2011年4月28日

魂の母胎(1)


昨日の地元の新聞に、70年前に建てられたトーテムポールの木が腐ってきているため、安全のため取り壊すことになったという記事があり、21種類の生き物が彫りこまれているトーテムポールの写真が載っていた。この記事の中で、彫られた生き物のひとつひとつに子供たちへの教えがあると説明があり、その中でも「ヘビ」の教えが目に留まった。

「ただ単に、変形していたり弱いからといって、その生き物を傷つけてはいけない」

それは私の中で、「目に映る姿が自分とは違うから、性質が違って見えるからといって、いじめてはいけない。軽んじてはいけない」という言葉に変わっていた。

ふと、思い出したことがある。

あるとき、夫は少し暗い顔で、しかし淡々と言った。

「子供のとき、ボクの父さんの仕事の関係で、家族でニューヨークから中西部のインディアナ州に移ったことがあったんだけど、そのとき、町の子供たちが『メキシコ人は国へ帰れー!!』って言って、うちの窓ガラスめがけていくつも石を投げつけて、ガラスが全部割れたんだ」

どんな流れでこの会話になったかは覚えていないが、そのとき、私は驚いて返す言葉がなかった。

夫は続けた。「そのあと、今後窓ガラスが割れて怪我をしないようにと、父さんは黙って窓に板を貼り付けたんだ」

「父さんは黙って窓に板を貼り付けた」と聞いたとき、窓枠に金づちでトントンと釘を打っている彼の父親の姿が目に浮かんだ。その瞬間、何とも言えない悲しい気持ちが私の心に押し寄せた。

夫はメキシコ人ではない。先祖はスペインから移住し、彼の両親の親はプエルトリコに住んでいた。人種としてはヒスパニック系になる。当時、インディアナ州に住む白色人種以外の人はかなり珍しかっただろう。肌が茶色い=メキシコ人=よそ者は国へ帰れ!白人の人たちの間には、このような公式のようなものが出来上がっていたのだろうか。

結婚してから、こんな出来事もあった。夫と一緒にあるスポーツ用品店に入ったところ、入口で店員に持っているかばんを預けてくださいと言われ、夫が憤ってそのまま店を出てしまったことがあった。私はわけがわからず夫の後を追ったが、彼は店の外で興奮していた。

「マイノリティーだから疑われた!ひどい店だ!」

「ハア~」
何だか気抜けしたような感じになった。本当にそうなの?よく見てみると、店の入口に「窃盗防止のため、お客様は入口で手荷物を預けてください」という注意書きがあった。

ロサンゼルスから遊びに来た夫の父親が、悲しそうにつぶやいたことがあった。
「家の周りでジョギングをしていたら、銃を持って巡回していた警察に突然止められて、両手を挙げろと言われ、身体検査をさせられた。ジョギングしていただけなのに、何か犯罪を犯して逃げていると思ったんだろう。俺の肌が茶色からさ」

最近ではかなり変化してきているが、アメリカの人種問題は今なお根深い。白人に対するマイノリティー(少数民族)の人たちの集合意識の中に渦巻く想念、マイノリティーに対する白人の集合意識の中に渦巻く想念、それぞれが相容れず切り離されたように見えるが、実は怖れと抑圧という同じ領域でグルグル回っているように思える。

ここに宗教も絡まってくると、なお複雑になる。

法事に手を合わせる程度の無宗教の私にとって、ひとつ強烈な体験があった。

数年前に隣の家が売れて、その家をユダヤ教の若い牧師夫婦が教会の事務所兼集会所として使い始めた。彼らと挨拶することもまったくなかったが、ある嵐の日に友人を見送りに外に出たとき、道路に転げ出たうちのゴミ箱を引っ張って敷地内に戻している牧師さんの姿を見かけ、お礼を言って、まだ一度も挨拶をしたことがなかったことを思い出し、自己紹介をした。

彼もニコニコしていて、私は彼の親切心に嬉しくなって、ハートが開き、自然に手を差し伸べていた。ただ自分の中から愛が溢れて、勝手に握手をする手が伸びていたという感じである。

すると、彼は急に表情をこわばらせて後ずさりし、「私は妻以外の女性には触れることはできない」というと、きびすを返してさっと家の中に入ってしまった。

唖然とした。握手をと手を差し伸べていた私は、自分が女性であることすら考えていなかった。ただ、人として、同じ人間として絆を感じただけのことだった。その後、自分が拒絶されたような気持ちにもなった。

「厳格な掟のある宗派によっては、女性は性的誘惑の対象と考えているんだよ。別にキミという人間が拒絶されたわけではない、彼は教えに従っているだけさ」と夫が教えてくれた。

「ハア~」気が抜けた感じになった。

それ以来、牧師さんは目を合わせることもしない。隣の家のバルコニーに出て、毎日決まった時間に神に祈りを捧げている牧師さんの姿を見るたび、私は悲しいようなむなしいような気持ちになる。

世界の飢餓、難民問題に深く関わっている犬養道子さんが、数年前にNHK「ゆく年くる年」で語っていた言葉を思い出す。

「難民キャンプでは、食糧もなく極限状態になります。飢えと寒さが押し寄せる中、難民、医師、私のようなボランティア・・・人種や宗教、職業、階級が異なる人たちが、ひとつの場所に身を寄せ合います。極限状態ですから、もうその日の命をつなぐことだけに必死です。スプーンいっぱいのヨーグルトをお湯で溶いて、少しでも多くの人に行き渡るように、ヨーグルトの味もなくなるくらいたくさんお湯を入れて、それを分け合って、みんな、こう、肩を寄せ合ってすするのです。ここでは、身分も階級も宗教も何の意味も持ちません。裸の状態になるのです。ただ人間なのです。みんな同じ人間なのです」というようなことを仰っていた。

この言葉と東日本大震災の被災者の方々が重なって見える。

今回の大震災で世界中の大勢の人々が日本に向けて祈り、支援の手を差し伸べている。大きな暗闇の中から出ずる光。人種も宗教も超えて人々の心がひとつになったとき、そこにはとてつもなく大きな愛がある。私たちはもともとそういう存在なのだということを再確認した。

「ただ単に、変形していたり弱いからといって、その生き物を傷つけてはいけない」というヘビの教えは、自分と他者を切り離してはいけないということに行き着く。

アメリカ中西部や南部でも今月に入って異常なほどに大きな竜巻が多発し、大きな被害が続出している。

同じ立場になったときに初めて見えてくる、人は皆同じということを、大災害を通さなければ学べないようにはなって欲しくない。

ここまで書いて、今日から私ができることはと考えた。私のハートは言う。
「今度隣の牧師さんに会った時には、自分から挨拶してみなさい」

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