2008年7月31日

型破りは自分に戻ること

「自分がやりたいこと、大好きなことをやって、決して人に認められようとなど求めないことだ。人に受け入れられれば、自分が正しいと感じる助けになる。人に認められれば、自分が正しい目的に向かって進んでいると感じさせてくれる。問題は、自分自身の内なる感じだ。それは外側の世界には何の関係もない」

今日、知人が日記でこんな素晴らしいメッセージを紹介してくれた。

私は3年前からトーストマスターズという会で、人前で話をする練習をしている。自宅で翻訳をするという仕事とは正反対の世界。人前で話すなんてとんでもないことだった。しかし、その会でマニュアルに沿ってスピーチのスキルを習得し、話す練習を重ねるうちに、次第に自分に自信がついてきて、自分の考えや伝えたいメッセージを心を込めて話せるようになってきた。最近では、そのことを楽しいとさえ思えるようになってきた。

先日、私は以前にこのブログに載せた体験(
http://hoshinoto.blogspot.com/2007/11/blog-post_11.html)をベースにしたスピーチをした。色眼鏡を捨ててありのままを見るという大切なメッセージを、自分なりの形で表現したつもりである。会話や心の変化などの状況を、舞台のスペースをいっぱいに使い、自分ができる範囲で表情や声色を変え、ジェスチャーもふんだんに使って再現した。

トーストマスターズでは、スピーチの後に論評と呼ばれる評価があり、聞いている側がコメントする。あるメンバー(妻が日本人であるアメリカ人男性)は、私のジェスチャーはオーバーだと皮肉を込めてコメントした。それもメンバー全員の前で。明らかに、彼は私のジェスチャーを認めなかった。

以前の私だったら、きっとそのコメントに傷ついたり、他の人はどう思ったかなど、とても気にしただろうと思う。もちろん、全く動じなかったわけでもない。

しかし、今回のスピーチをするにあたって、自分で最も気をつけたかったことは、自分らしく表現することだった。自分の心の移り変わりの体験を、そのときの自分になりきって再現することだった。だから、ジェスチャーがオーバーだったと言われても、自分はそう感じたのだから、どうしようもない。それに、みんなの前で腕一杯に手を広げたときは、開放感が押し寄せてきて、人前で萎縮していた以前の自分と比べ、こんなに自由に動けるようになった自分が前より好きになった。

全員の心を動かすためにやったのでもなく、それをどう受け取ったかは相手の問題。否定的な反応があっても当然だろう。一方、「パワフルなメッセージだった」とか「自分が開放される思いがした」、「楽しそうだった」、「感動した」(いずれも日本人女性)などの肯定的なコメントもあった。人それぞれ、それぞれのレベルで感じ取る。それでいいのではないだろうか。

肝心なことは、自分に正直になり、感じたことを素直に表現すること。自分自身になったときは、ただ楽しいという思いだけが沸き起こる。それは子供が無邪気に遊んでいる姿に通じるかもしれない。

スピーチをしたその会で、ある熟年のメンバー(日本人男性)が、日本のテニス界に変革をもたらした女性による本を紹介した。「日本人は規律を守り、お行儀がよくてとても優秀な国民である。スポーツでもそれが顕著に現われる。しかし、ヨーロッパ、特にスペインやイタリアあたりの選手は、型破りである。決まったフォームなどを無視して自分の意のままに動く。そのため、外れる時は大きく外れるが、アッと驚くようなプレーがあり、見ていて面白いし、考えてもみなかった結果がもたらされることがある。日本人もこの要素をもっと取り入れて欲しい」というのがその本の主なメッセージだそうである。

このメンバーは、この本のメッセージをそのままスピーチに当てはめた。例えば、話す人に少しくらい変なクセがあるとしても、それがその人の味で、大切なことは、綺麗で正しいフォームではなく、自分のスタイルを出すこと。そつがないスピーチよりも、無骨でも聞いた人が、家に帰った後や何かをしている時にふと思い出すようなスピーチをすることの方が大切ではないか、というものであった。

型破りの「型」とは一般が認める範囲のこと。自分は唯一の存在なのだから、その他大勢が認めるように妥協してしまっては、自分でなくなる。

他人がどう思ったってよい。常に自分に問いかけて、自分がよいと思ったこと、好きなことを自分の心に正直にストレートに表現してみると、楽しさや喜び、満足感が返ってくる。それは自分のためにしていることで、実は子供は常にこれをしている。


正しいと感じる基準は、他人ではなく自分である
自分の真実は他人の真実とは違う
正しい目的には常に喜びが伴う
そこには開放感がある
自分自身の内なる感じがすべての基準
自分を知っているのは自分
頼るのは自分

型破りは自分に戻ること
それができたとき、外側の世界が応えてくれる

2008年7月27日

人間が雨を降らせる日

テレビでこんなニュースを見た。

中国のある地域では、塩化銀を含んだ霧を空中に散布して雨を降らせ、旱魃の被害を免れている。「散布」といっても、画面には、小さなロケット弾のようなものを空に向けて打ち込んでいる様子が映っていた。塩化銀が核となって水蒸気を集めて雲を形成し、地上に雨を降らせるという仕組みだそうだ。「天候を技術によってコントロールする」というような表現が使われていた。

私はこの様子を見た瞬間、体の中がサッと冷たくなる感触を味わった。何か恐ろしいことが起きているようで仕方ない。

すべてのことは、私たちが自然の中の一存在であるということを認識することから始まる。自然の中に私たち人間が生かされているという立場に立つからこそ、また、偉大な力に身をゆだねるからこそ、願いは「祈り・乞う」という形になり、雨乞いは、長い歴史の中で祈りとともに行われてきた。

