2008年12月25日

体を寄せ合うペンギンのように

あなた方一人一人はろうそくの光です
1本のろうそくの光よりも、10本の束の方が明るく
10本よりも100本の束の方が明るい

今こそ、お互いに助け合うときです



クリスマスの今日、心に流れてきた言葉。

この言葉を心の中で繰り返したとき、ふとペンギンの姿が浮かんだ。

マイナス80度の吹雪の中で、一塊になって体を寄せ合って耐えるペンギンの姿。横なぐりの強風がまともに当たる外側のペンギンは体力を消耗するので、内側のペンギンと位置を交代する。過酷な環境の中での愛と支え合い。そうやって、みんなでしのぐ。

他を生かすことは己れも生きることになる。

それが生き延びるためのペンギンの知恵。

世界に冬の時代が到来し、これから寒さはますます厳しくなる。

相手の中に自分を見、自分の中に相手を見ることができれば、自分だけよければよいという考えはなくなる。

ペンギンの知恵は、自然の大いなる智慧。

愛と支え合いの心に火がともる。


あなた方一人一人はろうそくの光です
1本のろうそくの光よりも、10本の束の方が明るく
10本よりも100本の束の方が明るい

今こそ、お互いに助け合うときです

2008年12月18日

もうひとつの結婚?

「今のだんなさん以外に、もう一人結婚してもよかった相手がいましたね」

ええーっ!?

沖縄に旅行中のある夜、旅のお相手のひよこさんと、ホテルの部屋でくつろいでいるときのことだった。ひよこさんは手相に詳しいということで、以前、遊び半分で、何人かで軽く見てもらったことがある。そのときに、私の結婚線をちらっと見たひよこさんは「あれっ?」と首をかしげて、「後でメールしますね」と言った。

夫のことで何かあるのだろうか、これから何か起こるのだろうか、そう思うと少し怖くなった。結局メールは来なかったし、今知る段階ではないのだろうと感じたので、流れに任せることにした。

知る準備ができたのは、岡部明美さんのワークショップに参加して、長い間自分の中にあった壁が破れ、壁の向こうで待っていた大切な自分の一部に気づき、大きな意識の変化が起こった後のことであった。

ひよこさんによると、手相というのは、ものすごい数の人の手相から集められた情報に基づく統計学だという。手相というと運命が決まっているかのように考えがちだが、創造する方の手の線は、どんどん変わるということである。まさに、自分の意志で道を切り開くのである。

過去の情報に関しては、幼い頃から今までに起こった大きな出来事の情報が、年齢と共に手に刻まれている。私の場合は20歳と35歳と出ていた。20歳は啓示的なメッセージを受け取ったとき、35歳は目に見えない世界への入り口に立ったときで、どちらも人生の目的へと太く通じる出来事であった。どんぴしゃり。

次に、問題の結婚線。一瞬緊張した。

ひよこさんは、とても柔らかい優しい声で「23歳から24歳のときに、結婚してもよかった人がいましたね」と言った(ちなみに結婚したのは29歳のとき)。

えっ?その年齢のとき、私には付き合っている人はいなかったけど・・・。

おかしいなあと思いながら寝て、朝起きた時に「あっ!」と声を上げそうになった。

大学を卒業して就職した会社の同僚で、とても気の合う人がいた。漫画「うる星やつら」のあたるに似ていたので、いつしか他の同僚から「あたる」と呼ばれるようになり、私もそう呼んでいた人。

彼は営業課で私はシステム課。職場はビルの向こうとこっちで離れていたが、彼はよく私を誘ってくれ、退社後、二人でお茶を飲みに行ったり、食事をしたり、コンサートに行ったり、週末もよく会っていた。今思い返せば、それは23歳のときのことであった。

当時、新卒の新入社員は、男女合わせて23人だった。いつもみんなでつるんでいたので、上司や先輩からは「新人類」と呼ばれ、「ここは仲良しクラブじゃない、社会人としての自覚を持て!社会に出れば、同期だってみんな競争相手なんだー!」と先輩にカツを入れられたこともあったが、そんなことお構いなし。退社後、みんなで食べに行ったり遊びに行ったりと、本当に仲がよかった。

私にとって、あたるはその延長線上にいた。一緒にいて何の違和感も感じない、完全に安心できる相手だった。

しかし、それは長くは続かなかった。私は職場の仕事が自分に合わなくて病気になったため、入社1年後に辞職した。それがきっかけで、あたるとは以前ほど会わなくなった。それから2年後の26歳のとき、私はアメリカに留学。その年、あたるは家業を継ぐため退職して、ほどなく結婚した。

