2010年9月22日

西の教え


「葉が散り始め、どんどん日が短くなって物悲しい感じがするから、秋はあんまり好きじゃないなあ」

春や夏を愛する人がそう言うのをよく耳にする。

私は秋に生まれたので、秋が好きだ。私にとって秋は、夏の忙しい活動が終わって、落ち着いた雰囲気になったり、農作物は収穫期を迎え、今までの活動が何らかの形となって現われたり、休息する時間が増えて吸収することの方へエネルギーが動き出したりするときである。

今日は秋分の日。秋のドアを開けて、天秤はこれから夜の方へと少しずつ傾くようになる。

先日の日記で4つの方向に歩く足のことに触れたが、そこから自然にネイティブアメリカンの教えへと導かれたので、そのことをシェアしようと思う。

大地に生きるネイティブアメリカンは、すべての生命のサイクルを「Medicine Wheel」という輪のシンボルで表わす。Medicine Wheelとは、私達がそれぞれ人生という道において、その歩む一歩一歩に価値を見出し、様々な資質を体験により学んで成長して行く学びの輪のことである。輪が一周する中で体験による学びが智慧となって成長がもたらされ、それはさらに次の一周、つまり、より大きな理解と新しい成長へとつながっていく。

その命の輪は東・南・西・北という4つの方角で構成されており、それぞれに大切な教えがあって、各方角を動物の精霊が守っているという。

ここでは、秋にちなんで「West Shield (西の盾)」をご紹介したいと思う。

教え:内省・ゴール
動物:クマ
色:黒

<教えにまつわるストーリー>

氷河期が訪れ、人間が食べるものがなくなり飢えていた時に、調和と分かち合いの大切さを知っている動物は、自分の体を食べ物として人間に提供することにした。

あるとき、クマの肉を食べた後で深い眠りに入ったある女性は、夢の中で西(West Shield)の教えを学んだ。

その夢とはこんな夢であった。クマが冬眠に備えてベリーの実やハチミツ、サケなど様々な食べ物を探して食べているのを彼女は見ていた。食べ物を腹いっぱいに詰め込むと、クマは穴に入っていった。そこで彼女もクマの後について穴に入り、冬の間中、クマの隣で一緒に眠った。春になってクマは目覚め、緑の森へと入っていった。クマは、変化した森の中を熱心に歩き回って探索しているようである。深い冬眠がクマに新しい意識をもたらしたのである。

クマと共に過ごし、様子をずっと観察していた彼女の心に、突然クマの教えを説く声が聞こえてきた。

クマがあらゆる種類の食べ物を食べるように、私達はアイデアの果実を味わうことで、人生の見方を広げることができる。その後、クマが穴の中に入って行くように、自分の内なる静けさに入って、これらのアイデアを消化する。ここで、自分にとって役に立たないものは捨て、残りは内省している間に滋養となる。この滋養となるアイデアに基づいて行動したときこそ、夢や目標はうまく成就する。

<クマやその行動、穴が象徴すること>

西の色である黒は、クマが冬眠をする真っ暗な穴を表わし、この真っ暗な世界こそ、すべての答えがあるVoid ()の世界である。内省という行為は受身の女性エネルギーを持ち、真っ暗な女性の子宮はすべてのアイデアや命がはぐくまれ、それが生まれる場所である。私達はこの子宮から肉体を持った命として始まり、親を継ぐ世代として未来に向かって生きる。西は私達の未来を支える場所である。

私達の体の細胞の中に、今まで起こったことのすべてが刻み込まれていることを理解できれば、私達は、自分の中にすべての答えがあるということがわかるだろう。

<内省からゴールへと導く3つの段階>

1. 沈黙に入る 内なる静けさの中に入ることは、女性性の持つ受身の状態になることで、この沈黙の中で、日常で得た体験という形で来る様々な情報(答え)を受け取る。

2. 答えを消化する 受け取った情報をまとめ、そこから自分に必要のないものは取り除き、自分の真実は何であるかを見極める。

3. 自分の真実に基づき計画を立てる 自分が立てる目標は他の誰かが期待しているものではなく、誰のものでもなく、自分の真実と願いに基づいているからこそ、夢や目標に向かうときには喜びが伴う。

そうすれば、明日を喜びで迎えることができる。自分の真実は何であるかを十分に消化して落とし込んだなら、不確かな将来に対して怖れる必要はなくなる。

目標を立てるときは、それが将来にどのような影響を与えるかを見極める必要がある。求めている答えは、自分の内から出てきたものであるだろうか。もしそうでないのなら、沈黙に入り、自分に対する問いを消化することで、内にある答えが出てくるだろう。

