本日1月28日から2月19日までは水星が逆行する。水星の逆行は年に3回起こるが、地球から見ると、水星が通常の進行方向ではなく、逆の方向に戻っているように見えることを逆行と呼ぶそうである。
私は占星術を学んだわけではないので、詳しいことは専門家にお任せすることにして、この水星の逆行から気づいたことをお伝えしたい。
水星はコミュニケーションや交通、それに関連した通信機器などに影響を与える星で、逆行する期間は、概してこれらのことがうまく行かないときである。送ったはずの電子メールが届いていない、間違い電話がある、ファックス機やコンピュータが壊れる・調子が悪い、人にうまく意思が伝わらず誤解される、車が故障する、渋滞に巻き込まれる、飛行機が遅れるなどはその典型的な現象である。
また、過去に解決されていないことが別の形で浮上したりして、もう一度見つめ直さなければならない状況になる場合もある。逆行には過去のことが関係するようで、古い友達やずいぶん長い間会っていなかった人にばったり会ったりすることもある。
この期間は物事がスイスイとうまく進むときではないため、新しいことを始めたり、特に車など高価なものを購入することは避けた方がよいようである。また、契約書などの重要な書類にサインすることも避けた方がよいということである。
御多分にもれず、私の周りでもこの期間には何かが起こる。原因不明でインターネットに接続できなくなったり、インドからの間違い電話があったり、先回の逆行のときには、セネガルから間違い電話があった。うちは国際電話は日本からだけであるが、こういう突拍子もない間違い電話は必ずと言ってよいほど逆行期間に起こる。
コミュニケーションがうまく行かない例として、何年か前に指輪をリフォームすることがあって、水星の逆行期間が終わるまで進めない方がよいと人に言われたにも関わらず、それを無視して自分でデザインを考えて、これを作ってくれとデザイナーに渡したところ、全く違うデザインでできて来たのでびっくりしたことがあった。幸い指輪の型の段階だったので、作り直すことができ問題はなかったのであるが、あまりにもかけ離れたデザインは一体どこから来たのか不思議であった。
未解決の問題の浮上の例としては、逆行期間になると、なぜか夫とけんかをする状況になって、その都度夫に腹を立てる自分があり、そんな自分がとても嫌だった。普段は穏やかなのだが、なぜか逆行期間になると必ずというほど何かの出来事が起こって、同じ感情が戻ってくる。その原因を見出さない限り、その場でなんとか感情を抑えても、また次の逆行期間に違った出来事で同じ感情に陥り、そこから抜け出せないのである。結局、逆行期間とそのパターンが重なることに気づき、逆行は過去の解決されていないことが浮上する期間であることを知るまでに時間がかかったが、それを知ってから内省して、やっと原因を突き止めることができた。原因は夫ではなく自分にあった。
こう書くと、いかにも水星の逆行は悪い期間のように聞こえるかもしれないが、そうではないと思う。「三歩進んで二歩下がる」と歌にもあるように、人生の中でスローダウンして下がるときも必要であるということであろう。出かけるときにはいつもより時間に余裕をもって行動するようにしたり、コミュニケーションにはいつもより言葉や表現に気をつけるなど、行動や思考に対して全体的に速度を緩めるときなのであろう。
この期間は、エネルギーが内向きになるときなので新しいことを進めるのではなく、「きちんと終わっていないもの」を片付けるときであり、内省するときである。内省することにより見えてきたことを基に、転換して行くチャンスのときでもある。
また、過去に関連して、古い友達などにばったり会ったりするときでもある。第一日目である本日は、長い間会っていない知人から電話があった。飼っている犬が突然いなくなって探しているとのことである。以前、私はアニマルシェルターでボランティアをしていたので、シェルターの住所を聞こうと思って電話をかけてきたそうだ。先ほど、水星の逆行について、ある方のブログを見たら、逆行はペットにも影響を与えると書いてあった。具体的にペットがどうなるのかはわからないが、知人に起こったことも関係しているのだろうか??
