昨年11月に帰省して、自分が作った環境エッセンスを友人に見せて、感じるままを熱く語ったとき、彼女がそう言ってくれた。
私には、有難いことに、私の中のエゴや迷いで心が曇っているときに、それを鋭く指摘してくれる友がいるが、彼女はその一人である。
「らしくない」
「見ていて怒れてきたよ」
「それ、全然違うじゃない」
ポツンとそう言う。
そう言われた瞬間、それを聞いた頭は衝撃を受けるが、ハートの部分から「ああやっぱりね」という言葉が飛び出てきて、どこか楽になる。立て板に水を流すがごとく、言葉巧みに褒められるよりも、そういうポツンとした言葉で叱られる方が、グッと心の奥まで届くのである。
自分が見たくない影の部分が、相手にはガラス張りになっている。それを率直に伝えてくれる人はそういるものではないからこそ、私にとってそういう友は宝である。
うまくやりたいとか、認められたいとか、そんな思いは「重い」。どこかで無理して頭の中で計算して、不自然で重い。そのために、膨大なエネルギーを消耗している。でもなかなか取り外せない。そんなとき、お叱りの言葉に「カツ」を入れられ、生き返るのである。
生き返って一呼吸すると聞こえてくる言葉。それはどれも、頭で考えていたこととは逆方向にある。
何を感じてもよい。我慢しなくていい。ありのままでいる。
心は本来伸びやかである。それをその通り伸びやかに表現することが自分らしさであり、それを表現した瞬間に、一滴のしずくが水面に落ちるように粒子となって宇宙全体に広がるのなら、生きるということはあらゆる面で創造であるのだろうと思う。
ここシアトルは昨日から雪景色になり、昨日、今日と静かに内の中を楽しんでいる。
「じゅんちゃん、やっと軌道に乗ったね」
嬉しかった言葉。それを感じ取ったら、こんな絵になった。
今まで生きてきて、様々なことを体験して思い込みのパターンを繰り返し、自己否定に陥ってがんじがらめになったこともあるが、どれもが自分にとって真っ黒な肥沃な土になってくれていることに感謝できるようになった。
そうしたら、そこには身軽になっていくことの楽しさが待っていた。
あるときスポンと抜けて、上に飛び出た。すると、眼前に透明な軌道が広がっている。執着のない創造の領域。そこをどうやって歩いていくのか、わかっているようでわかっていない(けれど、本質はやっぱりわかっている?)だからこそワクワクする。
友人のまゆちゃんに捧げる。
<写真> 「やっと軌道に乗ったね」の絵