西は明日につながる場所である。私達は誰でも自分の中に答えがあり、それを自分で見つけることができる。自分の中に不安や疑いがあると、それが他人の意見と混じり合って混乱を招き、自分を制限してしまうことになりかねない。

沈黙に入るとき、内なる力に出会う。それは、不安や恐怖を退け、目標を達成へと導く力である。

西の教えは、様々なサイクルの中で適用できるだろう。最も身近なものでは、日の出と日の入りのサイクル、月の満ち欠けのサイクル、季節のサイクル、一生というサイクル、あるいは何か答えを求めているときに西の方向から風が吹いてきた瞬間など、さまざまな時間の中で捉えることができるだろう。

秋と西に敬意を表したい。

ダリアの舞い

爽やかな青空に白い雲が浮かんでいる今日、畑に行ってみた。キュウリやインゲンなどの夏の野菜はほとんど終わりに近づいているが、今収穫を迎えているものもある。

パチンと真ん中からはち切れんばかりに熟したトマト、土の中で大きくなり、隣と押し合いへし合いしているじゃがいも、ヘタが茶色っぽくなり実に甘みが出てきた頃であろうかぼちゃ。これらは他の野菜に比べて時間がかかったが、じっくりと確実に成長してきた。

それぞれのペースとタイミングがある。

太陽、月、雲、熱、風、雨など常に変化している環境の下、植物だけでなく、微生物、昆虫、鳥、動物など、畑では様々ないのちがそのサイクルを全うすべき活動している。

それは、畑という場で、ひとつひとつの要素やいのちが絶妙なバランスで複雑に絡まりあって、巨大なオーケストラを構成しているようである。そのオーケストラは夏に最も高まり、秋に向かってゆっくりと下降してゆく。

あと3週間したら畑は終わり、ここで育っていたすべては土に返る。ひとつのサイクルが終わるときである。

畑にたたずんで、雨の後の落ち着いた土の匂いの中で、そのゆったりとした音色を感じてみる。

コスモスが、わずかな風にも応えるように優しげに揺れている。



仲良く二つ並んだ姿を見ているだけで、心が温かくなる。


ふと、向こうにいるダリアの花に引きつけられた。何やら楽しげな様子をしていて、私を手招きしているようである。

中心まで、うんと近づいていった。



花びらが火の舞いを踊っている。ここで繰り広げられたいのちの営みを讃えるがごとく、情熱的にクルクルと回っている。

そう、このダリヤが思い出させてくれた。形はなくなっても、オーケストラが沈黙に入っても、いのちの火は消えることはない。

この畑に来るたびに強く思う。自分も自然の一部なのだと。ここでは劣っているものも勝っているものもなく、すべてが違っていてすべてが等しい。すべてにそれぞれのペースとタイミングがあって、すべてがひとつに溶け合っている。

オーケストラの音色を奏でているときも、沈黙の中にあるときも、いのちの火は消えることはなく、鼓動というリズムを刻み続けている。


<写真:畑のコスモスとダリヤ>

2010年9月19日

「それ」の存在


突き上げる想いや衝動、わずかに感じる傾向性、風に感じる気配。これらは言葉ではうまく説明できないが、感覚はそれを捉えることができ、それが存在することを知っている。

「それ」は確実にある一定方向へと流れていて、その入口へと手招きしているのを感じることができるが、目には見えないことなので、直接つかみ取ることはできない。しかし、「それ」を捉える上で、体はとてもよい媒体になり得ることを知った。

足に意識を向け、足から伸びる根のイメージを絵にし、その後、音楽に合わせて踊るなど体にフォーカスを当てたエクササイズをした後、根のイメージを絵にするワークを今年の春に体験した。そのとき興味深い展開があったので、今度は自分でやってみた。今回も、先回とは違った形で、踊りの後に根の様子が大きく変わった。




踊った後の右の足の根は、はっきりと4つの方向に分かれており、同じ長さで4つの方向に伸びる足が歩いているような格好となった。さらに、真下に伸びるものと上に伸びるものとの、合わせて6つの方向に分かれた。

この4つの方向、さらに上下合わせた6つの方向は、日本からシアトルに戻った後、隣の敷地に立っているヒマラヤスギの木を感じ取って踊ったときに、自然に東・南・西・北・空・大地の6方向へと順に手が動いたこととつながった。動くことで、メッセージ性を帯びた何かが、私の中から自然に出てくる。

それは、客観的に見ているときも同様である。歩く足の絵を見ていて「Walk in Balance」という言葉が浮かんだ。訳すと「調和の道を歩く」ということになるが、調和の道を歩むことは、自分を取り巻くすべてと調和の中に生きることであり、この言葉は、ネイティブアメリカンの教えとつながる。

