2007年10月31日

死んだことを知らない人々(3)

マコト君の次は、沖縄で戦死した女性だった。この女性が現われたのは、私が11月に日本へ帰郷することになっており、その際に一緒に沖縄旅行をしないかと両親から誘われていた、ちょうどそのときであった。

11月のシアトルは、一日中低くどんよりとした灰色の雲がかかっていて、朝からすでに夕方のような暗さの毎日。それがそのまま明るくならず夕方になって、そして夜がやってくる。しかも小雨が降っていて日中でも5~6度の気温。それに比べ、沖縄は常夏の島。エメラルドグリーンの海に白い砂浜が待っている。まぶしい太陽の光を浴びて半袖で歩けるなんて夢みたい。費用は両親が負担してくれるというので、ラッキーとばかりにこの話に飛びついた。

が、「沖縄」と考えたときに、多くの人が戦争の犠牲になった場所であることを思い出した。私は霊媒体質なので、たくさんの人が亡くなっている場所へはあまり行きたくない。

そんなことを思ったからであろうか。その夜の夢で突然モードが切り替わり、戦火の中で倒れ込んでもだえ苦しむ30代の女性が現われた。紺色のもんぺのようなものを着ていて、汗と汚れにまみれた顔は火にあおられて赤くなり、迫り来る炎の中で動きがとれず、次第に弱って焼け死んでいく女性。苦しくて苦しくて、手を伸ばして助けを求めている。

粘着性のあるものがしがみついてくるという感じで、とても気持ちが悪くなる光景である。こちらもその場にいる様に苦しみが伝わってきて、炎の熱さを肌で感じる。逃げ出したい気持ちだったが、私は踏ん張ってこう言っていた。
「大丈夫ですよ、大丈夫、今に楽になるから、楽になるから。周りを見回して下さい。誰が迎えに来ていますか?・・・楽になりますよ、光の方へ進めますよ。誰か見えますか?」

女性は、この間も息ができずあえぎ苦しんでいたが、次の瞬間、パッと顔が明るくなった。先に亡くなったのだろうか、軍服を着た夫が迎えに来ていた。その夫を見た瞬間、彼女は大きな安堵感に包まれ、夫の腕の中に倒れ込んだ。ここでやっと苦しみから解放された。先ほどまでもだえ苦しんでいた顔が、一瞬のうちに安らかになった。救われたのだ。

私のこの体験は去年のことであったが、戦後60年以上たったそのときまで、この女性はずっとその時間と空間に閉じ込められたいたのだ。そんな長い間炎の中で苦しみ続けたとは、ほんとうに気の毒なことである。

「よかったですね。苦しみのない世界で、これからはご主人と楽しんでください」目が覚めたとき、私はそう心の中でつぶやいていた。

2007年10月30日

死んだことを知らない人々(2)

マコト君は突然現われた。寝ている私の服を触ったりしてゴソゴソしている人の気配に気づいた私の口からは(物理的な口を使わず、思うことで会話をする)、この質問が飛び出していた。
“Who are you? What’s your name?(あなたは誰ですか、名前は?)”

「ミ・タ・カ・マ・コ・ト」
白っぽいもやがかかった空間の中で、薄いカーテンを隔てた向こう側から聞こえてくるような抑揚のない単調な6つの音を拾い取って、これは日本人の名前だなと私は考えた。次の瞬間、若い男の子だとわかった。好奇心旺盛な十代後半といったところだろうか。顔は見えないが、白いシャツに黒っぽい皮のシャンパーを着ている。

「自分が死んだこと知ってる?」
例によって、私はいきなりまたこの質問をしていた。今度は日本語で・・・。

そう聞かれると、彼はびっくりして体をすくめて後ろへ飛びのいた。「死んだ」という言葉が明らかにショックだったようであわて始めたので、私は彼を安心させようと、こう言った。
「大丈夫、大丈夫、落ち着いて。周りを見てごらん。光が差しているところが見えるかな?そっちの方を見てみて。」
彼は、不安そうにおびえて周りを見ているようだ。
「君を迎えに来てくれている人がいるはずだから。必ず誰か迎えに来てくれているから。誰かいるか見える?よ~く見てみて」