いずれにしても、私たちは宇宙の一部であり、決して全体と切り離されてはいない。占星術の詳しいことは知らないが、水金地火木・・・と学校で覚えたこれらの惑星と私たちは、深く関わっているのである。それぞれの惑星に特徴があり、例えば土星は秩序、法律、自己規律、ルール、権威、社会、組織などを現すとのこと。そして、その動きも関係し、とても興味深い。そのため、占星術で自分が生まれたときの星の位置により、仕事や健康、家族、性格、今生の目的などを含め、過去生から未来に至るまで、さまざまなことがわかるそうである。
これから3週間あまりは、新しいことを始めるのではなく、自分の内外共に片付ける方に焦点を当てた方がよいようである。メールが届かなかったり、飛行機がキャンセルされたりと通信・交通に乱れがあっても慌てないように。
ちなみに水星の逆行は、今年はこのほかに5月26日~6月19日までと9月24日~10月15日までである。
2008年1月28日
2008年1月24日
こだわり (8/17/2007のブログ)
ちょっと遅れますが、一昨日強く心に響いたメッセージを。
・ 頭でゴチャゴチャ考えない
・ 心が導く方向へ
・ 成り行きにまかせる
実は今、ある人と行動を共にして学んでいることがある。それは、「こだわり」ということである。
こだわることは物などをクリエイトする世界ではプラスになることが多いが、日常の物事において度合いが過ぎるとマイナスになるように思う。
何がそうさせているのだろうか。
こだわることで制限がかかり、流れるエネルギーが止まってしまう。
例えば、過去のある出来事を今でもしっかり覚えていて、そのことにこだわって感情を開放していない。色眼鏡をかけた状態なので、その世界に閉じ込められたままになり、周りはどんどん変化しているのに、自分だけその一点にいる状態である。
マイナスの方向に向いたこだわりのエネルギーはとても粘着性があり、コールタールのように感じる。思考がある一点に執着しているため、一緒に行動していると、あちこちに粘着物がくっついてくるような感じである。
小さいことにこだわって前に進めなかったり、行動が制限されて見る世界が狭くなってしまう。ひょっとしたら、この「こだわり」は足や目に影響するかもしれない、と感じる。
一昨日は、この人と一緒に海を臨む小高い場所にある「パイクプレイス・マーケット」という市場に出かけたが、そこでとても興味深いことが起こった。
この日はこれ以上ないというくらいの晴天で、海が太陽の光を受けてキラキラと輝き、それはそれはきれいな光景であった。
海を見た瞬間、「そばまで行ってみたい!」という衝動に駆られ、お互いにパッと顔が輝いたのだが、その後すばやく彼女の頭が回りはじめた。海までは、長い長い階段を下りなければならなかったのだ。
「階段は大変だ」「自分は足が悪いので、歩けなくなったら相手に迷惑をかける」「不安だ」「ここで歩いて、明日歩けなくなったらどうしよう」・・・というようなことを考えているようで、その挙句、彼女の口から出た言葉は「まあ、海はどこでもいっしょだろうから、別にわざわざ行かなくてもここから見ているだけでいい」
日本から来た彼女が、シアトルの海を見て「どこでもいっしょだろうから」と言ったとき、私は直感的に「これはいけない」と感じた。体験する前に理屈をつけて頭で決めてしまうと、そのままを心で感じ取ることができなくなるからである。しかし、彼女の心は明らかに「行ってみたい」と言っていた。
私は「行ってみよう、ゆっくり行くから」と言って、先に歩き出した。幸い、降りる方が楽で、彼女の足腰にあまり負担はかからないようだ。途中でエレベーターがないか探し、それらしき物があるのが見えたときは、彼女の顔も明るくなった。でも、結局それは故障していて動かないことがわかり、不安な気持ちが戻ったようであった。
私も頭で考えると、帰りにこの階段を上るときどうなるのか、彼女の足は明日痛んで歩けなくなるのではないかと心配になり始めたが、何かの力がそれを邪魔するようにすぐに頭が真っ白になってしまい、「ま、いいか。後は野となれ山となれ」という具合。
それでも、何の問題もなく海のそばまで来ることができ、さんさんと輝く太陽の下、磯のにおいをかぎ心地よい風を頬に受け、「あぁやっぱり海はいいねー」と言った彼女はとても満足げ。それは、何にも変えられない心地よさだったのだろう。私は「ここまで来られてよかったね」と心の中でつぶやいた。
さて、帰るときに興味深いことが起こった。長い階段へ戻る途中で信号を待っているときに、足の悪い高齢の母親を連れた息子が前に立っていて、「エレベーターに乗ろう!どこにある?」と大声で話しているのだ。