それであたるとのストーリーは終わりのはずなのだが、実は、彼はつい最近まで、しばしば私の夢に登場していた。しかも、彼が出てくるときは、必ずと言ってよいほど恋愛感情が絡んでいた。あのときはなかった感情・・・。

と思っていたのは、浅い部分の私で、深い部分の私は、あたると強く繋がっていたことを知るに至った。この結婚線がきっかけで、今まで記憶の端っこに散らばって引っかかっていたパズルのピースが、一気に吸い寄せられて繋がった。

彼だけが私を「じゅんちゃん」と呼んでくれていた。これは子供の頃だけ呼ばれていた、聞くと心がポッとあったかくなる呼び名。中学・高校のときは専ら「くら」、大学時代には「くら」または「くらじゅん」。どちらも個人的にはあまり好きでない呼び方だった。

子供の頃の自分が本来の自分に一番近いとしたら、大人になってからでも、彼が唯一、意識の深い部分で本来の自分と繋がっていたのかもしれない。

誕生日に「たまたま」チケットが2枚あるから、と言ってコンサートに連れて行ってくれた。退社後食事に行った後は、必ず車で家の前まで送ってくれた。1時間半くらいかかる通り道のりを、夜遅いのに。

そこから彼の家まで戻るには、高速でも1時間以上かかり一般道路なら3時間近くかかるので、時間とお金を節約するために途中でサウナの仮眠室に泊まって、そこから出勤していたということを、後から知った。

会社のクリスマスパーティで、私が着ていたブラウスの襟が首のところでひっくり返っていたのを、後ろから黙って直してくれた。私が病気になったときは、私の課の同僚と一緒に、家までお見舞いに来てくれた。そして、私がアメリカに留学するときには、出発直前に空港に駆けつけて、私の両親と共にデッキで見送ってくれた。

夜遅く家の前まで送ってくれても、指一本触れたこともないし、付き合っているとか好きだとか、そういうことは一度も言わなかった。仲のよい友達・・・。

その彼と、今から12年ほど前帰郷した際に、7年ぶりに会って一緒に食事をした。アメリカに戻るその日、空港へ行く途中で会った。家業を継いで伝統職人になった彼。ちょっとフケて見えたので驚いたが、奥さんと家内別居状態だった。3人の子供がいて、一番下の子供はまだ2歳にも満たなかった。きっと様々な精神的苦労があったのだろう。奥さんとのすれ違いの話から、過去の話に移った。

「全然変わってないね」と彼が言った。

「私、あたるがすぐ結婚したからびっくりしたよ」

「じゅんちゃんが、アメリカに飛び立ったとき、『ああ、この人は本当に飛び立って行ってしまった』と思った。家のこともあったから早く結婚したかったし、そう思っていた時に、今の奥さんと出会ったんだ・・・でももし、あのとき俺とじゅんちゃんが結婚していたら」

その瞬間、カーッっと自分の頬が赤くなるのがわかった。ええっ!?そんなこと考えていたの!私たちは付き合っていたのか!と、心の中で慌てふためいた。

彼と結婚していたら、私の人生はどうなっていただろう。伝統職人の家へ嫁いで、同居。いや、もうそこまででも考えられない。あり得ない。

「じゅんちゃん、幸せ?」そう微笑んで聞いた彼の顔には、あのときの彼と、今の傷ついた彼が交錯していた。

食事だけのつもりだったのに、時間があるからと言って、結局、彼は空港まで送ってくれた。最後に、お互い国は離れていても頑張ろうねって力強く握手して、私は保安検査場へと歩き始めた。すると、後ろから追うように、彼の声が飛んできた。

「だんなさんに優しくしてあげなよ!」

私は振り返って、アッカンベーをした。

結婚してもよかった相手と、結婚した相手。

あたると夫には、大きな共通点がある。

どちらも、私を一人の人間として尊重してくれ、それとない形で優しく包んでくれる。ある感謝の念が沸き起こった瞬間、夫とあたるは固体としては異なるが、同じ種類の魂として重なった。

私を支えてくれる魂。

見えている世界の裏側にある見えていない世界が、心の目に浮かんでくる。26歳のあの日、空港での見送りを境に、私とあたるの道は離れた。あたるは家業を継いで結婚し、私は、やがて夫と出会うきっかけとなるアメリカへ。あのとき、あたるから夫へバトンタッチがあった。