シャーマンやメディスンマンは一人で勝手に儀式をするのではなく、雨を乞う願いをもった村人たちを代表して、人間界と自然界の橋渡しをするのである。

シャーマンやメディスンマンは雨乞いの儀式の中で、そのような村人の心を運ぶ。そして、自然、事象、スピリットと交信して繋がり、一体となる。それは、目に見えない偉大な秩序に対する正当な手続きであるように思われる。天や雲、雨のスピリットを呼び、感謝し、許しを求め、交渉し、様々な力と繋がることで、結果として雨がもたらされるのではないだろうか。

畑をしていると天候に敏感になる。太陽の光と空気と水と大地の絶妙なバランスの中で、植物が生きていることに気づかされる。雨が降った後の植物は、人間が水をあげたときとは比べ物にならないほど、大きく力強く成長している。気温は、高すぎても低すぎても成長に影響する。そんな自然の偉大な力とその繊細なバランスを目の前に、おのずと畏敬の念が沸き起こる。

人間には限りない創造力があり、そこから素晴らしい技術が生まれる。しかし、その創造力は与えられたものである。与えられたものを十分に活用することは正しいことではあるが、超えてはいけない一線というものがあるのではないだろうか。

そう言うと、今の時代になんて馬鹿なことを言っているのだろうと科学者はせせら笑うだろう。しかし、開発した技術が現在と未来の環境に与える影響に、科学者はどれだけ責任がとれるだろうか。また、どこまでそれを意識しているだろうか。

塩化銀を打ち上げて雨を降らせることは即効性があり、農業にとっては画期的な技術である。しかし、私には、これは傲慢で乱暴なやり方のように思えてならない。

日本でも本格的な使用を前に、この実験が進められているということであるが、もしこの技術が広まれば、その先にはもっとスケールの大きい技術が現われるだろう。天候を技術によってコントロールすることは、当たり前の時代がやってくるかもしれない。それが勢いを増し、やがては国家権力が絡んでくるといったシナリオも、不可能ではない。

しかし、宇宙には秩序がある。人間の頭ではとうてい処理できない壮大かつ緻密な秩序。

利害が衝突し、人間がそこらじゅうで好き勝手なことをしたら、今でさえ混乱している世の中、ますます収集がつかなくなり、やがてはその大きなツケが回ってくるのではないだろうか。

ある日、市民農園の畑で草抜きをしていたときに、野外授業の一貫で散策をしていた近くの保育園の先生と園児のグループが、私の畑の前で立ち止まって、何をしているのか尋ねてきた。私の説明を聞き終わり、園児たちがさあ帰ろうと歩き始めたときに、そのうちの一人の女の子が振り返ってチラリと野菜に目をやり、次に私の目をまっすぐに見て
「Be gentle to the plants(植物たちに優しくしてあげてね)」と言い残して立ち去った。

一瞬、私の目にはその女の子の背中に羽が映り、妖精の姿と重なった。その真剣な面持ちと言葉は、今でも私の心に深く刻まれている。小さな体から出たパワフルなメッセージ。彼女は植物からのメッセージを伝えてくれたのだった。

「植物たちに優しくしてあげてね」

そこには、繊細で優しい心が溢れていた。

子供は見抜いている、私たちは自然の中に生かされていることを。当たり前のことなのに、いつしか忘れてしまう大人もいる。感謝と喜びの大いなる秩序の中で循環する宇宙。私たちはその宇宙の一部。

「空に優しくしてあげてね」

塩化銀を打ち込まれた空からは、傲慢で勝手な人間に対する悲しみの涙の雨が降る。

2008年7月21日

深い人間になりなさい

きれいなだけでは薄っぺらい
深い人間になりなさい

喜びだけではわからない
悲しみも知りなさい
苦しみも知りなさい

深い人間になりなさい

外側だけが光っているのではなく
内側から輝き出る人間になりなさい

山もあり谷もあり
光もあり影もある風景は
深みがあり味わいがある

そんな人間になりなさい

暗がりに慣れた目の方が
闇の中がよく見える

人の悲しみ、人の苦しみを理解できる人になりなさい

闇の中に気づかれないようにそっと入り
そこにうずくまっている人に
優しく差し伸べて
光の方へと導くことができる
癒やし手になりなさい


<7月21日メッセージ>

あなたはどんな子供でしたか

小さい頃の自分を思い出してみよう

どんな子供だったか
どんな遊びが好きだったか
どんな友達がいたか
どんなことを怖いと思ったか
どんな出来事を覚えているか

このようなことを思い出した時に、どのような気持ちになるだろうか。

幼稚園から小学校低学年くらいまでの自分を思い出すと、私はいつも外を走り回っていた。姉は家で人形遊びをするのが好きだったが、私は自分に買ってもらった人形が嫌いで、髪の毛を切って坊主頭にしてしまった。

人間が作ったもので遊ぶよりも、草を編んでかごを作ってみたり、石を削った粉で粘土にしてみたりと、自然のもので何かを作るのが好きだった。虫は怖くなく、カマキリも平気で手でつかめた。小学校に入ると、友達とよく近くの山へ行って山菜をとったり、男の子と一緒に川でザリガニやドジョウを追いかけたり、放課後男子の中に私一人女の子が混じってドッジボールをしたりと男勝りで、とにかく外で遊ぶことが好きな子供であった。

小さい頃はよく母親に叱られた。母のしつけは厳しく、道徳意識をしっかりと植え付けられた。そういう中で、知らず知らずのうちに、私は「よい子」を装うようになっていったのかもしれない。先生の間でも近所の人の間でも、よい子で通っていた。しかし、幼稚園で母親たちの集まりのときに、いたずらなど何か問題を起こした子供の中に決まって私の名前が出てきて、母がびっくりしたという話を私は大人になってから聞かされた。