描いた4本の足は、足先の向きからわかるように、輪を描くように右回りに回っており、あらゆる生命のサイクルにも通じる。これをネイティブアメリカンは「Medicine Wheel」と呼んでいて、この輪は東、南、西、北の4つの方角からなっているということである。その方角それぞれに教えと学びがあるということであるが、この時点の私はそれが何であるかは知らない。

木を描いているときに、突然クモのイメージが浮かび上がったので、木の横に描いてみた。それを後で見てみると、クモは木と共に歩いているようである。クモは人生の糸をつむぐ創造の象徴。独自の創造力を使って調和の人生を編み出すことを、この私という木は望んでいるのだろう。

右足の根の絵という形で意表を突いてやってきた「それ」が、まるで自ら語り出したかのように、このような形で自分の中から出てきたことに驚いた。それは、さらに左足の絵からも異なる形で姿を表わした。



左足が根となる木の上部がパカッと開いて上から黄色い光が入ってくるイメージの後、木が半分に割れて、上からの光が通る断面図のイメージが浮かんだ。根元近くは空洞になっており、どこかにリスの気配を感じた。このときは、リスは外で木の実などを集めていてそこにはいないが、この穴をねぐらにしているようである。リスにとってこの穴は帰って来れる安全な場所であり、一方、空洞という形で現れたこの部分は、体にすると子宮にあたることに気づいた。

私の一部であるリスは、冬に備えて外でせっせと木の実を集めて、穴の中に蓄えているようである。リスが蓄えた木の実は情報や経験を象徴しており、それはやがて智慧として力の源となることを知っている。そのためには、集めたものをここでゆっくり消化する必要がある。整理がついてそのときが来たら、周りの人と分かち合うことができるだろう。リスは、そのことを教えようとしているように思う。

ただ感じたままに描いただけなのに、これらの絵を見ているだけで、自分の中から力が沸き上がってくる。

突き上げる想いや衝動、わずかに感じる傾向性、風に感じる気配。これらは言葉ではうまく説明できないが、感覚はそれを捉えることができ、それが存在することを知っている。体を入口として意識の中に入って行くと、頭の領域をはるかに超えた強大な力に出会う。

その力を感じ取ったとき、「それ」と呼ぶ「大いなる意図」は、私にとって大きな意味のある現実として突然目の前に出現する。

2010年9月8日

足から宇宙へ

少し前になるが、4月に岡山でHeart of Lifeによるグラウンディング(第1チャクラ)のワークショップを受けた。このワークショップでは、さまざまなエクササイズを取り入れて、脚足に意識を向けたワークをした。

私にとってはどれも初めての体験であり、次々と変化していくプロセスを新鮮な気持ちで楽しめた。中でも、足に意識を向けてワークを進める各段階で描いた絵は、最後には思わぬ展開となったことがとても印象に残ったため、そのことをここにシェアしたいと思う。

普段ほとんど意識していない足が主役のこのワーク。まず両足で立って、右足、左足がそれぞれ地面と接するのを感じてみて、自分の体を木に例えたらどんな木になるかをイメージして絵にした


右足の木には、地面に少し根が生えており、地中へと伸びる黒くて太い根がある。枝はどちらかと言えば上に向かっていて、葉はおおむね広葉樹だが、針葉樹も少し混じっている。形はクリスマスツリーのようにとがっている。

これに対し、左足の木には右に飛び出している長い根があるだけで、地中に伸びる根はほとんどない。左右に両手を広げるような長い枝があり、葉はまだほとんどついていない裸の状態。右足の木と比べると、左足は下の方のバランスが悪くて、なんだか寂しい。見方を変えると、これから成長するのを待っているような感じである。

この絵を描いた後、2~3曲の原始的な音楽にあわせ、足を踏み鳴らして踊った。私の中で感覚的に最もしっくり来たのは最後の曲だった。オーストラリアのアボリジニの楽器ディジュリドゥだけの曲はこの中で最も原始的で、ディジュリドゥの音とリズムだけに意識を集中して体を動かしていると、ある時点から変性意識の状態になり、土の中の奥深くへと入っていく感覚になった。自分の中で眠っていた懐かしい何かが蘇るようで、音は原始的であればあるほど大地・地球とつながる感覚が強まる。土を掘って住居にしていた先住民のことが頭をよぎり、彼らと自分が一瞬重なった。

踊った後に再び足を軸とした木の絵を描いた



右足からまっすぐ伸びる根は地球の中心(核)とつながった。木を感じてみると、木を含めた全体が黄緑色のエネルギーに包まれている。そこで、右側を代表する色として丸い黄緑を絵に添えた。枝はというと、縦と横にまっすぐ伸びる黒っぽい十字架のようなイメージがくっきりと浮かんだ。木にはこんもりと緑の葉が茂り、そこに白い鳥がやって来た。

