2008年8月31日

草の根のように




シアトルでは2~3年前から「地元の農家をサポートしよう」という声が高まり、ファーマーズ・マーケット(青空市場)は最近すっかり定着してきた。給食に、地元でとれた野菜を取り入れる学校や病院も増えている。地産地消(地域でとれたものをその地域で消費すること)の考えが浸透しつつある。

集合住宅に住む私は、庭がないので、シアトル市が運営する「ピーパッチ・プログラム」と称するコミュニティガーデンで、9年ほど前から区画を借りて野菜を作っている。「1軒に1つのガーデンを」をモットーに、市内の土地を購入してオーガニックガーデンを拡大しているピーパッチ・プログラム。

このガーデンでは、希望する人が足りなかったり途中で放棄する人がいたりして、通常なら毎年空きの区画がたくさん出る。昨年も私の周りでは、草がぼうぼうに生えた空きの区画をあちらこちらに見た。ところが、今年は申込者が殺到し、1500人が順番待ちをしたそうだ。貸す側もびっくり仰天。こんなことは今までに聞いたことがない。

これは、ファーマーズ・マーケットで買うだけの立場から、自分で作る半自給自足への進展を裏付けるかのような現象である。

改革派が多いシアトルでは、このように面白いことが起こっている。さらに、そのシアトルの先を行くのが、サンフランシスコをはじめとする北カリフォルニア。ここは、いち早く新しいアイデアを実践する「変化の震源地」とでも言えようか。今日の地元の新聞で、興味深い記事を見つけた。

最近、農業に興味を持っている若者が増えているが、意欲はあっても土地を買う資金がない。そんな人のために、北カリフォルニアのチコでは、自分の庭や土地を提供する個人が出始めたということである。スペースを提供して、その代わりにできた野菜を毎週届けてもらう。

若者にとっても、経験もないのにいきなり規模の大きい土地から始めるのはリスクを伴うが、小さなスペースで始めるというのは絶好のチャンスかもしれない。仕事をすっかりやめて、農業に切り替える必要もない。芝生をはがして土を耕し、ブロッコリーやキャベツ、レタス、エンドウなどを育てる。私も畑をしてみてわかったが、スペースはそれほど大きくなくても、かなりの量の野菜がとれるものである。

アメリカの庭は広い。その広い庭に敷き詰められた緑の芝生を美しく維持するためには、頻繁に刈って雑草を抜き、肥料をやって水遣りをする必要がある。これは結構大変な作業。人によっては負担になる。畑にするというのは、持ち主にとってもスペースの有効利用ができ、買い物に行かなくても新鮮な野菜がタダで手に入るため、一挙両得と言えよう。

ホームステイがあるように、一般に他人を自分の家にステイさせることをいとわないアメリカ人にとっては、庭を他人に開放することは、それほど抵抗ないことかもしれない。新聞記事には、実際に、庭を提供している人の例として、不動産仲介業、退職者、学校の事務員、新聞配達など、さまざまな職業の人が挙げられていた。提供する人は、これからもっと増えるだろう。さらに、老夫婦や一人暮らしの老人などにとっては、若者と触れ合うことは、刺激と生きるハリになるかもしれない。

この動きは人々をつなげる。個人主義で人と人の関係が薄くなりつつある社会にあって、人々がつながり合うことで対話が生まれ、信頼関係ができる。そこからまた何かが始まるかもしれない。

複雑化し混沌とした社会の中で、よりよく生きるために、今何が必要なのだろうか。そう問いかけた時、返ってくる言葉が「地に足をつける」。

人はすべてのものを失っても、命をつなぐためには食べなければならない。食べることは、生きていく上で絶対必要なことで、最も基本的なこと。情報が溢れ、知識ばかりを重視し頭でっかちになっている今の社会で、食べることに向き合うことほど、地に足がついたことはない。

今日見つけたこの記事に書いてあったことは、土を耕して作物を作りたい者と、自分ではできないが、庭を有効に使って欲しいと思う者の気持ちがつながった素晴らしい例。どちらも足元を見つめたら、そこにあったこと。自分だけでは実現できないが、助け合うことで相乗効果が生まれる。お互いにとって良いこと、これこそがこれからの社会を元気にすることと言えよう。