すると、しばらくして彼が小さな声で言った。
「あっ見える、向こうに誰かいる・・・」
「じゃあ、その人をよく見てみて。何が見える?その人の方へ行けるかな?」
私にも、遠くに白いもやもやとした光が差しているのが見えた。
「・・・・う~ん・・・何か自転車に乗った人が見えてきた・・・・・あっ!友達!!!」
と叫ぶやいなや、彼は大喜びで一目散にその友達の所へ飛んで行ってしまった。「ありがとう」も言わずに。お礼も言わずに行ってしまうなんて、何とも若い人らしい。

彼はバイクか何かに乗っていたところ、交通事故に遭って即死したようである。特に即死した人は瞬間に魂が体から離れてしまうが、意識は体の中にあったときと同じなので、死んだということに気づかないことが多いという。その事故が起こったのは、まだ最近のことなのだろうか。彼には、先回出会った人のような暗さはなく、色々さまよって遊んでいたような感じが伝わってきた。

「People Who Don’t Know They Are Dead (死んだことを知らない人々)」という本によると、死んだとき、通常誰かが迎えに来るという。既に亡くなっている親や兄弟、親戚、友達、ガイドなど、特に自分と強い関係にあった魂が迎えに来るはずだという。また、見回しても何も見えないときは、既に亡くなっている人で自分が会いたいと思う人を心に描いて、その人を呼んでみるとよいともあった。今回実際にやってみたら、本当に本に書いてあった通りになったので、自分でもびっくりした。

そして、私は、彼が光の元へ行けたという嬉しさと暖かい気持ちですっきり目が覚め、この日は一日中気持ちがよかった。それにしても、友達を見たときの彼の嬉しそうな様子。死んだ人も生きている人も同じなんだなぁとしみじみ思った。

よかったね、マコト君!

2007年10月28日

死んだことを知らない人々(1)

家々の戸口や窓のサンに明るいオレンジ色のパンプキンが並び、あと数日でハロウィーン。
10月31日のハロウィーンは、古代ケルト人にとって新年の冬の季節の始まりを祝うときで、この時期には、この世と霊界との間の境界が最も薄くなるときと信じられていたそうだ。

ハロウィーンにちなんで、私の霊体験を4回に分けてお話しよう。

あるとき、夢の中で急にプツっとモードが切り替わり (ちょうどテレビのチャンネルが変わるように)、薄暗い中で、隅っこの柱の前にひとりのアメリカ人の白人男性が、元気のない様子で首をうなだれて立っていた。

このとき私は夢を見ているというよりも、夢の中にいたという方が正しいだろう。というのは、起きているときと同じような感覚で自分が状況をコントロールできる立場にいたからである。ただ興味深いことに、起きているときだったら怖気づいてしまう状況でも、夢の中に入り込んでいるときには、恐怖心がなく大胆に行動をしている自分がいた。

このときもそうであった。私はこの男性にすぐに声をかけていた、それも英語で。
"Hello!"
すると、この男性は、私が彼に気づいたことに一瞬驚いたようで、その後パッと明るい表情になり、嬉しそうに近寄ってきて元気よく握手をした。背が高くてなかなかハンサムな人である。何かにとても喜んでいるようで、興奮気味であった。

さて、私は、実はあるときを境にこの手の夢を見るようになった。
それは、「People Who Don’t Know They Are Dead (死んだことを知らない人々)」という本を読み始めた頃に一致する。この本とは不思議な縁でつながっていたようで、それについては後日触れる。

この本を読んで知ったことは、死んだことを知らずにある一定の時間と空間に閉じ込められている魂がいるということだ。そういう魂はできる人が声をかけてあげて、成仏させてあげる必要があるという。そのようなことを読んだ矢先に、この男性が夢に現われたのである。

私は、あたかも実践トレーニング第一目のごとく、「習ったせりふ」で彼に元気よく声をかけていた。
”Do you know that you are dead? (あなた、死んだってこと知ってます?)”
彼は声は出さなかったが、私には彼の考えていることが伝わってきた。彼は、周りの人が素通りして彼の存在に気づかないことに落ち込んでいた。どうしても気づいてもらえないので、半ばあきらめたようにじっと暗く隅っこで立っていたのである。彼自身、どうしてよいかわからないようだった。

