2007年11月29日

身土不二を実践する人々

森と湖に囲まれた自然豊かな街、シアトル。この街の人々は環境に敏感で、概してリベラルである。

地元の農家の人達が集まって、週に一度街のあちこちで野菜や果物を売るファーマーズマーケットは、人々の間にすっかり定着した。師走も押し迫った今でこそとれる作物は減る一方であるが、夏はマーケットに訪れる人で大賑わいである。毎年売るものの種類が増えて、私の家の近くのマーケットでは、野菜、果物のほかにナッツ、シーフード、卵、肉類、ジュース、パン、ジャム、パスタ、きのこ、蜂蜜、ハーブのソープなども仲間入りして、オーガニックのものや手作りのものが楽しめる。

売る側と買う側がふれあい、情報交換をして信頼関係を築く。買う側は地元の小規模農業をサポートし、売る側は新鮮で安全な食品を提供でき、お互いにとって楽しくエキサイティングで、しかもプラスになる方法である。

昨今、大手食品製造企業の拡大、原油の高騰、中国の食品安全基準の問題、環境破壊と汚染、地球温暖化などの問題が絡み合い、問題はさらに複雑化し深刻化している。中国の食品問題においては芋づる式にその実態が明らかになってきている。つい先日の新聞にも、アメリカのあるスーパーで売っている中国産のしょうがを検査したところ、中国政府が禁止している農薬が使われていることがわかったという記事が載っていた。それも人体に危険なレベルだったという。恐ろしい・・・。

もうこれ以上、このまま進んではいけない。体にも環境にもよい生き方がしたい、そして、地元の農家をサポートしたい、そう思う人達が行動に移り始めた。ここシアトルでは、半径100マイル(約160キロ)の範囲で、手に入るものだけを食べることに決めて実践し始めた人が増えているという。

半径100マイルというと、北はバンクーバー、南はオレゴン、東は太平洋沿岸の一部、西はワシントン州の中央部までとなる。実際、この範囲でとれるものしか食さないとなると、かなりキツイ状態になる。バナナやトロピカルフルーツは当然アウト、特定の野菜やシーフード、砂糖、コーヒーなどの嗜好品もアウト。スーパーで買う食品の種類が限られてくる、というよりも、こうなると自家菜園で半自給自足の生活をすることになるのではないか。おやつも自分で作り、野菜がとれない冬に向けて保存食を蓄えておかなければならない。

しかし、待てよ。これはどこかで聞いたような生活。そう、昔の日本の生活だ。今でも、田舎ではそのような暮らしが続いている所もあるだろう。野菜を作り果物の木があって、近海の魚を食べて、漬物や味噌、醤油を作っていた。要するに身土不二。その土地でとれたものを食する。基本的にそういうことだ。昔は農薬も化学肥料もなかったから有機栽培で、食品には添加物も入っていなかった。まさにマクロビオティックの世界である。

私たちは突きつめればエネルギーであり、食品というエネルギーを取り入れて体を維持している。エネルギーは波動で、土地にはその土地の波動がある。自分が住んでいる土地でとれたものを食することは、その土地の波動と共鳴し、バランスをとることである。

シアトルは緯度が高く気候的には寒帯に入るため、冬にチリでとれたブドウやハワイのパイナップルを食べていると体が冷えて、寒くて寒くて仕方がない。そんなものはこの時期ここでは育たないので、食べないのが自然である。しかし、レストランのバイキング料理などはめちゃくちゃだ。先日、インドレストランのバイキングに行ったところ、スイカが並んでいた。スイカは汗をかく暑い夏に食べるもの。気温5度の11月には必要ないでしょう。

私の畑では、まだなんとか大根がとれる。もうすぐ土が凍るので大根も終わるが、気温5~6度の土地で体を温める根菜を食べることは、理にかなっている。おせち料理の野菜には、根菜の煮物が多い。冬は根菜で体の中から暖めるのが、自然と調和した過ごし方であろう。

