2014年8月30日

ゼロの感覚

今年に入って認知症かと思うほど、加速度的に物忘れが激しくなっている(笑)。が、きっとそれは必要ないから忘れるのでしょう、と思うと気持ちも軽くなる。

かつて、マッサージ師の人が私の頭を触って「うわあ〜パンパン!」と叫んだことがあったが、それほど私のマインドは忙しかったのだった。

この物忘れは、常にゼロに近づかされている感覚であり、ゼロ感覚でいると余計な心配も不安もなく、穏やかに中心にいられて今に集中できる。何かをするというのではなく、そこに在る、その「場と一体になっている」という感覚だろうか。

そうしていると、風に乗って運ばれてくるようなかすかな気配を感じたり、突然特定のイメージが浮かんだりする。自分が受信機になったような感覚だ。

先週私のタッチドローイング個人セッションを受けた名古屋の友人が、一連の絵を通して、上昇気流や嵐や目の前に立ちはだかる壁を通り抜け、キラキラの光の中で守られている感覚を味わったあと、最後に辿り着いたのが「ゼロ」だった。紙の上にわずかな線を描いただけで、ほとんど何も描かず、それに「空(くう)」というタイトルをつけた。

その友人が、セッションが終わってから一週間の間に、「内側が拡大すると言うか、宇宙的な感覚が鼻先をふっと通り過ぎるように感じる事が多かった。それはぶわーんって宇宙空間と共に広がる感じで、ハートと言う限定ではなくて、体ではない、この世で言うところの私と言う宇宙空間が広がる感じ」と教えてくれた。

それで思い出したことがある。タッチドローイング創始者のデボラが、タッチドローイングを見出した後に、出かけた先の海辺で見た木のことを語ってくれたことがある。

その木には柳のような細くしなやかな枝が幾本もあり、垂れ下がって地面に触れていた。その枝がそよ風に揺れて動くと、砂の上には美しい模様が出来ていたという。

それを目にした瞬間、彼女は心の中で叫んだという。「これが自然が描くタッチドローイングだ!タッチドローイングの真髄はここにある!」と。

私たちという木の指という枝が風に揺れるのは、マインドを介さず、無心に動く姿なのではないか。

感情の層を抜け、空っぽの状態になり、ゼロの場からそこに描かれるものは、その空間から純粋に受け取ったものなのではないだろうか。それを見た人の目には何が映し出されるだろう?

指で直接描くという最も原始的な方法。私が出会ったタッチドローイングという道は、常に何かを気づかせてくれ、変化し続けて行く。この先もずっと続いていくその道を一歩一歩歩いて行くことは喜びであり、その喜びをこれからも多くの仲間と分かち合っていきたい。

2014年8月27日

タッチドローイング個人セッションの感想

関東からタッチドローイングの個人セッションにいらっしゃった方が、ドローイングの体験から感じたことを文章にまとめてくださいました。シェアの許可をいただいたので、ここに転載させていただきます。Mさん、遠方から猛暑の中をお越し下さりありがとうございました。ご一緒できた時間は、私にとって宝物のようです。

以下、体験談です。


*****

タッチドローイングの個人セッションを受けることができた。

セッションの最初に引いたソウルカードで印象を尋ねられ、出てきたのは、「無理矢理空気をかき分けて前に進む、暑苦しくしんどい人生」・・・どういう言葉 にしたか忘れたが、そういう印象だった。それはまさしく、今までの自分の生き方。力づく、というか、必死、というか。漕いでも漕いでも前に進まない・・・ そんな感覚を呼び起こされるカードだった。



そしていよいよ、順子さんの叩く太鼓の音と共に、タッチドローイングのセッションが始まる。画板にインクをローラーで伸ばし、薄紙を乗せる。そして、薄紙 の上に指を置く・・・。最初は試すつもりで、指の腹や爪、手のひらなど、いろいろな場所を使って、「直接手で描く感覚」を味わおうとする。

選んだインクはマゼンタ。他に紫や緑もあった。普段なら一番好きな色は紫だが・・・その時の私はマゼンタ、だった。

何枚か描いてみる。しかし、胸が詰まっているのか、頭が邪魔しているのか、「自分の中から湧いてくる」感覚になかなかなれない。なんらかの「抵抗」。チューニングの悪いラジオのような感じ。本当の声が聞きたいのに、聞き取れないもどかしさ。

しかし、何枚も描いていくうち、あるポイントでふっと、もう「割りたい」「出したい」という感覚がやってきて、球がわれて何かが飛び出す絵を描いた。

その後起こったことが面白かった。何かが降りてくるように、ふわっとエネルギーが満ちて描ける絵と、「いやいや無理だ無理なんだ」とばかり、閉じこもり無力な感覚をぼやくような絵が、交互に出てくるのだ。これはまさに今の自分の状態なんだろうな、とあとで思った。

時間いっぱいに描いた絵は二十枚以上、かなり多かったが、自分はそんなに無理をした感じはなかった。それらに一枚ずつ名前をつける。不思議なことに「○○と××」のように、二つの何かがペアになった絵がやけに多かった。

その中で、最初に何かがつながった「割りたい」という絵にフォーカスして、「動詞にするとしたらどんな言葉になる?」と聞かれた。出てきたのは、「割く」 だったので、それを動きにしてみた。