単独にいたずらしたこともある。小学校へ行く途中で裏がザラザラしている葉っぱを見つけた私は、下校のときに密かに集めておいて、通り過ぎていく児童一人一人にそっと近づいて、背中に貼り付けた。

それが問題となって、数日後、学級会議で担任の先生がクラス全員の前で私を立たせて、
「あんたがそんなことをするとは夢にも思わんかったな。先生はあんたがええ子と思っとったのに、期待を裏切られた思いや。えらいミソつけてくれたな~」と言って叱り、その後、一番仲がよかった友達からは「あっ服に味噌ついとるでー」とからかわれたことを覚えている。

自分としては大して悪いことをしたとは思っていなかっただけに、先生にみんなの前で叱られて、その後友達にからかわれて、屈辱的な思いをしている。まあ、あの葉っぱくっつけ事件は、自分が考えてやったことで自分が悪いのだが。

そんないたずら好きだった私も、中学・高校の頃にはすっかりおとなしくなっていたが、内心はよく男に生まれたかったと思っていた。具体的に何があったかは覚えていないが、そのときの自分は「男だったら自分の思うようにどんどん行動できるのになあ」と思っていたことを覚えている。

また、こんな不可解な瞬間もあった。小学校高学年から高校くらいまでであるが、何かをしている最中に突然ふと「今、ここで自分が死んだらどうなってしまうのだろう。息ができなくなって、体やこの感覚もすべてなくなって、それを考える自分自身がまったくなくなって・・・」と考えると気が狂いそうになり、いてもたってもいられなくなった。このような「考えの発作」は数年ほど繰り返され、そのたびに頭がおかしくなりそうになった。

私の怖いものは高い所と水。水については、小学校に入って水泳の時間があり、避けることはできない。最初の恐怖は、プールに入る前にシャワーを浴びる場所である。天井部分にシャワーが付いていて、コンクリートの階段を数段下りてまた上がるという構造になっており、階段の部分はちょっとしたプールのように水が溜まっている。小学1年でまだ背も低い私の胸ほどの高さまでくる水の中を頭からシャワーを浴びながら通るのは、たった4~5歩で終わるのだが、私にとっては拷問のようなものであった。

それを過ぎるといよいよプール。泳ぐことはできるが、顔を水につけると途端に苦しくなり、泳いでいるときは、排水溝に吸い込まれることばかりを考えてしまう。水が渦を巻いて吸い込まれていく排水溝が怖い。

子供の頃の記憶はほかにもたくさんあるが、これらのことを思い出してみるだけでも、少し自分の内面を探ることができる。大人になると建前や社会的通念などの壁があり、型にはめられた自分といることに慣れてしまうが、子供の頃の自分の様子や行動を振り返ってみると、忘れていた自分の性質を思い出すことができる。また、心理的なものに至っては、過去世にも遡ることができる。

そのカギとなるのが感情である。感情は、自分への入り口であるともいえる。

子供時代のことを感情から仕分けしていくと、客観的に自分のことを振り返ることができる。

例えば、上に挙げたことだけでも、次のような感情に分けられる。

嬉しさ、楽しさ、幸福感 = 自然の中でのびのびと遊ぶ自分、自由に行動している自分

恐怖 = 水、渦まく水

不安 = 死、死後どうなるか

恨み = 権威ある人によって、多くの人の前で叱られたこと、友達にからかわれて馬鹿にされたこと

(隠れた)怒り = 厳しいしつけ、コントロール

理由はわからないが恐れていること、繰り返し襲ってくる不安などは、過去世に原因があることが多いようだ。私の場合、チャネラーを通じてガイドと話した時に、水の恐怖については、過去世で川で溺死させられていると教えられた。今生では水に関する事故や怖い経験はしていないだけに、異常に水、しかも渦巻く水が怖いというのは、やはり過去世に関係するのだろう。

また、死ぬことに関して気が狂いそうな衝動に駆られたのは、過去世で何度も殺されていることに関係するかもしれない。突然身に迫る死というのは、相当なパニックを伴うことであろう。

今ではこの2つはかなりクリアしたと思うが、私は外を飛び回っていた活発で素朴な子供の頃の自分に惹かれる。それは喜びにつながり、自由につながる。恨みや怒りはそういう自分が大人の期待に応えるべく、威圧的に抑えられたときに起きている。また、この恨みや怒りに関して時間を遡ると、極度に禁欲・自制したり、他人に翻弄されていた数多くの過去世にたどり着く。

これからは、もっと力を抜いて自由になって、喜びの中で流れに身を任せたい。それが宇宙の流れと調和することになるのだろう。

感情は自分への入り口。子供時代を思い出し、感情を見つめ、忘れていた自分を呼び覚ますことで、新たな自分への息吹となるかもしれない。

あなたはどんな子供でしたか
どんな遊びが好きでしたか
どんな友達がいましたか
どんなことを怖いと思いましたか
どんな出来事を覚えていますか

2008年7月20日

すべての責任をとる

先日、友人宅に立ち寄った。返さなければならないカギがあったが、その日たまたま近所まで行ったのでついでに立ち寄って、お留守ならカギを裏口のマットの下にでも置いておこうと思った。

行ってみると、外からの家の様相がガラリと変わっており、私は一瞬立ちすくんでしまった。家の前の庭にあった20メートルほどの大きな松の木が根元から切られており、幹の下の部分は、暖炉の薪用に5つくらいにスライスされて転がっていた。少し前に話したときに、友人は木が日光を遮って家の中が暗いから、いっそ切ってしまいたいと言っていた。それを聞いた私には、邪魔だから切るという風に聞こえてショックで、そんなことしたら罰が当たるんじゃないかと思ったが、そんな心配をよそに、友人は職人を雇って本当にバッサリ切ってしまったのであった。