地元でとれるものを食べていたら、自然のリズムからはずれることはない。しかし、一口に地元のものといっても、それがどのように作られたかによって結果は異なる。ある調査によると、地元ワシントン州西部で化学肥料や農薬を使った野菜と、カリフォルニアから輸送されてきたオーガニックの野菜とを比べたら、環境の立場からはカリフォルニア産のオーガニック野菜の方がよいという。化学肥料や農薬を作るために化石燃料を消費し、大量の二酸化炭素が発生するからである。結果的に健康と環境に一番よいのは、オーガニック自家菜園と、地元で作ったオーガニックのものを徒歩で買いに行くことであるという。そのため、ファーマーズマーケットに歩いて野菜を買いに行くのは理想的である。

半径100マイルを実践する人は、必然的に身土不二の生活になる。自然のエネルギー、土地のエネルギーと調和して季節の循環の中で生きる。このとき、体も心もバランスがとれたものとなってくるだろう。

そして、体と心のバランスがとれるに従って、地球に起こっていることに敏感になってくるであろう。大手食品製造企業の拡大、原油の高騰、中国の食品安全基準の問題、環境破壊と汚染、地球温暖化、こういった問題を解決する糸口は、化学薬品がなかった昔ながらの身土不二の実践にあるかもしれない。身土不二を取り入れてバランスを取り戻すことで、自然に還る大きな一歩を踏み出せる。

2007年11月18日

平和な心

平和は、日だまりの中にいるように暖かい
暖かいから、凍えた心を溶かしてくれる

平和は、春のそよ風のように優しい
優しいから、とがった心を滑らかにしてくれる

平和は、丘の上の大木のように安定している
安定しているから、ぐらぐら揺れる心をつなぎとめてくれる

平和は、秋の昼下がりのように穏やかである
穏やかだから、波立つ心をなだめてくれる

平和は、赤ん坊の笑顔のように満ち足りている
満ち足りているから、貪る心を豊かにしてくれる

心が平和であれば、思考にも行動にも余裕ができ
欲することもなく、小さなことひとつひとつに感謝でき
限りない喜びを感じることができる

心が平和であれば、どんな相手であろうと許すことができ
すべてを受け入れて包み込み
愛を注ぐことができる

心が平和であれば、自分を愛することができる

平和は外に探すものではなく、自分の中に見つけるもの
自分の中でバランスをとり、穏やかな心でいること
平和は常にあなたの心の中にある

平和な心でいることは、「静」の状態でありながら
同時に「動」の力を持つこと

湖面に一滴のしずくが落ちて波紋が広がるように
静かに人の意識の中に広がっていく

平和な心はゆるぎないすべての中心
静かでありながら、岩をも動かす大きな力を秘めている

平和はあなたそのもの
平和の滴になったとき、静かに、しかし確実に
平和の波紋が広がる

闇の中の光

闇に光をともす
あなた自身が闇の中の一条の光になるのです

この世には、想像を絶するほど残酷なこと、悲しいことがあまりにも多い
癒そうと思っても、癒すすべもないほどの深い心の傷
人間が繰り返す過ち

それは、家族から始まり、やがて国家へと広がる

崩壊した家族はさまざまな悪影響を及ぼし
世代を超えて繰り返し広がっていく

これを永遠に続けるか、それとも断ち切るか
それはあなた次第である

恨み続けるか、それとも許すか
憎み続けるか、それとも愛するか

そして、とりわけあなたは自分自身を愛することができるか

実は、これは他人を愛するよりも難しいことである
自分を愛する、自分を大切にする
これが最初の一歩であり、すべての根源となる
なぜなら、自分を愛することは、他人を愛することにつながるからである