結婚線が語ったストーリーは、私を促す。

だからこそ、今を大切に生きなければ。

2008年12月16日

この世に大切なのは・・・

♪ この世に大切なのは~
愛し合うことだ~けと~
あなたはおしえてく~れる~ ♪

10月23日。日本へ出発の朝、搭乗機が離陸し、空へ向かって上昇する。雲の中に差し込んでくる太陽の光をボーっと見ていたら、いきなりこの歌が頭に浮かんだ。意識を向けて心の中で繰り返してみる。その瞬間、急に涙がこみ上げた。

そういえば、半年前の4月、沖縄を発つ飛行機の中で、眼下に広がる海をボーっと見ていたときにも、いきなりこの歌が頭の中に入ってきたのだった。松崎しげるの「愛のメモリー」

「この世に大切なのは、愛し合うことだけ」

今、この言葉をしみじみと噛み締める。

すると、ある出来事が思い出された。かれこれ14年前のこと。ある夜、アラバマにいるトムから私の夫に電話があった。

16年前、夫と私はサンディエゴに住んでおり、そこでひょんなことからトムと知り合った。彼との接点は国際結婚。トムとはそれほど親しいわけではなかったが、結婚に関わる移民法のことで夫が彼の相談に乗ってあげていたことから、以後、トムはときどき夫に近況報告をしてくるようになった。

当時トムは航空会社に勤めていたが、ある日、空港で若い日本人女性と電撃的な出会いをし、恋に落ちた。その場で彼女に声をかけ、2回めのデートで一緒にスキューバダイビングをしたという(ちょっと変わったデート?)。20歳以上年下の彼女は、数回デートした後、彼のプロポーズに応えた。

留学生としてアメリカに渡った当時23歳の娘が、自分たちとさほど年が変わらない男性と突然結婚するというのだから、それも、これからずっとアメリカに住むというのだから、親は反対しないわけがない。

しかし、そんな親の反対を押し切って、二人はあっという間にゴールイン。トムは全然カッコよくない、頭のはげた気弱な中年のおじさん。結婚式でも、トムの方がビービー泣いていて、彼女がそんなトムの肩にそっと手を置いていた。なんで彼と結婚するのだろう?

私は、彼女はアメリカにいたいから打算的な考えが働いたのだろうかと最初は疑っていたが、彼女と個人的に話してみたら、彼女にとってもやはり運命的な出会いだったという。「これだけ年が離れているから、彼が私よりずっと先に死ぬことは覚悟してる」と笑ってみせた。若くても彼女はしっかりした女性だった。

結婚してすぐに二人の間に男の子が産まれ、やがてトムは異動で一家はアラバマへ。まもなく航空会社に不況の波が押し寄せ、トムは職を失う。彼女は専業主婦なので、たちまち収入源が断たれる。貯金も底をついた頃、トムは同じ業界でやっとパートの仕事にありつけた。

極端に切り詰めた生活が続く。トムは節約のため、奥さんが作ってくれたお弁当を持って、毎日早起きして、雨の日も風の日も、家からの長い道のりを自転車で通勤した。クタクタになるまで一生懸命働いて、それでもまた自転車をこいで帰らなければならない。毎日毎日この生活が続く。

パートの給料はしれたもの。生活費、すくすく育つ赤ん坊のミルクやおむつ、洋服代にお金は消えていく。日本にいる彼女の友達の多くは、きっとブランド物に囲まれて、優雅な独身生活を楽しんでいるのだろうが、彼女は家計のやりくりにヒーヒー言って、子育てと家事に追い回される。現実世界は厳しい。

トムだって同じ。趣味や遊びにお金を遣うわけでもなく、やっとありついた仕事を再び失わないように、ひたすら家族のために働いている。彼だって苦しい。

14年前のその夜、夫にかけてきた電話でトムはこう言った。

「ぼくは毎日毎日自転車をこいで、疲れて眠くてフラフラになりながらも、それでも一生懸命自転車こいで仕事に行くんだよ。こんな生活苦しいさ。でもね、仕事があるだけ有り難いと思っている。今はね、雨露しのげるだけの場所があって、家族が元気に一緒にいられたら、それだけで僕は幸せなんだ。彼女と一緒にいられるだけで嬉しいんだ。

今日は結婚記念日だったから、お金がなくて彼女にプレゼントなんてあげられないけど、でもせめて彼女と一緒に祝いたくて、3ドルの一番安いワインを買って、かばんに入れて、一生懸命自転車こいで帰ってきたんだ。彼女の喜ぶ顔を想像してね、それを思うと疲れも吹っ飛んだ。

