んだかのような内容であり、私は心の中を読み取られたような不思議な気持ちになった。

カーリンは、今年7月にシアトル近郊の島で行われた日のタッチドローイング・リトリートの第日目に、パートナードローイングで参加者30人の中からくじ引きで選ばれた私の相手である。彼女もサイコセラピストであり、海外移住をしたという点で、私たちは似ていた。

驚くほど鋭い洞察の持ち主である彼女からは、成熟した人という印象を受ける。鉄条網とコンクリートや壁に囲まれたベルリンで育ち、家庭でも学校でも自分を理解してもらえなかった息苦しい環境から逃れるようにカナダへ移住したと、話してくれた。「あらゆる闇を見てきた」という彼女の目からは、深い哀しみと慈愛が溢れていた。

その彼女から届いたメッセージを読んだ後、ふと、リトリートの最後に撮った二人の記念写真を見てみたくなった。リトリートの最後には、6日間の間に描いた100枚近い絵の中から1枚だけ気に入った絵を選んで一人ずつ写真を撮ってもらうが、順番を待っている間に、カーリンと私はお互いに絵を抱えて並んだ。

写真を見て、私はアッと声を出しそうになった。カーリンの絵は私が描いたしこりの少女と同じ構図であり、少女が腕に抱えているものまでも同じなのだ。私の絵は実際のしこりの形から描き始めて、それが結果的にまゆのようなものとなったが、カーリンの絵の少女もピーナツ型をしたむろの中にあった。




私はすぐにカーリンにメールを送り、一体どこからそのイメージが来たのか尋ねたところ、自分のインナーチャイルドの絵だということだった。彼女とはパートナーだったこともあり、共通するものを持った二人が引き合ったのだろうが、それにしても、少女の頭部が開いたり根となったりして天と繋がっているところまでが同じであるのには驚いた。




そうしてカーリンと自分の絵を見ていたら、ひょっとしたら、それは私たち二人だけではなく、人間の深層意識の元型であって、特に女性の集合意識のテーマに繋がるかもしれないという思いに至った。

そのとき、しこりの少女の絵を見た私の親友が言った言葉が心に響いてきた。「今、乳がんや子宮筋腫になる女性が結構な割合でいるけれど、子宮や乳房は女性としてのアイデンティティにも関係してくるね。子宮は内側にあるのに対し、乳房は外から見えるものだけに、女性であることを強く意識させるもので、例えば乳がんで乳房を切除するということは、女性にとって相当大きなことだよ」

実は、私はタッチドローイングのリトリートで一番気に入った絵として、ふくよかな胸をした女性を描いたものを選んだ。それは、美と調和と喜びを表すイメージとして、無意識の領域から現われたものであった。

象徴として描かれたアーチや惑星、頭上に抱える器とその中の炎、それらはすべて繋がって女性性の集合意識の領域へと広がっていくように思える。


カーリンと並んで撮った写真は、2つの絵を通してインナーチャイルドから成熟した女性へのストーリーを示しているように見える。絵のインナーチャイルドには愛と力が溢れており、健全な大人への道を示してくれているようにも思える。




私にとって、もはやこのしこりは良性・悪性といったレベルの話ではなくなっている。単なる物理的な細胞の話でもない。新しい意識と健全な女性性とは?女性に今何が問われているか?

魂が表現すると呼ばれるタッチドローイング。沈黙の中から指を通して魂が語りかける。無意識の領域から次々ともたらされるパズルのピースを手に、私は一体どこへ向かって行くのだろう。

魂はすでに知っているから、問いかけを胸に私はこれからも描き続けていく。