上の例は草の根的な考え方である。草の根はどんどんと広がってゆく。平凡でそこらじゅうにあるが、逆境にも耐える力強い生命力を持っている草。そんな草は、一般大衆である私たち一人一人のこと。私たちが足元を固めてしっかりと根を張り、心を開いて行動すれば、人々がつながっていく。横へ横へとつながっていく。それは、やがて勢いを増して、社会を変える大きな力へと発展する。

力まなくてよい。本を読みあさる必要もない。足元に視線を落とし、この足、この手で今自分にできること、今ここから始められることに意識を引き戻すと、ずっと以前から目の前にあったのに、見えていなかったことに気づくものである。

単純で小さなことの中に隠れていた、よりよい生き方の大きなヒント。自分にできることは、根を下ろしたそのときから具体的に動き始める。

今日見つけた新聞記事は、そのことを気づかせてくれた。

<写真1: 近所のファーマーズ・マーケット>
<写真2: 私が区画を借りているピーパッチ・ガーデン。全部で200区画ほどある>
<写真3: 私の畑のブロッコリー>

2008年8月22日

未来が見える山



標高3954mのマウント・ロブソンは、カナディアンロッキーの最高峰。そそり立つ荒々しい岩肌が特徴のこの山は、ダイナミックで男性的な様相を呈している。

最初にこの山に出会ったのは、今から14年前の1994年の夏のこと。日本から両親が遊びに来たため、夫と4人でカナディアンロッキーの旅をした。カナディアンロッキーと言えば、バンフとジャスパーが有名であるが、ジャスパーよりもさらに北に車で1時間くらい走ったところで、いきなりこの山が視界に飛び込んでくる。

そのときのインパクトはあまりにも強く、今でもはっきり覚えている。私たち4人の目はこの山に釘付けになり、車の中が静まり返った。目も心も調節しないと入りきらないほどのスケールの大きさに、感動を通り越して、ただただ見上げるのみ。母は見た瞬間、鳥肌が立ったと後で教えてくれた。

マウント・ロブソンは州立公園なので、バンフやジャスパーのような街はなく、自然のみがあるという感じである。私たちは、そこから少し離れたスイス人が経営するレストラン付きのシャレー(山小屋)に泊まったが、そこで興味本位にバッファローの肉を食べた夜に体験した恐ろしい夢に、私はここは圧倒的に自然が支配している場所であるということを思い知らされた。先住民はまず創造主への感謝の儀式をして、それから食す。その感覚がわかると同時に、ここがいかにパワフルで、他とは違う場所であるかということに気づかされた。

マウント・ロブソンとの第1回目の出会いは、そのように特別な記憶を残した。

2回目に訪れたのは、それから6年後の2000年の夏。今度は夫と2人で来た。最初に来たときと同じシャレーに泊まり、州立公園の中で3時間ほどのハイキングをした。

そこはかなり波動の高い場所だった。頭のてっぺんがツンツン突き刺されるように痛く、歩いても歩いても疲れない。ハイキングをした日の夜は、普通なら心地よい疲労感に包まれるものだが、11時半近くまでソファに座って読書をしていても、一向に眠気が来ない。これからもう一度ハイキングをしても大丈夫なほど元気である。夫も、やはり同じように頭がすっきりはっきりしているようだった。

しかし、翌日の活動のことを考えると、眠くなくても寝なければならないと思い、床に就いた。隣に横たわった夫からはすぐに寝息が聞こえてきたが、私は何度も寝返りを打った。あせりさえ感じる中、1時、2時と時間だけが過ぎていく。

やっと眠れたと思ってもごく浅い眠りで、見る夢が異常なほどはっきりしていた。その夜はトイレ休憩(?)を挟んでつながった2つの夢を見たが、その内容は今でも最初から最後まで完全に覚えているほど強烈であった。

未来の情報を含んだ夢とでもいうべきか。

それは、地球がもうこれ以上住めない極限状態に来ており、人々がある場所に集まって新しいときへ移行する瞬間を待っている場面から始まる。その瞬間を境に、周りにいる人々の顔かたち、性別、私との関係が変わっていた。