迷いもなく、私たちはその母息子に加わって、信号の向こう側にある駐車場まで歩いた。もちろん、駐車場にはマーケットまでのエレベーターがあって、私たちは全く階段を使わなくても元来た場所に戻ることができたのである。
壊れたエレベーター以外にもエレベーターはあったのだ。でも、来るときはそのことを知る必要はなかったようである。
あまりのタイミングのよさと完璧さ。これは、天からの助け、というかご褒美だったのだろう。
「頭でゴチャゴチャ考えずに、心の導く方向へ成り行きにまかせて行きなさい」「ほらね、大丈夫でしょう」そう言われているようだった。
彼女といてこそ体験できる、学べるということを知りながらもついイライラしてしまったり、きつい言葉を発してしまう私はまだまだ未熟者である。それは、私の中にもコントロールしたい部分があるからだろう。私にも「こだわり」があるからなのだろう。
こだわりを捨てて制限をとり、心と対話をして感じるまま、風まかせの生き方ができたらどんなに楽だろう。どんなに楽しいだろう。そうしたら、見える世界が全く違ってくるだろう。それは、ちょっと意識を変えるだけでできることなのである。
私もそうなりたい。
・ 頭でゴチャゴチャ考えない
・ 心が導く方向へ
・ 成り行きにまかせる
実は今、ある人と行動を共にして学んでいることがある。それは、「こだわり」ということである。
こだわることは物などをクリエイトする世界ではプラスになることが多いが、日常の物事において度合いが過ぎるとマイナスになるように思う。
何がそうさせているのだろうか。
こだわることで制限がかかり、流れるエネルギーが止まってしまう。
例えば、過去のある出来事を今でもしっかり覚えていて、そのことにこだわって感情を開放していない。色眼鏡をかけた状態なので、その世界に閉じ込められたままになり、周りはどんどん変化しているのに、自分だけその一点にいる状態である。
マイナスの方向に向いたこだわりのエネルギーはとても粘着性があり、コールタールのように感じる。思考がある一点に執着しているため、一緒に行動していると、あちこちに粘着物がくっついてくるような感じである。
小さいことにこだわって前に進めなかったり、行動が制限されて見る世界が狭くなってしまう。ひょっとしたら、この「こだわり」は足や目に影響するかもしれない、と感じる。
一昨日は、この人と一緒に海を臨む小高い場所にある「パイクプレイス・マーケット」という市場に出かけたが、そこでとても興味深いことが起こった。
この日はこれ以上ないというくらいの晴天で、海が太陽の光を受けてキラキラと輝き、それはそれはきれいな光景であった。
海を見た瞬間、「そばまで行ってみたい!」という衝動に駆られ、お互いにパッと顔が輝いたのだが、その後すばやく彼女の頭が回りはじめた。海までは、長い長い階段を下りなければならなかったのだ。
「階段は大変だ」「自分は足が悪いので、歩けなくなったら相手に迷惑をかける」「不安だ」「ここで歩いて、明日歩けなくなったらどうしよう」・・・というようなことを考えているようで、その挙句、彼女の口から出た言葉は「まあ、海はどこでもいっしょだろうから、別にわざわざ行かなくてもここから見ているだけでいい」
日本から来た彼女が、シアトルの海を見て「どこでもいっしょだろうから」と言ったとき、私は直感的に「これはいけない」と感じた。体験する前に理屈をつけて頭で決めてしまうと、そのままを心で感じ取ることができなくなるからである。しかし、彼女の心は明らかに「行ってみたい」と言っていた。
私は「行ってみよう、ゆっくり行くから」と言って、先に歩き出した。幸い、降りる方が楽で、彼女の足腰にあまり負担はかからないようだ。途中でエレベーターがないか探し、それらしき物があるのが見えたときは、彼女の顔も明るくなった。でも、結局それは故障していて動かないことがわかり、不安な気持ちが戻ったようであった。
私も頭で考えると、帰りにこの階段を上るときどうなるのか、彼女の足は明日痛んで歩けなくなるのではないかと心配になり始めたが、何かの力がそれを邪魔するようにすぐに頭が真っ白になってしまい、「ま、いいか。後は野となれ山となれ」という具合。
それでも、何の問題もなく海のそばまで来ることができ、さんさんと輝く太陽の下、磯のにおいをかぎ心地よい風を頬に受け、「あぁやっぱり海はいいねー」と言った彼女はとても満足げ。それは、何にも変えられない心地よさだったのだろう。私は「ここまで来られてよかったね」と心の中でつぶやいた。
さて、帰るときに興味深いことが起こった。長い階段へ戻る途中で信号を待っているときに、足の悪い高齢の母親を連れた息子が前に立っていて、「エレベーターに乗ろう!どこにある?」と大声で話しているのだ。