困難な状況を選んで生まれてきたあなたは、勇敢な魂である
そんなあなたの前に超えられないハードルは置かれない

そのことを忘れないように

そして、それを超えるか超えないかは、あなた自身が選ぶことである
他人があなたのために超えてくれることはない

しかし、常にあなたの周りにはあなたを助けてくれる存在がたくさんいる
それは人であり、状況であり、他の魂である

ただ、あなたが意思表示をしなければ、それはやって来ない
だから、望むことを明確にして希望を託す、祈ることが大切である

祈りは必ず届く
問いかけは答えられる

そして、やがて気づくであろう
答えは結果や達成ではなく、過程であったことに

そこに生きるという意味があり、魂の成長があるのである

あなたは闇の中に光をともすことができる
そのために生まれてきたのである

だから、勇気を持ってあなた自身の光を照らして欲しい


(7/19/04メッセージ)

2007年11月11日

根底から揺るがす石


4年ほど前、シアトルのウォーターフロントのマーケットでアーティストが売っている、直径2.5センチほどの卵型をしたラピスラズリのペンダントを買った。古代エジプトで愛され、「神につながる石」とも言われたラピスラズリは、なるほど瑠璃色の空に金色の星屑を散りばめた、まさに天空を思わせる石である。

そもそもこのペンダントを手に入れるきっかけとなったのは、友人の紹介で会ったチャネラーであった。私は、そのチャネラーに会うまでは、母からもらったルビーの指輪をしていたが、このルビーと合わせて青い石を身に付けるとパワーアップすると、チャネリングのときに言われた。パワーアップ・・・誰でも飛びつきそうな言葉だ。その頃の私は邪悪なものから身を守ることに気をかけていたので、この言葉を聞くなり、青い石を持つことでガイドとのつながりが強くなって、より効果的に厄除けできるだろうと考えた。

さて、石選びの段階で、青い石というと、涼しげにきらきら光る透明なブルーのブルートパーズがまず頭に浮かんだが、一度夢で私にはブルートパーズはよくないと言われていたので(どういう意味かわからないが)、好きだけれどあきらめた。それで、その他に青い石というと、ラピスラズリくらいしか思いつかなかった。深い青で、どちらかと言うと重い感じのラピス。私のガイドは古代エジプトの神で、私の今生は古代エジプト時代の前世が大きく影響しているので、やはりラピスに行き着くことになっていたのか・・・。思いつくままに足を運び、すぐにこのペンダントに出会った (写真: クリスタルの上に置いたペンダント。フラッシュの仕業で薄くなってしまったが、実物はもっと濃い色)。

ラピスの中でも特に色が濃く、形は丸でも三角でも四角でもない卵型。なぜか子供の頃から卵型が好きだったので、このペンダントを見た瞬間、これだと思った。案の定、手に持つと、強いエネルギーが流れてきた。

さっそくこれを買って家に帰ってまず浄化し、迎え入れの言葉をかけて、2~3日枕元において一緒に寝てから身に付けた。そして、チャネラーが「パワーアップ」と言ったので、どこへ行くにもこれを付けて、もうこれで完璧に守られている、大丈夫だと思っていた。

ところが、この石は、私にとって実はそういう意味でのパワーアップをもたらすものではなかった。思いがけない出来事を引き起こし、私の価値観を根底から揺るがす石だったのである。そのことに気づくようになったのは、そのような思いがけないことが2回ほど起こった後であった。中でも、この出来事は忘れられない。

それは、ある春の日のよく晴れた土曜日だった。家にいるのはもったいないので、私は夫と家からダウンタウンまで10キロほどのウォーキングをすることにした。ダウンタウンまで今まで何度も歩いたことがあるが、地元の人も観光客も訪れる「パイクプレイス・マーケット」と呼ばれる市場を目的地にして、到着してからそこで軽食をとったりお茶を飲んだり、ぶらぶらお店を見たりして楽しむのがパターンであった。