ここで目が覚め、私は起きてトイレに行った。

その後、見た夢は先ほどの続きであった。アジア系の男性(小泉前首相のような顔!)として新しい肉体を持った私が、今の自分として新しい世界を見ていた。

ここでは人々は新しい物のやり方をしていた。「自然志向」、それがキーワードのようである。

具体的に3つの場面を見た。それはどれも瞬間的な場面だったが、十分な情報が入ってきた。

1つめの場面は車。一台の車を見ている。この車から有害な排気ガスは全く出ていない。この新しい世界では、空気を汚す車はなかった。

2つめの場面は食品の包装方法。プラスチック、ビニール類は使われていない。カウンターの向こうにいた店員は、量り売りのものであろうか、それを昔懐かしい黄緑色っぽい薄い紙で包んでいた。

3つめの場面は、人々の健康維持の方法のひとつ。この世界では、リラックスすることが健康な状態を保つ上で極めて重要なことを誰もが知っている。屋内のプールのような場所で、人々は泳ぐのではなく、水に浸かったり浮かんだりしている。それは、子供から大人まで、いつでも手軽に利用できる公共施設のようである。水は冷水ではなくやや暖かく、体によい成分を含んでいるようで、少し色が付いていた。無重力状態になって筋肉をリラックスさせるのであろうか。とにかく、そこは日常生活に密着しており、人々が頻繁に利用する場所のようであった。

2000年に見たこの夢の場面。その頃は、私のような何も知らないごく普通の人間にとっては、どれも現実味を帯びない内容であった。

しかし、8年後の今、車の代替燃料への取り組みがさかんになり、対策は具体化してきている。さらに研究開発が進み、社会の制度が改革され、空気を全く汚さない車を手軽に利用できるときが来ることは不可能ではない。

また、シアトル市では、来年1月からスーパーなどの店のレジ袋を有料化することになり、客に買い物袋の持参を奨励している。すでに袋を持参する人は増えているが、これはほんの第一歩。全分野において作る側、売る側、買う側のそれぞれの立場から、生じる結果に対してもっと意識を高めれば、2つめの場面を実現することも夢ではないだろう。

3つめの場面については、私には知識がないので何のことなのかわからない。しかし、リラックスの状態がもたらす恩恵は、今のところ過小評価されていることはわかる。

夢で見た未来の可能性。こうなるとかならないとか、そんなことはどうでもよい。ただ、人間の活動が、良くも悪しくも地球の状態に影響を与えることは事実である。

私たちは資源を使い放題にして、地球を荒らすだけの存在になるのか。それとも、地球の守り手として、すべての生き物にとってより良い場所に保つことのできる存在になるのか。私たちに与えられている智慧と創造力を、何にどのように使うのか。それは私たちが決めること、しかも責任をもって決めること。

人を寄せ付けないような荒々しい岩肌を持つ男性的なこの山の茶色と白のツートンカラーは、意外にも、生クリームがかかった甘いチョコレートケーキを思わせる。地殻変動で下から突き上げられ形成された茶色い岩に、空から降ってきた真っ白な雪が留まる。男性性と女性性、天と地が重なる場所。それぞれ相異なる要素が共存しているこの山は、天界からのエネルギーの中継となっている。

その山で見た夢は、私に希望を与えてくれた。私たちは意識をつなぎ合わせ、力を合わせ、より良い環境を作り出すことができる。そのチャンスを与えてもらっている。

未来が見える山。その山に一人一人がなれる。地に足をしっかりつけ、そびえ立つ山のごとくまっすぐに背筋を伸ばして天を仰ぐとき、何かが見えてくる。周りのすべてに意識を向け、現実的に冷静な目で見つめれば、足元から今この一歩をどう踏み出すかが見えてくる。

未来が見える山に訪れずとも、未来が見える山のような存在になるときに、人は今ここに生きていることの意味をしっかりと捉え、未来に限りない責任を持って行動できるようになる。


<写真: マウント・ロブソン>

2008年8月11日

パターンを変える夏


この夏、アメリカでは「ステイケーション」という言葉がお目見えし、日常の会話に浸透しつつある。

staycation、それは vacation をもじったもの。vacation は vacate = 立ち退く、空けるという意味の言葉から「休暇」という意味になったが、休暇=遠出の旅行は過去の話になりつつある。ガソリンの急騰で、車社会のアメリカ人は窮地に追い込まれている。この夏は家の周りに stay =とどまる形で休みを過ごす人々が、工夫を凝らしたステイケーションを自分たちなりに楽しもうとしている。