迷いもなく、私たちはその母息子に加わって、信号の向こう側にある駐車場まで歩いた。もちろん、駐車場にはマーケットまでのエレベーターがあって、私たちは全く階段を使わなくても元来た場所に戻ることができたのである。
壊れたエレベーター以外にもエレベーターはあったのだ。でも、来るときはそのことを知る必要はなかったようである。
あまりのタイミングのよさと完璧さ。これは、天からの助け、というかご褒美だったのだろう。
「頭でゴチャゴチャ考えずに、心の導く方向へ成り行きにまかせて行きなさい」「ほらね、大丈夫でしょう」そう言われているようだった。
彼女といてこそ体験できる、学べるということを知りながらもついイライラしてしまったり、きつい言葉を発してしまう私はまだまだ未熟者である。それは、私の中にもコントロールしたい部分があるからだろう。私にも「こだわり」があるからなのだろう。
こだわりを捨てて制限をとり、心と対話をして感じるまま、風まかせの生き方ができたらどんなに楽だろう。どんなに楽しいだろう。そうしたら、見える世界が全く違ってくるだろう。それは、ちょっと意識を変えるだけでできることなのである。
私もそうなりたい。
言葉のチカラ
言霊(ことだま)と言われるように、言葉には波動がある。特に、「愛」「光」「平和」「調和」のような言葉は高い波動を持っているようだ。
昨年日本へ帰る飛行機の中、目を閉じて「調和」「光」「愛」という言葉を繰り返してみた。瞑想状態でやってみたが、明らかに、体は通常とは異なるエネルギーを受け取っていた。
クラウンチャクラ(頭のてっぺん)からエネルギーが入ってきて、体が熱くなるのがわかる。また、言葉によって感じるエネルギーも違うようだ。
飛行時間が長いので、何度もやっているうちに、かなり「ハイ」になってしまったが、体の細胞がイキイキして、中から力が沸き起こってくるのがわかる。心も体も喜んでいる。
日本へは年に2回ほど帰るが、時差ぼけ特有の体のだるさを避けることはできない。アメリカと日本は朝晩逆転するので、特に私の場合、最初の3日間はボーッとして辛い。
しかし、この瞑想をしてから日本へ着くと、体の調子がすこぶるよく、いつも元気でいられ、それだけでなく、滞在の最初から最後までとても気持ちよく、楽しく過ごすことができた。
それは、私自身が「愛」「調和」「光」に満たされていたため、私が経験する現実はすべてそれを反映するものであったのだろう。
鈴木美保子著「宇宙心」に、サイキックチルドレンが伝えようとしているメッセージとして、『私はいま、愛の使者なり』という言葉にフォーカスして欲しいということが書いてあった。そして、この同じことをしている人達のことを考えてみて欲しいと。そうすると、一瞬に意識は違う次元にシフトし、波動が変わるということである。
今日、散歩をしているときに、自分なりに「私は今、愛の使者である」「私は愛の光」「私は神の愛」「私は神の光」と、心の中でつぶやいてみた。すると、すぐさまに手のひらがドクドクと脈打ってきた。体にエネルギーが入ってきている。道端のコスモスの色が、一層鮮やかに目に飛び込んできた。
言葉には力がある。それは良い・悪いの両方向へ及ぶ。だからこそ、意識的に波動の高い言葉を選んで使うようにすると、思考も行動も変化してくる。また、そのような言葉は、私たちの深い部分に働きかけ、鍵がかかっていた部分が開いてくるのである。
今朝方、夢をみた。象徴的な夢であった。
ある場面で、肉体的にとても重く窮屈な空間にいた。動くのもやっとで、とても疲れる。エネルギーを多量に消耗する。しかし、ある瞬間に意識をシフトしてみたら、急に軽い世界へ出た。そこはとても心地よく、力まないでも自由に動ける。
実に、意識をちょっと変えただけなのに、環境が大きく変化したのだ。
私たちが生きているこの世界は、まさに「力んでエネルギーを消耗する」場所なのだろう。しかし、意識の持ちようでどうにでも変化させることができるのだ。
夢はそのことを教えようとしているようである。
言葉は顕在意識のレベルで理解しやすい。しかし、同時に顕在意識以外の意識のレベルに深く影響を与えるのである。
美しい言葉、波動の高い言葉を使うということは、物理的世界で生きている私たちが、高いレベルに移行する助けとなるのである。さらに、その波動は確実に周りの環境や地球にも影響を与えているのである。
この地球上にいる私たちには、使う言葉に責任がある。言葉は波動である。言葉にはチカラがある。
昨年日本へ帰る飛行機の中、目を閉じて「調和」「光」「愛」という言葉を繰り返してみた。瞑想状態でやってみたが、明らかに、体は通常とは異なるエネルギーを受け取っていた。