ああ、ついにやってしまったか・・・と思いながら裏口へ行ってみると、友人は留守だったが、中からご主人が出てきた。会話は「昨日木を切ったんだよ」から始まり、ご主人は私を裏庭へと案内してくれた。ここも様相がガラリと変わっていた。ここにあったアカスギの大木もバッサリ。切られた幹が、死体のように転がっていた。

その無残な姿を見ながら、ご主人がぼそぼそと胸中を打ち明け始めた。このご主人は自然を愛するミュージシャン。彼は家にもっと光を通したいと考えながらも、木を切ることにためらいがあったが、奥さんがさっさと行動に移してしまったということで、木に申し訳なくて昨夜はよく眠れなかったということであった。おそらく泣いたのであろう、彼は赤い目をしていた。

20年ほど前にその家の元の持ち主が植えたと思われるそのアカスギは、若くて健康だったことが断面を見てもよくわかる。職人は、前庭とこの裏庭の木は、それぞれ間違った場所にあったから仕方がないと説明したそうで、それに加え、その2本とも、もともとこの土地の木ではなく、動物も住んでいなかったことがせめてものなぐさめだ、とご主人は言った。

この変わり果てた姿を前にして、私たちは立っていた。すぐにどこからともなくトンボが2~3匹やってきて、私たちの周りを飛び回った。最初、私の頭には「悪いことをした」というネガティブな考えが進入しようとしていたが、心はそうではなく、複雑な気持ちがこみ上げてきた。私は言った。

「この木に感謝の祈りを捧げましたか。とても悲しいことだけれど、感謝の気持ちがあれば、きっと木はわかってくれますよ」

そう話している間も、快晴の空から差してくる日の光は暖かく心地よい。今度は、トンボの後に白い蝶がヒラヒラと目の前に飛んできた。

「正直なところ、私も木を切るという行為は悪いと考えたのですがね、木が譲ってくれて、日の光が通されたと思うんですよ。ほら、こんなにエネルギーが変わった。すごく陽のエネルギーが増えましたね」

実は、エネルギー的なことに敏感な別の友人から、このお宅は陰のエネルギーが強すぎて洞穴状態になっていると聞いていた。そういう場所に住んでいる人は、どんどん内にこもるようになるという。

たしかに、このお宅に住んでいる友人は、その家に移った数年以上も前から仕事に強い不満がありながらも辞める勇気がなく、怒りと恐怖と不安を溜め込んで、どんどん状況が悪化している。今では完全に仕事に支配されて自由な時間はほとんど全くなく、お酒とタバコでストレスを発散させているように見受けられる。ではなぜ辞められないかというと、彼女は物質的な安定がないと心が安定しないようで、夫は当てにならず、彼女が働かなければ生活できないと固く信じているようであった。固定観念が邪魔をしているようで、わかっていても一歩前に進めない。彼女にとって、人生とは苦しみに満ちたものなのだろうか。

見るたびに状況が悪化して行く中で、そのうち病気になるのではないかとずっと彼女のことを気にかけていたが、私は最近しびれを切らして、それは彼女の問題だから私は関係ないと、気持ちの上での繋がりを切ろうとしていた。

カギのことがなかったら、この家へは来ていなかっただろう。ここに立っていると、木からも太陽からも、そしてトンボと蝶からも、すべてからメッセージが感じ取られた。

木を切るという行為は、彼女が抑えに抑えていた内面が爆発して出た行為なのだろう。彼女は、それほど光を渇望していた。

変容を象徴するトンボと蝶。エネルギーを大逆転させ、思い切って行動して変化を起こすとき。木は弱い人間の手で殺されてしまったけれど、それでも無条件の愛でそれを受け入れてくれた。いや、それは私たちがそこからどう生きるかで、私たちの中で生き続けることができるのである。

それは、宇宙の愛の循環の一部になること。

「本当の自分を生きなさい」

そのとき、私たちは感謝と愛に満ち溢れ、大いなる愛の循環の一部になれるのである。

木を切る決断をした時の彼女の気持ちはどんなだったろう。心根の優しい人なので、きっと苦しかっただろう。誰だって、生きているものを殺すことはしたくない。変わりたくても変われない、じれったい自分に道を示して欲しいがため、光を求めたのだろう。

実は、夜になって、この日体験したことは、私にとって強力なシンクロニシティだったことに気づいた。

ある方の日記の中で「他人を裁こうとするとき、それは自分の内面の浄化が必要なサインなのです」とあり、その朝、その言葉を読んだ瞬間、自分の中の何かが反応した。

それに加え、朝メールをチェックすると、双子の魂ともいうべき友人からメッセージが届いていた。彼女は、現在セラピストの立場から真実を探求しているが、自分の心をもっと掃除していこうと思ったということである。

このメールを再びその夜じっくり読んでみた。

先住民の教え「Life is all about responsibility(すべてに対して責任をとる)」について考えていた彼女のところに、ハワイに伝わる「ホ オポノポノ」(人の心を完全かつ健全な状態にするという秘伝)の伝導者・実践者であるヒューレン博士の本が舞い込んできたそうだ。
彼女がメールに含めてくれたその本の引用を私なりに理解すると、相手の問題を自分の誤った思考が具現化されたものとして謙虚に受け取り、問題の原因である誤った思考に対して謝り、そのことに気づかせてもらったことに感謝して、ゼロに戻して清めることから治癒が始まり、健全な状態に戻るということである。