家族で遠く離れた祖父母や親戚を訪ねるついでに、国立公園などに寄ってバケーションを楽しむというのが、アメリカ人の典型的な夏休みの過ごし方のようである。大陸横断なんていうのも珍しくなかった。しかし、移動に飛行機か車を使うこの国で、ガソリンの価格が昨年の3倍以上ともなると、さすがに大半の人が足を引っ込めてしまう。

今年は子供をディズニーランドに連れて行く代わりに、プールや湖で泳いだり、近くの動物園へ行ったり、公園や家の庭で友達や近所の人を誘ってバーベキュー、などという人も多いだろう。町でも、あちこちでちょっとした催し物やお祭りがある。わざわざ遠くへ行かなくても、近場でも結構楽しめる。

先日、夢の中でこんな言葉を聞いた。

「パターンを変えてみる。人間は慣れていることに留まりがち、その方が楽だから」

確かに、同じパターンに従う方が楽である。私たちは必要に迫られない限り、自分からはなかなか変えようとしない。

遠いところや上ばかりを見て、お金を儲けることとか、成功すること、早く仕上げることばかりが頭にあり、時間やノルマに追われたストレスまみれの日々を送ってきた人々。そのストレスを発散させようと大金を使って遠出して、そこでまたストレスが溜まる。そういう悪循環の空回りも、そろそろ軌道修正する頃。

地球上で様々な問題が起こっている中、特に原油の高騰は、世界中でそれに依存する一般人の日常生活に直接影響を及ぼすからこそ、最もわかりやすく、またパワフルな形で、今までの考え方や生き方では続かないということを私たちに警告しているのではないだろうか。

その危機的状況によって、押し出されるように始まった新しい行動の数々。

アメリカでは、車庫でホコリをかぶっていた自転車を取り出して、また乗り始めた人々が急増しているという。不便でも、給料はそのままで物価だけが上がる状況の下、気軽に車に乗ってどこへでも行くということが難しくなってきた。残念ながら、この国では日本のように鉄道が発達していないため、かなりの制約がかかるが、町の中ならバスだって十分利用できる。バスで通勤できる範囲に引越しする人も出始めた。

交通手段を制限すると、以前より行動範囲は狭くなり、一日にできることは限られてくる。だからといって人は不幸になるかといえば、そんなことはない。充実した時間というのは、何をして過ごすかという物理的なことではなく、どう感じたかという心の状態で決まるのだから。

私は、最近よく歩くようになった。町の中に住んでいるので、スーパーや銀行、郵便局、レストランなど、ほとんど歩いて行ける範囲にある。週末には、夫と一緒にウォーキングを兼ねて15キロほど歩いて日系スーパーに行き、バスで帰ってくることもある。

歩いてみると、これが結構楽しい。車で通ると前しか見ていないため、気づかなかったことがいかに多いことか。歩いていると色々なことが目に入ってくる。「あっあんな所にお店があったんだ」「あそこの家の花、かわいいな~」「あれっ?ここは更地になっているけど、前は何があったっけ?」

いつも通っていた所なのに、今まで全く気づかなかった。そんなひとつひとつを見つけながら歩くと、初めて通るみたいに新鮮な気分になる。何回か通るうちに、今度は、歩く範囲にあるすべてに対して親近感を持つようになる。この感覚もまた楽しいものである。

休暇に遠出をやめて近場で楽しもうとする人々。日常で自転車やバスの利用に切り替え、歩き始めた人々。ハンドルを握ってアクセルを踏むだけで車がどこへでも運んでくれた生活から、実際に自分の足を動かす生活へ戻りつつある。それは、地に足をつけて生きることにも通じるか。

少し活動を緩めてみる、休めてみることで、時間にも心にも以前より余裕ができ、今まで見えなかったものが見えてくるものである。不便さの中から得ることもある。全く新しい角度から自分の生活を見直すことができ、もっと大事なものを見つけ出すことができるかもしれない。それに、私達には限りない想像力がある。工夫だってできる。

この危機的な状況の犠牲になる必要はない。車庫から出した自転車に積もっていたホコリをはらうように、自分の中で使わないで眠っていた直観力や洞察力に磨きをかけ、そこから創造力を働かせて工夫し、何か新しいものを見つける絶好のチャンスと捉えてみてはいかがだろうか。