次に左足。最初のときのようにやはり右側に飛び出している根があり、他にも周りに根がある。まっすぐ伸びる根も成長し、右側ほどではないが、地中に向かって伸びている。右に対して、左は全体的に紫色が顕著で、葉にも紫色が混じっている。左側を代表する色として丸い紫を絵に添えた。枝は、右側と同じような十字架のような形である。

私は以前から目を閉じてリラックスした状態になると、必ずと言ってよいほど見える色がある。それが黄緑と紫。中心が黄緑で淵が紫になった後、それが反転し、交互に繰り返される。絵にも右と左でこの色が現れたことは、とても興味深い。

この後ワークはさらに続き、フェルデンクライス、トーニング、呼吸に合わせてマントラのような言葉を唱えながら自然の中を歩くミスティック・ウォーク、ポマンダーやクイント・エッセンスを使用したカラーブリージングの後、再度絵を描いてみた



ここでは、私は根だけにフォーカスしたので木の部分は見ていないが、右と左は大きく異なる。右の根は、幹と同じくらい太くなって地球の中心とつながっている。まっすぐで固くて黒い根。

これに対し、左の根は左巻きに渦を巻くように伸びている。その根を感じていると、真上から見た渦の状態が見えた。それが下に書いた絵である。色は黒っぽく、ドリルのようにグルグルとらせん状に巻きながら地中へ降りていく。

このように左右明らかに異なるイメージが出てきたため、これをさらに探っていくことになった。プロセスワークで使うシャーマニックなアプローチは、私も個人的に強く惹きつけられるものがある。

「右足の根の質はどんな感じ?音と動きで表すと?」という質問に、まっすぐな固いものが上下に動き、「シュッ、シュッ」という短い音を発している感じがしたため、自分の体を動かして実際にやってみた。

次に左足を表現すると、お腹のあたりを中心として左に旋回しながら、低い「ゥオーン」という長い音になる。

「では、この2つを統合してみるとどうなるかな?」という質問に、動きを入れながら「シュッ、シュッ」と「ゥオーン」を時間をかけて何度もやってみた。意識を集中して繰り返していると、「ゥオーン」で自分が銀河になったような感覚になり、ここで私が創り出されて、「シュッ、シュッ」でロケットのように行き先へ送り込まれる感じになった。

次に、同じ動きを他の3人にやってもらい、自分はそれを少し離れて客観的に見てみた。すると、「ゥオーン」といいながら旋回しているのは、情報をかき集めている(受け取る)ようで、これに対して上下運動の「シュッ、シュッ」は送り出す(出力)になり、これを見ていてハッとした。なんと、これは創造のプロセスではないか!

ここで絵を見直してまたもやハッとした。自分が描いたものは右足は男性性のエネルギー、左足は女性性のエネルギーを表しており、これは性的なものにもつながる。女性である私の中にあったこの「シュッ、シュッ」は、新鮮な印象を与える。

重力を意識して足と大地の関係にフォーカスしたワークが、旋回(渦巻くもの)と上下運動(貫くもの)という肉体的であり、同時に宇宙的でもある2つの対照的で根源的ともいえるエネルギーに行き着いた。私という一人の人間の中にこの2つがあって、それが統合されたところに創造がある、と思うと、深遠なテーマに触れたようで胸が高鳴った。

当時2~3ヶ月の間、岡部明美さんの養成講座や自主トレーニングで色々な形で繰り返し出てきた「貫くもの」と「渦巻くもの」。これが、このグラウンディングのワークショップで時間をかけて丁寧に感じてみることで、さらに深いレベルへと発展した。

「今ここ」レベルである体の動きや音を入り口として意識を集中して深く入っていくと、背後には大きなテーマが潜んでいるようである。それは肉体を超えたより大きな次元のものにつながり、その気づきに私は興奮を覚えた。

シャーマニックなアプローチが導くものは、私にとっては大きな意味のある神話にも通じるような世界であり、それを個人(魂)の神話と呼ぶならば、私は今回それを垣間見た思いになった。


2010年9月7日

ひまわりの宇宙




黄色のじゅうたんを滑り降り

中心へその奥へと向かってゆく

ひまわりの天体望遠鏡

ずっと向こうの遥か彼方に見える

いのちの不思議

桃色の波



「私の世界へようこそ」

牡丹が招き入れてくれ

次の瞬間、吸い込まれてしまった

桃色のグラデーションに優しく包まれ

花びらの波に揺られる

私の世界へようこそ

芳しい風に酔いしれる