目的地まで止まらずに歩いて1時間半くらいかかる本格的なウォーキングなので、私たちはいつもただ歩くための服装をした。夫はTシャツにショーツ、スニーカーという格好で、私も動きやすく汗をかいてもよいように、上は洗いざらしのTシャツにデニムの長袖シャツ、下はスエットパンツにスニーカー、腰にはウェストバッグを付け、手ぶらで歩けるようにした。そんな格好だったが、途中邪悪なエネルギーが漂う場所を通るといけないと思い、ルビーの指輪とあのラピスのネックレスだけはきちんと付けた。前にも言ったが、私は霊媒体質なので、変なものを拾いたくないのである。

さて、ダウンタウンに入り、目的地まであと2ブロックくらいに差しかかったところ、夫が後ろについて歩いている私の方を振り返り、いきなり「コンサートに行こうか」と言った。前方にベナロヤホールが見えていた。

「えっ?!!」私は耳を疑った。ベナロヤホールはニューヨークのカーネギーホールとまでは行かないが、クラシックミュージックの殿堂である。最近ではフジコ・ヘミングがそこで演奏をした。そんじょそこらの名も無いバンドが演奏するコンサートホールではないのだ。

呆然と立ち尽くしている私をよそに、夫はホールの前まで行ってスケジュールをチェックし、「あ~あと10分で始まる!」と言って、チケットを買いに急いでひとりで中へ入って行った。「ちょっ、ちょっと待った!冗談でしょう?パイクプレイスに行くんではなかったの?」

決めたら早い、夫はもうチケットを買っていた。「うそぉ、シアトル交響楽団?この格好で?!」すっとんきょうな声をあげた私に、夫はフンと鼻で笑い「Who cares (そんなこと誰も気にしないさ)!」と言って、チケットを受け取ると、さっさと廊下を歩き始めた。「ちょっ、ちょっと待って!私こんな格好でイヤ~!!」私はわめいたが、夫は皮肉な表情を浮かべて「But it’s NOT illegal (でも、違法ではない)」とのたまった。「い、いほうではないなんて、普通そんな考え方するか~!」

ホールへ急ぐ夫の後を追いかけながら、私は憤慨していた。普通女性だったらコンサートには、思い切りおしゃれをして行きたいと思うではないか。それも初めてのベナロヤホール。「黒かワインレッドのベルベットのドレスに真珠のイヤリングとネックレス、そしておしゃれなハイヒール。そうやって贅沢な気分でゆったりと音楽を楽しむ、それが普通でしょう。なのにTシャツにスニーカー!勘弁してよ!!」悪夢を見ているようで、頭がクラクラしてきた。

長い廊下を走らされて入口に到着すると、係員はニッコリと微笑んで私たちを迎え入れてくれた。「違法ではないから」という夫の言葉が頭に響いた。「違法ではないから係員も入場拒否はできないのか・・・、それとも私たちを飛び込みの観光客と思ったか・・・」そんなことを考えながら会場に滑り込むように入ると、すぐに後ろでドアが閉まった。私たちが最後の客であった。

既に席についている周りの人達の私たちに向ける視線が背中に顔に突き刺さり、私は恥ずかしくて屈辱を感じずにはいられなかった。場違いな所にいる、そう思うと体がこわばって自分が小さく感じた。すぐに演奏が始まったが、座っていても全然落ち着けず、首をすくめて周りを見回してみた。みんなとてもおしゃれな格好をして、リッチな感じがする。女性は黒やワインレッドのドレスにゴールドのアクセサリー、男性は素敵なスーツ姿、なのに私はTシャツにスエットパンツ。「なんで私はこんな格好でここにいなけりゃならないの!」

隣に座っている夫を見ると、彼はTシャツに半パン姿で足を開いて背もたれに寄りかかり、目を閉じてどっぷりと音楽に浸っているではないか。それを見て、はらわたが煮えくり返るような思いがした。私のエゴがわめいていた。「なんでこんな目に遭わせるの!!こんなのイヤーッひどすぎる!」