2008年8月9日

虹の贈り物


雨もそしてその後の虹も

あまねく平等に降り注ぐ

空からの贈り物


それは愛のかたち

<本日2008年8月9日午後8時21分自宅のバルコニーから撮影。>

2008年8月7日

クモの出現

おとついの朝、居間で日課となっている体操と短い瞑想を終わって、さあ立ち上がろうと思ったとき、どこから来たのか、クモがまっすぐ私の方へ向かって走ってきて、ぴたりと私の前で止まった。そしてジーッと動かずにこちらを見ている。

2年ほど前から、夢や家の中でクモが印象に残る方法でしばしば現われるようになり、そのたびに特別なメッセージを運んできてくれることに気づき始めた。

おとついのクモは、新聞紙に乗せて外に出したが、やはりメッセージがあった。そのメッセージが今、具体的に言葉となった。

明日は2008年8月8日。何かが動こうとしている。そのことをクモが伝えに来てくれたのか。

通常、昆虫の足は6本であるが、クモは8本ある。クモの体は上から見ると8の形をしており、横から見ると無限大の記号 ∞ になる。

この2つのサークルは輪廻を表わし、∞ を指でなぞって繰り返していると独特なリズムになる。これは、ある種の宇宙のエネルギーとつながる。

過去に選んだことのために、自分の周りで今のことが起こっており、今選んだすべてのことは、未来へとつながる。過去と未来、物質世界と精神世界、男性性と女性性、上と下、裏と表、様々な二極、つまりこの ∞ の中で私たちは行き来し、その中心でバランスをとることを学ぶ。

クモは渦巻状の巣を張って自分の世界を創り、その中心に留まる。その複雑な巣を作るクモは創造を象徴し、私たちはそれぞれが自分の世界を編み出していることに気づかせてくれる。ひとりひとりが編み出す巣は、人類が編み出す巣に通じる。

私たちには限りない創造力がある。ところが、往々にして最初に慣れ親しんだものにしがみつく傾向にある。それでは自分の可能性を制限してしまうことになり、自分が出した粘着性のあるクモの糸に足を取られて、自縛状態になってしまうようなものである。それは即刻死につながるため、クモはそんなことはしない。

クモはその巣を壊されても、またすぐに作り直す。私たちだってそうである。失敗してもやり直せばよい。どこからでも始められる。

8月8日は調和の中で、新しく編み出していくときである。今選んだすべてのことを、新しい未来へとつなげるために。

何が起こっても、どんなことがあっても、私たちはどこからでもやり直せる、始められる。私たちひとりひとりに、限りない創造の力があることを忘れないで欲しい。

2008年8月3日

日々淡々と

スピリチュアル = 超能力が出てきて予言してみたり、言い当てたり、人の治療をしたりすることではない。

そういうことはドラマチックなので人々は注目し、そのような能力を持つ人を盲信して崇める傾向にあるが、人々は現象だけを見てそれに振り回され、その現象が生じる根源を見ていない。能力を見出した者は、根源に通じないでテクニックだけを使うようになると、それはただの見せかけになってしまう。

自分はスピリチュアルだとか、悟りを得たと触れ回る必要がなぜあるのか。それこそが幻想である。

スピリチュアルな生き方とは、本当はもっと地味で地に足が付いており、常に自分の中心にあり、そこから泉のように湧き出でる愛に従って、日々淡々と行動するだけのことである。

2008年8月2日

家は心の中に


世の中は移り変わり
いつの間にか殺伐としてしまった

闇の中を道に迷う人たち
細い道に入り込み
戻れなくなってしまった
どこで間違えたのか

家を飛び出してもう随分たつ
がむしゃらに走り続けて
かなりの距離を来てしまった

迷子になった子供の頃の
恐怖感が押し寄せる
もう二度と家に戻れないのか
泣き疲れてあきらめかける

夕日がそっと背中にささやく
あなたの家はあなたの心の中にあると

周りがどんなに変わってしまっても
変わらない心があると

あなたが帰って来るのをじっと待っている
変わらない心があると

帰ってきなさい
家へ帰ってきなさい

あなたにはわかるはず
あなたにはきっとわかるはず

穏やかでぬくもりのある感触
温かく安心できる
懐かしい風景が
静かにあなたを抱き寄せる

帰ってきなさい
ここへ帰ってきなさい

あなたを抱きしめようと
じっと待っている

あなたの家はあなたのその心
静寂という心の中にある