これは、数年前に私が出会った The DNA of Healing という本に書いてあったことに共通する。人類は一番最初まで遡っていくとほんの一握りの数から始まり、その後子孫と言う形で次第に広がっていったが、その間に起こったあらゆる出来事に対する思考やそれにまつわる感情がすべてDNAと呼ばれる「記憶」として存在しており、何かのきっかけでそれが再生されるときに「症状」や「障害」として起こる。つまり、私たちはそれらすべての思考と感情をそれが意識にあるかないかに関わらず、共有しているのである。

この記憶である古いプログラムを認識してそれに感謝し、ゼロにしてからポジティブな状況をプログラムし直すことにより、つまり、現在自分が自分自身に対してそれをすることにより、その思考・感情を共有している過去・現在・未来のすべての人が癒されることになる、というものである。

「他人を裁こうとするとき、それは自分の内面の浄化が必要なサインなのです」

お風呂の中で、この言葉が再び浮かび、私はハッとした。私は友人の意固地な姿に失望して、繋がりを切ろうとしていたのだ。

「そうじゃないんだ、これは私の問題なんだ。現実的に食べていかなければならないし、物質的な安定は誰だって欲しい。恐怖もある。将来の約束は何もない。不安である。そう簡単に変わることは難しい。それでも変わりたい、変化を起こしたい、光が欲しい。これはすべて私の中にあるのである。それを彼女が体現しているのではないか」

また、木に対して申し訳なくて涙を流す彼女のご主人も、私の中にいた。

すると「謙虚に受け止めてすべてに感謝し、すべてを愛し、すべての責任をとり、執着を手放してゼロにすること」というホ オポノポノの教えが浮かんで来て、私は心の中で友人とそのご主人に謝って愛を送った。

Empathy という言葉が浮かんだ。en = 入れること、pathy = 感情で、辞書では「感情移入、共感、思いやり」とあるが、私なりの解釈は、他人の中に自分を見ること、自分の中に他人を見ることである。

それは、他人の問題を自分の人生に取り込んで、問題に振り回されることとは違う。それではネガティブに働くだけである。そうではなく、苦しみを認めて、それに感謝し、それを優しく手放すことである。

涙が出てきた。今私が取っているエッセンスのひとつは、「形あるものからの開放」である。そう、これは私の問題だった。言い換えれば、木は私のために死んだのである。

もう一度友人とご主人の顔を思い浮かべ、その魂に送った。そして木にも。

「ごめんなさい。ありがとう、愛しています」

そして翌日の今日、知らない翻訳会社から電話があり、「陰の浄化の瞑想」と題する瞑想のCDを翻訳する仕事が舞い込んできた。15年実務翻訳をやってきて、そこには情熱は感じられず、ここ数年の間、精神世界の翻訳ができたらいいなと、どれほど思っていても全く縁がなかったこと。それが、向こうからやってきた。

それも、よりにもよって「陰の浄化」とは。

宇宙さん、ニクイことをしてくれるなあ。

2008年7月9日

地縛霊は友達?!(4)

実家に到着すると、もう10時半を過ぎていた。私は、母が用意しておいてくれた食事を軽くとってから、お風呂に入った。湯船に浸かりながら周りの空気を読み取るようにじっと様子をうかがってみたが、嫌な感じとか変な感じはしない。もう来ているのだろうか。

夜も更けて、私は長旅の後で疲れていた。何も考えず、ただゆっくりと眠りたかった。が、油断をして霊に生気を吸われて、熱を出すようなことになって欲しくはなかった。それは、ただ私自身がそれを許すか許さないかにかかっていた。

「絶対に先回のようなことにはならない!」境界をはっきりさせて、意識の上でも自分をクリアにし、凛とした態度でそう断言すると、疲れた体の奥から強いエネルギーが湧き上がってきた。デブラさんが言ったことを思い浮かべ、目には見えないが霊がそこに来ていることを前提に、私は心の中で話しかけた。

「霊さん、そこにいますか。私はここへ帰ってきました。今回は絶対に病気にならないし、あなたにエネルギーを抜き取られるようなことにはならない。だから、どうか私のエネルギーを取らないで下さい。その代わりに、あなたの好きな布を持ってきました。何かメッセージがあったら夢で教えて下さい」

それは届いているのかどうかわからない。ただ静まり返った風呂場の中で、湯船の湯気が揺らいでいるだけである。しかし、この時も、暗い感じとか嫌な感じはまったくなかった。

私は寝る前に、念を押すがごとく布団の中でもう一度話しかけた。そして、好きな場所は私が最初に思った神社でよいのか(結局、それ以外何も思い浮かばなかったので)、他にメッセージはあるのかなどを夢で教えてもらうことを望んだ。どんな霊なのだろうか、と考えるとやはり恐い。霊というとじめじめして、どうしても悪霊的なイメージになってしまう。

「私が怖がらないような方法で教えて下さい、お願いします」
臆病な自分は、つかみどころのない闇に向かって心の中でそう頼んだ。

そんな私の心の中は、霊にとってはガラス張り。小学校で「ちょっかいを出してくる子」が、好きな相手に自分が恐れられているとしたらどんな気分だろう。怒るだろうか、それとも悲しく思うだろうか。

その夜、夢を見た。私の友達(実際には知らない人)が私に話をするという形で、霊が答えてくれた。それによると、この霊は何千年もの古い魂で、長い間、人のエネルギーを吸い取って生きている感覚になることを繰り返してきた。私のときは、左肩のあたりから抜き取っていたということである。

日本に来る前に読んだ本「People Who Don’t Know They’re Dead(死んだことを知らない人々)」で覚えた「あなたは死んだことを知っていますか」という質問をしてみたが、直接的な答えは返って来ず、その代わりに、少し間をおいて「どうしてよいかわからない」という、戸惑っているというか、しょげた感じが伝わってきた。