でも、家に着いて彼女にワインを見せた瞬間、彼女なんて言ったと思う?
『ワインを買うようなお金があったら、なんで生活費に回してくれないの!』
目を吊り上げて、すごいけんまくで怒鳴るんだよ」

そう言って、電話口で泣いていたという。私にこの話をする夫の目も涙ぐんでいた。

悲しい。きっとトムは自分を情けなく思っただろう。

でも、彼が悪いわけではない。彼女が悪いわけでもない。生活が苦しくなってくると、誰だって心がカサカサしてくる。相手を思いやる余裕なんてなくなってくる。

景気後退、大幅な減益、派遣切り、採用取消し・・・毎日ニュースは不況のことばかり。不安は体を硬直させる。日本もアメリカも冷え込む経済で、この冬はさらに寒さが身にしみる。

トム一家はあれからどうなっただろう。その後連絡が途絶えたままだ。

複雑で困難で先が見えない暗い今の世の中、世界中にあのときのトムと彼女がいる。

カサカサの心を潤してくれるのは安心感。物質で心が潤されることもあるけれど、それ自体は厳しい冬を暖めてくれる炎のような暖かさは持っていない。

凍えるような心には、人の心の温かさが一番あったかく感じるものである。

こんなときだからこそ、互いに寄り添って
辛いときだからこそ、強い絆で支え合い、励まし合い
慈しみ合い、暖め合って
荒波を乗り越えよう
きっと乗り越えられる

飛行機の中で聞こえてきたあの歌は、天からのメッセージ

この歌に涙あふれるのは、心は知っているから

「この世に大切なのは、愛し合うことだけ」と

2008年12月12日

シアトルに戻りました、ブログ再開です


ブログを2ヶ月近くご無沙汰してしまいました。日本へ帰っていたのですが、なんせ実家に置いてあるチョー遅いコンピュータで、これに輪をかけて遅いダイヤルアップでしか接続できず、それだけでストレスで頭が爆発しそうになったので、ブログはお休みさせていただいていました。

こちらシアトルに戻って約1週間。ようやく時差ボケもとれてきましたので、そろそろブログを再開したいと思います。「どこ行った~、日記は書いたか~」とチェックしてくださっていたみなさん、どうもご迷惑をおかけしました。

これからまた、自分なりに気づいたこと、体験したことを書いていこうと思います。これまで、お付き合いくださってありがとうございます。拙い文章ですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さてさて、日本へ行く前に日記に書いた「キツツキの合図(http://hoshinoto.blogspot.com/2008/10/blog-post_15.html)」、あれはやっぱりそうでした。

<抜粋>
・キツツキが現れたときは、新たな霊的な飛躍が訪れるときであるという。
・その独特なリズムは、私たちに地球や他の動物の鼓動に合わせることを教えている。
・人生に新しいバランスが訪れることを象徴している。
・キツツキが現れたとき、それは、成長が加速し、癒やしの新しいリズムと能力に目覚めるときである。
<抜粋終わり>

日本で何が待っているのだろうと思った時、
「起きる出来事、出会う人々、目に入ってくるもの、耳に聞こえてくるもの、湧き起こる感情。それらひとつひとつに偶然はなく、意味がある。自分の気づきと成長へとつながる」という言葉が浮かんだのですが、まさにその通りでした。

今回の帰郷は今までで最も長く、夫をシアトルに置いて自分だけで帰ったので、自分のペースで自由に動くことができました。横浜にいる双子の魂の友人を訪ねたのを皮切りとして、伊勢神宮、大神神社(奈良 山の辺の道)と周辺神社にお参りし、ソウルメイトの友人と宮古諸島・沖縄本島11日間の旅(不思議いっぱいの珍道中)をして、さらに沖縄の旅の途中で岡部明美さん(http://anatase.net/)のワークショップに参加しました。両親、姉、甥、そして何よりも自分自身に対して新たな気づきがありました。

私にとって今回すべての体験が特別で神聖なものとなり、沖縄の大自然と繋がることで、自分の原点に戻ることができました。岡部明美さんの衝撃的な(!)ワークショップで私は自分の中のバランスを取り戻し、生きることの素晴らしさを全く違う角度から発見することができました。そして、自分の人生の新たな船出へと・・・。

今回の旅は、私をそのような方向へと優しく押し出してくれました。

旅で出会ったすべての人、訪れたすべての場所、起こったすべての出来事に感謝します。

次に何が起こるか、人生面白くて仕方ない、そんな心境です。

このゼロ(原点)に戻る旅の話を、これから少しずつお話したいと思います。


<写真:来間島の長間浜>