否定的な考えで頭がいっぱいになり、心地よいはずの音楽もただの雑音と化してしまった。そんな状態が40分ほど続いただろうか。すると突然、自分の右上の方で声がした。

「それは、そんなに重大なこと?そんなことより、もっと大切なことがあるじゃないか」

それは私のハイヤーセルフだったのだろうか。男性のような声でもあった。とても穏やかですべてを悟った声であった。その声に私はハッとした。そして、私の脳に直接入ってきたその言葉を、なぜだかわからないが心の中で繰り返していた。「もっと大切なこと・・・もっと大切なこと・・・」

そのとたん、ポンという音が聞こえ、何かがはじけたように、開いてすべてが見えた。

まるで目の前のフィルタが取れたように、一瞬のうちに、私はそれまで見ていたものとまるで違う世界にいた。そこにいる人々のおしゃれな服が透明になり、私はその下にあるものを見ていた。そう、みんな裸であった。考えてみれば、人は皆生まれてくるときは裸である。私たちは皆、本質的に同じなのだ。オーケストラは音楽を通して生命の喜びを表現し、観客はその喜びを受け取り、音という形で体験していた。それ以上のことでもなく、それ以下のことでもなく、ただそれだけのことであった。そして、私たちはこの空気、この空間、この時間、この音楽を共有していた。私たちはすべて同じ、同じでつながっているのだ。

そう思ったとたん、私は音楽とひとつになり、観客とひとつになっていた。同時に、私自身がコンサートホールいっぱいに広がって、溶けていった。ホールの壁にも天井にも床にも、私がいた。

すると、先ほどの怒りと不快感は一瞬のうちに消え去り、たとえようもない喜びと感謝で胸がいっぱいになっていた。そう、あの憎らしい夫にまで。隣に座っていた夫は、私に学ぶ機会をくれたのだ、私はこれを体験するために今日ここに来たのだ、そう思うと感謝の熱い思いがこみ上げてきた。

怒りでいっぱいの世界と喜びと感謝に満たされた世界。同じところから全く異なる現実が生まれる。私の周りは何ひとつ変化していない、ただ私の見方が変わっただけである。それはそこに薄いフィルターがあるかないかだけの違いであるのに、天国と地獄の差を創りあげてしまうのである。エゴというフィルターが創る現実。

ラピスの石は神につながる石。その石を身に付けると、根底から揺るがされる。エゴを捨てよ、本質を見ろ、というメッセージだったのだ。揺すられて心に覆いかぶさっているエゴの厚いほこりが振り落とされると、そこに真の心が現われる。それは神の意識へ通じる扉。首にぶらさがったラピスの石が、神の意識への扉を少し開けてくれたのだ。

2007年11月4日

環境の蘇生

環境を保護することは非常に重要なことであるが、それと同時に、環境を積極的に蘇生することがこれからもっと重要になるであろう。

「蒔いた種は刈り取らなければならない」と言うが、私たち人間が汚せるだけ汚してきた地球環境のその本来の力を今呼び戻すことは、私たちの責任である。

これ以上破壊しないこと、汚さないことと並行して、環境を浄化し蘇生する有用微生物群 EM (Effective Microorganisms:1982年に琉球大学農学部教授比嘉照夫が、農業分野での土壌改良用として開発した微生物資材の名称)の積極的な活用が助けとなるだろう。EMは自然界に存在する有用な微生物(善玉菌)だけを集めた液状の微生物資材で、強い浄菌力があり、有害な微生物の繁殖や有機物の急激な腐敗分解を抑制し汚染物質を分解する力があるため、環境問題の解決にとって重要な役目を果たしている。

原油価格が急騰し、それに対応するために単に生産枠を拡大するという措置は、あまりにも近視眼的ではないか。資源には限りがある。現在の状況は宇宙からの警告であり、私たちはこれに耳を傾け、根本に立ち返り考える必要がある。

経済優先、消費社会の行く末は崩壊なのか。国際問題、社会問題、環境問題、その他様々な問題が急速に深刻化している。私たちにはもう時間がないのである。

一部のものが他のものを支配し利益を得るという考え方が、この社会に充満している。環境においても、人間が自然を支配できるという錯覚のもとに技術だけに偏り、頭でっかちになって人間本来の意味を失い、私たちが住む地球を非常に危険な状態にまで追い詰めてしまった。