順子さんの太鼓と歌が、一連の動きの間中鳴っている。両手でハートのあたりを引っ張り、「割いた」。すると、びっくりするほどリアルに、まるでカーテンを両手で開けたときのように、ハートに風が入り、心臓が冷たく感じたのだ。

そこに、彼女の歌が流れ込んでくる。すると今度は、背中にも胸と相似形の小さな風穴があき、まさに、ハートチャクラの部分が「開いた」のを感じた。

涙は勝手に流れた。そして、私の口から歌が流れ出した。細く高い女歌で、古い記憶の中でいつも歌っていたであろう歌だ。歌う私の周囲には、ネイティブの女 性達のスピリットが集まっていましたよ、と順子さんがあとで教えてくれた。それは体感とも合致していて、私は歌う女達の一人として、ただ一心に息吹に響き を乗せていたのだ。

昔私はずっとこうしていた。とても大切なことだった。そうして歌っているときの私には、焦りも悲しみも怒りもなく、大切で楽しいそのつとめを、無心に行っているだけだったのだ。

セッションを終えてもう一度、最初に引いたカードを見たとき、暑苦しくしんどそうに思えたそのカードの人物が、水の中でさえも炎のようなエネルギーを持っ て進んでいける、力強く頼もしい人に見えるようになっていた。全くカードは変わっていない。変わったのは私の意識だけだ。

そして、セッションを終えたあと、順子さんと二人、広瀬川の河原へ行って太鼓をたたき、歌を歌った。川の神様に捧げたかった。空の高いところに鳥が飛んで いた。周りは普通に夏の夕方を楽しむ人たちの世界だ。その中で、ただ、湧いてくる歌を歌った。高く、低く、何の思惑もなく、流れ出す声と旋律を、ただ捧げ た。

起こったことはこうしたことだった。その体験を経て、今私の中でどんなプロセスが進行しているかは、今の私には見えない部分もあるが、やがて、姿を現すであろう、と確かに思う。

はっきりわかったことは、ただ、起こることを信頼して身を任せるとき、「繊細でありながら、大らかに、クリアに、リラックスする」という状態を体験できる のだ、ということだ。気づかぬうちに思考を離れ、子供の頃のように、無心にただ在る。自分と世界の間にずれがない。その、愛に満ちた世界。

私は、自分自身とつながる時間の大切さと、それを実現する「失われた記憶」を思い出したい。大切な大切な、何かを、ゆっくりと思い出していきたい。今はその道の上にいる、と思う。

ガイドしてくれた順子さんに、心から愛と感謝をこめて。

2014年8月4日

タッチドローイングの真髄とビジョン


アメリカから戻ってから、私の中で「自分探しはもういい」という言葉が響いている。



私の場合、この「自分探し」というのは、自分が歪んでいたり何か不完全であって、それを直そう、正そうという考えがベースになっているという意味での自分探しで、「探す」というのは「今ここにはない」と思っているからすることであり、もはやそれは今の自分にとって矛盾しているから、そういうことはもういいということなのだろう。



私が広めたいと思っているタッチドローイングの真髄は、定義することが難しいほど広大なものである。



私が5年間の自分の体験を通してはっきりとわかっていることは、タッチドローイングは、自分の中に本来ある創造のエネルギーが、自分の指を通してほとばしり、表現され、そこからさらなる創造が展開するプロセスそのものであり、終わりのないいのちの躍動であり、人間の意識の変容と進化に貢献するものであるということである。



タッチドローイングは、契約書の言葉を借りると「○○を含むがそれらに限定されない」広大な意識そのものである。



タッチドローイングをするとき、人は感じるままに動かす指を通して自分の体の声を聴いたり、感情に気づいたり、先祖と繋がったり、癒されていない子供に出逢ったり、自分の魂の痕跡を垣間見たり、自然や宇宙と一体になる感覚を思い出したりと、頭ではなく体験を通して、ごく自然な形で納得しながら自分の中心へと向かって行き、調和と本来持っている力を取り戻して行く。



指は創造のエネルギーを通す導管のようなもので、不要な感情で詰まっていた管が綺麗になってくると、今度は未来のビジョンを描き始める。癒される受け身の自分ではなく、自分の個性を認識してそれを尊重し、積極的に創造する自分へと変容するのである。



私が広めたいタッチドローイングは、太古の叡智を携えながらも時代の先端に位置するものである。



タッチドローイングはセラピーや表現アートセラピーに取り入れられることが多いが、私が広めたいタッチドローイングは、さらにその先をも含めたもので、すでにその流れが始まっている。



そのため、私が今後ファシリテートする場は、セラピー的な要素も含むがそれよりもさらに先へと向かう、ビジョンに基づく創造力を養い、自分の足で立ち、未来を積極的に創造する場としての色が濃くなるだろう。



人間の意識の進化とともに可能性を開いて行く純粋な創造の場であるということ以外の定義や枠や制限を一切もたない、タッチドローイングのスピリットそのものを忠実に伝えて行きたいと考えている。



次回のタッチドローイングワークショップは9月14日に北海道で行われます。会場のKocomatsuさんは、魂の原点に帰るような場所です。詳細はこちらをご覧ください。



Tree Planet


2014年 Touch Drawing Gathering
森の中でのドローイングより