私は、心の中でこの霊が光の方へ進んで行くことを願った。嫌な感じや怖い感じ、冷たい感じはまったくなく、恐れるどころか、逆にこの霊に温かさと優しさを投げかける自分がいた。夢を見ているときの自分は、起きているときの自分よりも大らかである。

結局、光に送ることはできず、まだ好きな場所のことは答えてもらっていなかった。ところが、そのことを聞こうとしたときに、突然夢の場面が薄らぎ始めた。「ああ~待って!」まるで夢を乗せた乗り物が、霧の中に消えて行くみたいだ。しがみつこうとあがいてみても、すうっと目が覚めてしまえば終わりである。すでに朝になっていた。

まだ夢の余韻でボーッとしている頭の中には、場所のことではなく別のことがあった。なぜか、赤い布だけでは足りないような気がしたのだ。

「他に欲しい物はないか教えてね」

夢にもう一度戻るかのように心の中でつぶやくと、待ってましたとばかりに「赤い花」と来た。ひょっとしたら、私がそれを聞くように相手が仕向けたのかもしれない。

そのリクエストに刺激されて、頭が忙しく動き出した。赤い花、赤い花・・・。概して頭というものは、まず自分が親しみ慣れている領域から物を選ぼうとする。

「カーネーションかな?」

いや、どうも違うようである・・・わからない。そのまま頭が静止状態になると、今度は急に眠気が戻ってきてウトウトし始めた(これも相手が仕向けたか?)。すると次の瞬間、眉間の前にパッと赤いつぼみをつけた椿のような花と枝が現われた。またもや、音にならない鈴のような音が聞こえた。

「ああっ椿だ!」

ここからまた頭が動き出す。「椿なら納得がいく。カーネーションは洋花で今風だけど、椿は古くから日本で親しまれている花。古い魂が好む花としてぴったり!」
得てして頭は理屈が好きだ。

「でも、椿は花屋には売ってないだろうし、どうやって手に入れようか」

また、新しい問題が起きてしまった。う~んとうなって頭を掻き掻き下の居間へ降りていくと、父と母はすでに起きており、父はテーブルで新聞を読んでいた。その父に話しかけようとしたとき、私の視線はそのまま父の後ろの庭に流れ、そこで釘付けになった。

あの赤い花が咲いているではないか!

実家の庭に、それも居間の正面にあの花があった。まるで「これ見てよ、ここにいるじゃない」と言っているように。私は、おもわずニンマリした。

私「お母さん、あのツバキ」
母「ツバキ?ああ、あれは椿と違って山茶花」
私「サザンカ~?椿と思った」
母「椿と山茶花はよう似とるけどな、あれは山茶花」
私「そうか~」

私は、椿と山茶花を区別できるほど花に詳しくはなかった。庭に出てみると、ちょうどいい具合に咲いたものが3つあり、後は固いつぼみだった。でも、これで十分だ。

朝食の時に、父に神社のことを聞いてみた。八幡神社という地元の小さな神社で、私は子供の頃に一度くらいは行ったことがあるが、中の様子はほとんど記憶になかった。父によると、実家からの距離は1キロ弱だということである。デブラさんの言った半マイル(約800メートル)という条件にピッタリだ。

その場所が正しいかどうかはわからなかったが、距離的には当てはまるので、やはりそこへ行くしかなかった。朝食が済むと、山茶花の花を枝から3本切り取り、赤い布と線香を持って、父と母には散歩に行くと言って外へ出た。

その日は12月15日、後で調べると満月の日であった。これ以上ないというほど、きれいに晴れ上がった気持ちの良い日だった。歩きながら、見た夢のことを思い出しても、まったく嫌な気持ちにはならず、逆に暖かさや感謝の気持ちが沸き起こった。この霊は私の言うことを聞いてくれている。そう思うと、親しみさえ感じられた。

さんさんと輝く日の光を浴びて、霊と一緒に八幡神社まで散歩している気分になってきた。気づくと「晴れてよかったね~」と霊に声をかけていた。私の周りを有頂天でグルグル回ってはしゃいでいる様子が浮かぶ。すると、私の心もウキウキし始めたのは不思議である。霊の心と繋がったのだろうか。

さて、八幡神社に到着し、まずは神様にご挨拶をした。手を合わせて「私に力がなく、この魂が光に進みたくても進めないのであれば、神様どうぞお力をお貸しください」とお願いしたところ、頭のてっぺんからサーッとエネルギーが入ってきた。

そして、祈り終わってふと横を見ると、肩越しに私の父の名前が目に飛び込んできた。それは、この神社に寄付した人の名前が書かれた木の札であったが、そこには他に80ほどだろうか、寄付者の札が並んでいた。普通なら、それほどの数の中で特定のものを探すには時間がかかるのに、パッと一目で名前が入ってきたのは偶然ではないと思えた。父の名前を見た瞬間に、私は直感的にこの神社でよかったのだと確信した。

次に、布と花を供える場所である。神社の本殿から少し離れた丘の、正面からは見えない裏側に回って、そこにある大きな木を選んだ。表側に赤い布を置こうものなら、きっと年末大掃除か何かですぐに見つかって、捨てられてしまうだろう。そんなことをされたら、この霊は、おもちゃをとりあげられた子供のように、私のところに泣いて飛んでくるだろう。それはかわいそうだし、私もまた病気になっては困る。

誰もいないひっそりとした神社の木の根元に、布と花を供えた。このときも、ウキウキした気分になり「花きれいだねー」と声をかけていた。まるで、友達に話しかけるように。

その後、一緒に持ってきた線香に火をつけようかと一瞬迷ったが、地面は枯葉で覆われていたため、火事になると困るのでやめた。やめて正解。一般に線香はお寺で上げるもので、神社では不要であることに後から気づいて苦笑した。