私たちは「蒔いた種は刈り取らなければならない」という厳しい現実を突きつけられている。刈り取るのは非常に辛く痛みの伴う作業である。しかし、もうそれをやるしかない時に来ている。しかも、正しい方法で刈り取らなければ致命的な結果になる。

これからは、「目先の、株主の、自分だけの利益を得る」のではなく「打ち勝つ」のでもなく、「みんなにとって、地球にとってよいものや状況」を常に頭に置いたうえで、何をするのかを選択する必要がある。

*2年前に書いたこの文章を今日たまたま目にした。先ごろ環境破壊のことは毎日の様に話題になっており、「またか」とうんざりする人もいるかもしれない。しかし、宇宙からのメッセージは、「しつこくてもよい、何度も何度も言い続けなければ人は動かない」と来ている。

2007年11月2日

大木



大木のようになりたい

宇宙の一部としてただそこに存在する
時を重ね静かにたたずみ、すべてを見守っている
地に深くしっかりと根を張り、天へ天へと伸びる

春には芽吹き花を咲かせ、新しい生命の誕生を謳歌する
鳥や虫は糧を求めて集い、人々は花を愛で、その木の下に集う

夏には葉を大きく広げ、さんさんと輝く太陽の光を謳歌する
鳥たちはひなを育て、人々は木陰に涼を求め、その木の下に集う

秋には多くの命に糧を与え、豊かな実りを謳歌する
人々は新しい生命を秘めたその甘い果実を求め、その木の下に集う

冬には休息し、内なる力を謳歌する
新しい生命のために古い生命を捨てる
人々は燃して暖を取る枯葉や枝を求め、その木の下に集う

雨の日も風の日も日照りの日も雪の日も
ただそこに静かにたたずむ

大風に身を任せ、雪の重みに耐え、またそこから新しい生命が出ずる
地球にしっかりと根を張り、宇宙に向かって伸びる

春夏秋冬、生命の営みを繰り返し、着実に成長していく

幹は上へ上へと伸び、地と天をつなぎ
枝は横へ横へと伸び、地上の生命をつなぐ

物質世界と精神世界をつなぐのが幹だとすれば
枝は世界の人々をひとつにつなぐものである

そして魂たちが助け合い、共に成長していく

一本の木全体が宇宙だとすれば、
その葉一枚一枚は私たち一人一人である

葉はどれをとっても皆どこか違う、全く同じものはない
私たちは一人一人が唯一の存在で違っていて当然なのである

それでいて、葉の一枚一枚は小さな枝に属し、
枝の一本一本はより大きな枝に属し、
全体として一本の木に属している

それが宇宙の姿である

宇宙という大きなサイクルの中で無数の生命を育む木
その木が命を終えるとき、静かに朽ちる

そのときでさえ、多くの生命に糧を与え、最後には自分の姿は残さない

他を害することはあり得ず
絶え間なく与え続ける木

与え、与え、与え続ける
それがごく自然な姿であり、それを通してのみ成長はある

少しでも木のような生き方がしたい

すべてを受け入れ調和を保ち、しなやかに、それでいて力強くそこにたたずむ
宇宙と歩調を合わせ、年輪を重ね成長していく
地にしっかりと足を付け、着実に進んでいく

物質やエゴに流されず、空を仰ぎ魂の声に耳を傾ける
そして、枝葉を広げ人々の役に立ち自己実現をしていく
そこに真の喜びを見つけるとき、またひとつ成長できる

最後にこの世を去るときは裸で去る

大木のように生きたい
大木のようになりたい
大木のような存在になりたい

2007年11月1日

死んだことを知らない人々(4)