気の毒なことである。一瞬のうちに透明人間になってしまって、どんなに叫んでみても、前に立ちはだかっても、誰も気づいてくれない。そういう世界に滑り込んだらどんな気持ちになるだろう。きっと、私も彼のように落ち込んでしまうだろうと思う。だから、彼は話しかけられて、興奮して近寄ってきたのだろう。

"Do you know that you are dead?"
それに対して彼はYesともNoとも言わなかったが、黙ってお腹にナイフが突き刺さるジェスチャーをした。それは、私が住んでいる近所で起こったということだ。刺殺されたみたいである。

“You need to go to the light. (光の方へ行かなきゃ)” と私は言っていた。
それは読んだ本に書いてあったことだ。閉じ込められた魂が開放されるためには、光の方向へ進んで行かなければならない。

しかし、これは私にとって初めてのことだったので、やり方がまずかったのか、彼の反応はなく、それで夢が終わってしまった。

彼は一体どうなったのだろう。ハンサムでさわやかな感じの人だったので、その後どうなったのか少し気になる。私の力不足なのか・・・。しかし、私のこの体験はこれで終わりではなかった。

「習うより慣れよ」、「数打ちゃ当たる」はあちらの世界でも通用するのだろうか。死んだことを知らない二番目の人に、それから数日と経たないうちに出会うことになる。

つづく

2007年10月21日

地球に根付く

スピリチュアルだとか精神世界というと、すぐ「宗教」と間違えられたり(別に宗教が悪いと言っているのではない)、現実離れしている空想の世界と思われがちである。

しかし、知識だけが先行してバーチャルな世界にどっぷり浸かった生活をしている方が、ずっと現実離れしているのではなかろうか。

頭脳と創造力を駆使して経済中心でずいぶん便利な世の中を創って来たが、私たちはこの地球という生命体の上で命を与えられて生きているという事実を変えることはできない。

私は、以前はそんなことを考えることもなかった。ただ、毎日楽な生活ができることを求めて働き、適当に楽しければそれでよかった。仕事が忙しくて、でもそれで収入が増えて、好きなことにお金を使えるからまた一生懸命働いて、そんなことを何年か繰り返していた。贅沢をできることが真面目に働いたことへのご褒美だと錯覚していた。

あの頃は、空を見上げることもなかった。土に触れることもなかった。ただコンピュータに向かって、毎日黙々と仕事をしていた。今思うと、とても「現実離れ」していた。あの頃の私は、尾てい骨から地に向かって伸びるアース線のようなコードが、ないに等しいほど細かったのではないだろうか。「地に足が付いていなかった」のだ。

霊性に目覚めるとき、人は地に根付くことの大切さに気づく。というよりはむしろ、地に根付いた生き方をしている人は霊性が高いと言うべきだろうか。

これから自然も社会も激変する地球で生きていく上で、「グラウンディング」ができていることがとても重要となってくるだろう。マンションに住み、高層ビルで働き、バーチャルな環境でストレスにまみれ、自然と触れ合う機会を失いつつある今の私たちにとって、「地に足を付ける」ことは、これからを生きるために不可欠なこととなるであろう。

グラウンディングする=地に根付くには、瞑想や呼吸をするときに、尾てい骨や足の裏から吐く息とともに光のコードを地球の中心まで下ろして行って、中心と自分がつながるイメージをする。そして、地球の中心からのエネルギーをまた尾てい骨や足の裏を通して自分の体に引き上げる。最初はあまりつながりを感じないかもしれないし、イメージしにくいかもしれない。しかし、毎日続けていると確実に「コード」が太くなってくるのがわかるだろう。少しの時間でよい、続けることが大切である。1回、2回、3回と呼吸に合わせてエネルギーの上下運動を続けていくと、次第に太くて強いエネルギーのコードができ上がってくる。

やがて、まわりの自然の変化に敏感になってくる自分に気づくことだろう。そして、その自然の中で自分が生かされていることを実感するようになってくるだろう。すると、小さなことに感謝できるようになるだろう。自然とともに生きる、人はそこに行き着くのだと思う。

地に足が付いた人間の思考や行動は、確実に肯定的で現実的なものとなるだろう。表面的で仮想的な世界とはかけ離れ、結局、生きるということは「泥臭い」ことなのだということを知るに至るだろう。