神社を出る前に、呼び止められたかのように、境内の入り口付近にある古墳に引き付けられた。それは小さなものであったが、7世紀初めに建造されたと推定される横穴式石室のある遺跡であった。実家の付近には、他にも5世紀~6世紀頃の古墳群がある。今でこそ、山を切り開いて住宅地となってしまったこの地域一体は、その頃は全く異なる様相を呈していたのであろう。

この霊が地縛霊なので、何かこの古墳、神社、もしくはこの土地に深い関係を持った人かもしれないと思った。と同時に、私もひょっとしたら、昔にもこの地域に住んでいたのかもしれないと何となく思った。

神社を後にする私の心は、その日の青空のようにさわやかであった。あの霊は、大好きな布と花と一緒に、これからはあの木の所にいるだろう。私は自分の課題を無事終えることができたことに満足していた。

と、そのとき「People Who Don’t Know They’re Dead」の著者の講演会で、ウォリーさんが言った言葉をふと思い出した。

「もしかして、過去生で関係のあった魂かもしれないね」

私は今まで何度も帰郷しているのに、あんな風に病気になったことはなかった。振り返ってみると、今回のことは、夫の甥のJ君が発端になっているように思えて仕方がない。J君の魂は、昔自分がいた懐かしい場所を訪れていたのだろう。そして、彼を通して過去生の感情が蘇ったことで、私の中の閉じていたある部分が開き、それがこの霊を引き寄せたのかもしれない。それはいつの時代のことであったのだろう。もしかして、J君と私とこの魂は接点があるのかもしれない。

そして、これを書いている今、気づいた。そういえば、あの夢は私の友達を通して語るという設定だった。

もうひとつ、最初に私の背中から入った霊は、距離的に地縛霊の行動範囲ではなかったため、他の浮遊霊だったかもしれない。しかし、後からこの霊がエネルギーを抜き取っていたのは間違いないだろう。それは悪意があってやったことではなく、きっと赤い布と赤い花の「赤」に象徴される生命と活力にあこがれ、寂しさからやった行為なのだろう。それがデブラさんの言う「ちょっかいを出す」に当たるのかもしれない。そう考えると、生きている人間のような悩み多き霊に対して、逆に親しみが湧いてしまう。

結局のところ、真相は誰にもわからない。それでも、地縛霊が過去生の友達だったなんてことも、なきにしもあらず。

<おわり>

2008年7月4日

地縛霊は友達?!(3)


それは、ハロウィーンも間近の10月29日のことだった。家の近所にスピリチュアル系の書店があり、そこである著者の出版記念講演会が開かれた。

今振り返ると、これも今回の地縛霊体験の「パッケージ」に含まれていたのである。

私は、それより数日前に、引き込まれるようにその書店に立ち寄り、書店のイベントのスケジュールを載せた冊子をもらった。そこでは、ワークショップや新刊本の紹介、講演会などを定期的に開いていることを知っていたが、今まで実際に参加したことはなかった。ところが、家に帰って特に目的もなく冊子のページをパラパラとめくっていると、数日後に「People Who Don't Know They're Dead (死んだことを知らない人々)」の著者によるフリートークがあるという情報が目に飛び込んできた。

これを見た瞬間、衝動的に行きたいと思った。そのときの自分にとって、とてもタイムリーなトピックだし、ましてやタダ。損をすることは何もない。その上、通常大半のフリートークは夜の時間にあり、私には仕事があったり夫が家にいたりで外出するのは難しいが、それは週末の昼間の時間だった。まるで、私のためにすべてお膳立てされているようであった。

さて、講演会場へ行ってみると集まった人は20人足らずで、会場はこじんまりとしていた。著者は劇作家のゲイリー・リオン・ヒル氏で、彼の叔父ウォリーさんが霊能力のある友人の助けで行ってきた「死んだ人のカウンセリング」のことを綴ったものであった。トークは、ウォリーさんを交えて、その著書からのエピソードを抜粋して体験を語るもの。もちろん、著書の販売促進のためであるが、死んだ人がカウンセリングを受けて成仏していくなんて話は、スリル満点だ。ましてやそれが本当の話で、中には感動するものもあり、私は話に引き込まれていった。

ウォリーさんは、年は60代後半から70代前半といったところだろうか、一見見たところ、気のいい隣のおじいちゃんを思わせるまったく普通の人であった。しかし、死んで路頭に迷っていたり、間違った場所にいる何百何千体という霊と話をして光の方向へ導くという、普通では考えられないこと(特にアメリカ社会では、こういったことは強く否定される)に40年以上も真剣に携わってきただけあり、自分の役目を心得て、迷うことなくそれを貫いてきた強さのようなものがにじみ出ていた。

また、著者のゲイリーさんは、子供の頃からこの叔父さんの活動に強い興味を寄せていたが、後に劇作家という職業柄を活かして書くことを担当したようである。この素晴らしいチームワークは、きっと世の中に大切なことを伝えるべく、目に見えない大きな力が導いたであろうと思わずにはいられなかった。

講演会の最後に質疑応答の時間が設けられたが、私は一通り質問が終わるまで待って、日本での霊体験と、シャーマンが与えた課題のことを手短に話した。ウォリーさんは40年以上もの経験があるのだから、私のような事例があったのではないかと思ったからだ。お供えの仕方とか、霊を閉じ込める方法とか、そのようなことを教えてくれるかもしれないと密かに期待していた。ところが、私の話をじっと聞いていたウォリーさんの口から出た言葉は、「もしかして、過去生で関係のあった魂かもしれないね」だけであった。