夢の中で死んだ人に出会うという体験は、一定の期間に集中していた。それは「People Who Don’t Know They Are Dead (死んだことを知らない人々)」という本を読んでいる間に起こり、また体験の内容も、読んで知った内容とほぼ並行しているようであった。

今まで出会ったのは普通の人たちで、経験のほとんどない私が出会うにふさわしい人たちだったのかもしれない。しかし、世の中には色々な人がいて、中にはタチの悪いヤツもいる。さまよう魂の中には、怒りや悪意などのネガティブな感情を持ったものもいる。

次には、そのような魂に出会った。

私の寝室の窓の向こうは、少し離れて隣の家のバルコニーであるが、このバルコニーは迷惑の種であった。隣に住んでいる学生連中がパーティをして夜中に涼みがてらバルコニーに出て来ておしゃべりを始めると、バルコニーはうちの寝室の窓よりかなり低い位置にあるので、窓が閉まっていても音が上に上がってきて、まるで耳元で話されているようでうるさい。特に、去年までは夏になると幾度となくパーティが開かれ、その都度夫が苦情を言いに行っていた。しかし、夏が過ぎると新しい人たちが入り、パーティをしないのか、しても部屋の中で済ますのか、とにかく騒音問題は解決した。やっとこれからは静かに眠れる。

と思ったのもつかの間。ある雨降りの秋の日の午前2時ごろ、寝ていたら隣のバルコニーで材木をかなづちでトントン叩いて、大工仕事か何かをしている音が聞こえてきた。この音で、寝ているのに起きた状態になってしまった私の目に、精を出して作業をしている男性の姿が一瞬よぎった。「うるさいな」と思った瞬間、それが言葉になって出ていた。どうも、このモードに切り替わると、思ったことがすぐ実行されている。

「ちょっとあんた、何時だと思ってるの。今は夜中で、生きている人間が寝ている時間でしょ。静かにしてよ!!」
自分の口調に自分でも驚いた。いつもは穏やかな(?)私が怒っている。「え~?、こんな強い調子で言っていいのかな~」と、もうひとりの自分が面食らっていた。

すぐにかなづちの音が止まったかと思うと、ブーンと虫が飛ぶような音が聞こえてきて、次の瞬間、その魂は仰向けに寝ている私の左ひじの辺りに来た。窓は右側だが、一瞬のうちに入って来てそこにいたのだ。

その人は怒っていた。「うるさいのはお前だ!俺のやることに邪魔するな!」と。「人」といっても人の形はしておらず、怒ったエネルギーの塊であった。横から見ると平たいディスク状のもので、周りにまるでのこぎりのようなギザギザの歯が付いているように感じる。上から見ると台風や竜巻のような渦巻き状の形をしているようだ。それがブンブン言って、渦巻きながら私のひじの辺りに近づいてきた。

すべてのものは波動のエネルギーで構成され、固有の速さで振動している。人間も霊性が高くなると波動が高くなり、振動が細かくなるということをご存知の方も多いだろう。

しかし、この魂は怒りというネガティブなエネルギーに包まれていて、振動が低くて荒い。そのため、ブーンとにぶく荒い音が聞こえる。エネルギー自体強く、荒い丸のこぎりの様なものがひじの辺りに当たってくる感触であった。

直感的に、この渦巻きが腕を超えて腹部や胸部に至ると危ないと感じたので、私は慌ててガイドを呼んで、自分の周りにプロテクトする白い光をイメージしたら、相手はそれに押されたように、スッと退散した。

今まで出会った魂たちとは異なり、「触らぬ魂にたたりなし」という感じで、光に導くなど余計なことはしない方がよいタイプであったようだ。悪意を持っているとまではいかなかったが、ネガティブなエネルギーであった。そういうのには気をつけた方がよい。よい勉強になった。

これで、集中的な体験はひとまず終わった。しかし、これは実はある出来事の予行演習みたいなものであったと、後になって知ることになる。それについては、もっと後でお話しすることにしよう。次は全く違う話題に変えようと思う。

おわり