混沌とした世の中である今だからこそ、立ち返って地球に根付く必要がある。

2007年10月17日

赤い山


地球温暖化問題で啓発活動を行うアルゴア前副大統領が、先日ノーベル平和賞を受賞した。これは、今の私たちにとって大きな意味がある。科学者と共に取り組み、綿密な調査を重ねデータを集めて分析し、一般の人がわかりやすいように説明をしてくれた彼の功績は偉大だと思う。

また、彼が前副大統領として知名度が高いこと、それに政治家が持つスピーチとプレゼンテーションの力もプラスになり、科学者には申し訳ないが、専門家が説明するよりもはるかにパワフルで効果的であるのではないかと思う。

地球が危機的な状態にある中、一人一人が具体的に行動することが急がれている。しかし、悲しいかな、私も含め多くの人は、頭ではわかっているものの、自分の腹が痛まない限り、ある程度のことはしても習慣に流され、本当に真剣に行動している人は少ないのではないだろうか。

アルゴアの「An Inconvenient Truth (不都合な真実)」の中で、破壊されてゆく自然を2枚の写真で比べるシーンがいくつかある。その中で、山の木が虫に食われて枯れて赤くなっているものがあるのをご記憶だろうか。

私は、今年の夏にカナダのブリティッシュ・コロンビア州のウェルズ・グレイ州立公園に行ったときに、ショッキングな光景に出会った。まさに「不都合な真実」の映画で見たものを、直に見ることになったのだ。数年前からほとんど毎年夏になると夫とここで数日を過ごしてきたが、もう今年が最後だと強く感じて悲しくなった。

数年前に来たときは、緑豊かでとても波動の高い場所であった。それが、3年前くらいから山の中に赤い色が混じり始めた。Mountain Pine Beetleというキクイムシに食われた松の木が、枯れて赤くなっているのだ。今年の夏に行ったときには、その範囲がグンと広がって、キクイムシが猛烈な勢いで増えているのがわかる。2週間で1本が死滅するそうだ。2週間なんてアッという間ではないか!今までは冬の低い気温ではキクイムシは生き延びることができなかったが、温暖化によって活動を続けることが可能になったということである。

展望台から見える前方の三角の山とその周辺が赤くなっている(2007年7月撮影)。間違っても紅葉ではない。数年前の写真があったらその違いがはっきりわかるが、残念ながら今年のものだけしかない。


山は泣いている
赤い山、変わり果てた姿
キクイムシが針葉樹を食い尽して行く
ものすごいスピードで
山はなすすべもない

虫が食い尽す
それは人間がその貪欲さで地球をどんどん破壊しているのに似ている
虫が松を食い尽くして行く
人が地球を食い尽くそうとしている

赤い山は拡大し続ける
山が泣いている
息も絶え絶えだ
地球が痛みを訴えている

我是知足
人間はいつになったら気づくのだろうか
松は枯れて死に絶え
ついには虫も自滅の道をたどる

キクイムシは人間を象徴している
山の声、地球の叫びが聞こえないか

我是知足
もう時間がない

2007年10月15日

新しい秋

秋を迎えて、またひとつ新しい段階に入った。

本来あるべきところへ戻る力が強くなったように感じる。

地球は破壊される一方で、それを元に戻そうとする力も感じる。これからはその2つがとてもはっきりしてくるだろう。あなたが無意識に送っている毎日の行動は、この2つのうちのどちらを促すものか。

心に従って実践するとき。
変化を起こすとき。
一歩前へ進むとき。

自分の心に従って、新しく何かを始める人が増えるだろう。そのときに、新しい自分を創る準備段階として、体に異変 (不調) が生じる人もいるかもしれない。それはちょっと苦しいが、きっとその後にクリアになる自分がいることを信じて、今を大切にして欲しい。

新しいものは、古いものを捨てないと入ってこない。客観的に、自分の身の回りを見てみるとよいだろう。部屋は片付いているか、いらないものがあふれていないか。

洋服や身の回りの物を整理するのもよいだろう。思い切って整理するとスッキリし、新しいアイデアやチャンスが飛び込んでくるかもしれない。