「へっ?」

それが私の反応だった。

最後に、この「People Who Don't Know They're Dead」の本を買う人は、著者のサインをもらうために列を作った。もちろん私もその中の一人であったが、聴衆の一人が帰り際に近づいてきて「微笑ましいお話、どうもありがとう。日本でうまくいくといいわね」と言って声をかけてきた。私にとっては忌まわしい体験だったのに、聞く人の耳には微笑ましい話として伝わっていたことに少し驚いた。

さて、サインをもらおうとゲイリーさんとウォリーさんの前に本を持って立ったとき、私はなぜか急に熱い思いで胸が一杯になって言葉に詰まったが、かろうじて「今日ここへ来たのは、まったくぴったりのタイミングだったように思います」と言うと、ゲイリーさんは大きくうなずき、「AT THE RIGHT TIME -(ちょうどいいときに)」と書いてサインし、「あなたには力があるよ」と言って本を手渡してくれた。私は感動して涙が出そうになった。

そして、ウォリーさんも「あなたの心がそう思えば、そのスピリットと話をして導くことができるだろう、ガイドの方達の力を借りてね」と言った。私はガイドとのつながりのことなど一言も言っていないのに・・・。もしかしたら、それはウォリーさんを通じたガイドからのメッセージだったのだろうか。ゲイリーさんもウォリーさんも大らかでさらりとしていたが、私の目には尋常でない力を持った人達として映った。

それから数日間、私はその本をむさぼるように読んだ。死んだことを知らずにある一定の時間と空間に閉じ込められている魂がいること、迎えに来ている存在がいるので、それに気づかせることで光に導けることなどを読んで学んだ後、あたかも実習が用意されているかのように、夢で既に死んだ人が具体的な形で現われた(そのときのエピソードは http://hoshinoto.blogspot.com/2007/10/1.html に)。そのときは、光に導くことはできなかったが、閉じ込められている魂がいることを直に知った。

さらに、寄生虫さながら、霊には生きた人のエネルギーを吸って「生きた心地になる」ものもいるという。実は、これこそが私が日本で体験したことだったのだ。

あのときゾクッと寒気がしてから、あれよあれよという間に力が抜けていき、高熱を出して寝込んだその日、トイレに行ったついでに鏡で自分の顔を見たときは「生きた心地がしなかった」。鏡に映った自分の顔はまったく生気がなく、昨日まではツヤツヤして張りがあった肌はガサガサになり、目は落ち込んで頬はげっそりとし、老婆のようになってしまっていたからだ。生気を抜かれるというのは、ああいうことを言うのだろう。

「それにしても、あの霊は自分が死んだことを知っているのだろうか。私は光に導くことができるのだろうか。しかし、お供えをして霊をおびき出すということは、光のもとへは行けないということなのか・・・」そんなことを考えながら、本を読み進めていった。

赤い布のことは意識の中にはあったが、日本へ行く12月中旬まではまだ時間があったので、特に自分から進んで探そうとはしなかった。そういうことは、得てしてほとんど忘れているときにやってくる。

11月も半ばになり、衣装箱を整理していたら、気に入っているが長い間着ていないセーターが出てきた。着ない間にボタンが派手すぎる年になってしまっていたが、少し地味目のものに付け替えればあと2~3年は着られる。

さっそく、近くの手芸店へボタンを買いに行った。大きい店だったので、ありとあらゆる種類のボタンがあり、選ぶのに時間がかかった。そして、やっと気に入ったものを見つけたときに、ふと布地のことが頭に浮かんだ。「ああそうだ、はぎれ・・・」

布売り場に行ってみると、はぎれの山の中にひとつだけ赤い布があった。選択の余地はない。ところが、その赤い布は、細かい模様こそ入っていないが、色といい光沢といい、あの時ふと浮かんだものとかなり近かった。それは、あまりにも簡単すぎる布探しとなったので、デブラさんに言われた後、あれほど緊張した自分を思い出すとフッと笑いがこみ上げてきた。

「これで課題ひとつクリア!」心が少し軽くなった。

家に帰ったその夜、袋から赤い布を出して、さてどうしたものかと考えた。ヤード単位でしか買えないので大きかったが、やっぱりハンカチくらいがいいだろうと思い、切って端を手で縫った。

裁縫なんて久しぶり。しかし、実は手縫いほど愛情がこもったものはないのである。気がつけば、私はその霊のことを敬う気持ちで縫っていた。

「どうせなら、綺麗に仕上げてあげよう」
そして、縫っている間、ちょっぴり弾む気持ちになった。

なぜそんな風に感じたのだろうか。相手を恐れ、この布に引き付けようと念を込めて縫う一方、敬う気持ちや弾む心があるとは。それはまったく理不尽なことであった。

布が出来上がると、後は霊が好きな場所だけである。デブラさんと話している時に瞬間的に浮かんだ実家の近所の神社については、それがあまりにもすぐに浮かんだので、あてにはならないと思った。

「こういう大切なことはじっくり瞑想でもしてわかるものだ」そう信じていたので、何度も瞑想を試みた。ところが、いつも眠くなって失敗してしまう。

そうこうしているうちに、日本へ発つ当日となってしまった。
「まあ飛行機に乗っている間に考えよう」
しかし、考えようとすると、頭がボーっとしてしまう。

結局何も浮かばなかった。そして、とうとう実家の近くの駅まで来てしまった。夜道を運転する父の隣に座り、黙ったまま正面の暗闇を見つめて私は考えた。

「あの霊は私が来たことをもう知っているのだろうか。一体どのくらいの距離で察知するのだろう。ひょっとして、もうこの車に同乗しているのだろうか」

後ろを振り返ってみたが、夜の闇は沈黙とともに私を見守るだけである。まもなく実家の玄関の明かりが近づいてきた。

<つづく>