クラウンチャクラ(頭のてっぺん)からエネルギーが入ってきて、体が熱くなるのがわかる。また、言葉によって感じるエネルギーも違うようだ。
飛行時間が長いので、何度もやっているうちに、かなり「ハイ」になってしまったが、体の細胞がイキイキして、中から力が沸き起こってくるのがわかる。心も体も喜んでいる。
日本へは年に2回ほど帰るが、時差ぼけ特有の体のだるさを避けることはできない。アメリカと日本は朝晩逆転するので、特に私の場合、最初の3日間はボーッとして辛い。
しかし、この瞑想をしてから日本へ着くと、体の調子がすこぶるよく、いつも元気でいられ、それだけでなく、滞在の最初から最後までとても気持ちよく、楽しく過ごすことができた。
それは、私自身が「愛」「調和」「光」に満たされていたため、私が経験する現実はすべてそれを反映するものであったのだろう。
鈴木美保子著「宇宙心」に、サイキックチルドレンが伝えようとしているメッセージとして、『私はいま、愛の使者なり』という言葉にフォーカスして欲しいということが書いてあった。そして、この同じことをしている人達のことを考えてみて欲しいと。そうすると、一瞬に意識は違う次元にシフトし、波動が変わるということである。
今日、散歩をしているときに、自分なりに「私は今、愛の使者である」「私は愛の光」「私は神の愛」「私は神の光」と、心の中でつぶやいてみた。すると、すぐさまに手のひらがドクドクと脈打ってきた。体にエネルギーが入ってきている。道端のコスモスの色が、一層鮮やかに目に飛び込んできた。
言葉には力がある。それは良い・悪いの両方向へ及ぶ。だからこそ、意識的に波動の高い言葉を選んで使うようにすると、思考も行動も変化してくる。また、そのような言葉は、私たちの深い部分に働きかけ、鍵がかかっていた部分が開いてくるのである。
今朝方、夢をみた。象徴的な夢であった。
ある場面で、肉体的にとても重く窮屈な空間にいた。動くのもやっとで、とても疲れる。エネルギーを多量に消耗する。しかし、ある瞬間に意識をシフトしてみたら、急に軽い世界へ出た。そこはとても心地よく、力まないでも自由に動ける。
実に、意識をちょっと変えただけなのに、環境が大きく変化したのだ。
私たちが生きているこの世界は、まさに「力んでエネルギーを消耗する」場所なのだろう。しかし、意識の持ちようでどうにでも変化させることができるのだ。
夢はそのことを教えようとしているようである。
言葉は顕在意識のレベルで理解しやすい。しかし、同時に顕在意識以外の意識のレベルに深く影響を与えるのである。
美しい言葉、波動の高い言葉を使うということは、物理的世界で生きている私たちが、高いレベルに移行する助けとなるのである。さらに、その波動は確実に周りの環境や地球にも影響を与えているのである。
この地球上にいる私たちには、使う言葉に責任がある。言葉は波動である。言葉にはチカラがある。
溜め込まず分かち合う (8/21/2007ブログ)
溜め込まず分かち合う。ここ数日、この言葉が何度も私の中で響いている。
収穫のときを迎え、自然は1人では食べきれないほどの豊かな実りを与えてくれている。なのに、それを十分に分かち合っているだろうか。
これに関することが3つあった。
1つは反省したこと。
私はここ9年ほどオーガニック畑で色々な野菜を作っているが、冷蔵庫の中で古い野菜を次々に新しくとれるものの下敷きにして腐らせてしまうことがある。先日このメッセージを受け取ったときに寄付に出そうと思いつつ、そのままになってしまった。遅かったか!今日チェックすると、案の定、きゅうりが2本腐っていた。あぁ、なぜあのときすぐに残っていた分を惜しみなく寄付しなかったのだろうか。きゅうりさんに申し訳ない。欲張って溜め込み過ぎていた。反省。
2つめは感動したこと。
私は、シアトル市が所有する土地で「1件に1つの畑を!」をモットーに運営されている「P-Patch」と呼ばれる組織に参加して畑をしている。そこには100を超える区画があり、たくさんの人が野菜や花を作っているが、余った野菜を1箇所に集めて、定期的に市内のFood Bankやその他の施設に寄付することになっている。
先週、ズッキーニときゅうりがたくさんとれたので、そのほとんどを収集場所に持って行ったところ、ある老人施設からのお礼の手紙がそこに置いてあった。「収入が限られている私たちには、このような新鮮な野菜が手に入ることがとても有難く、皆さんのご親切のお陰で、厳しい生活がほんの少し楽になっています。これからも、どうぞご寄付をよろしくお願いいたします」というような文面で、住人一人一人の署名が末尾に連なっていた。ゆがんだ字、弱々しい字、波打っている字など・・・。深くしわ寄った手に鉛筆を持ち、小刻みに震えるこわばった手で一生懸命署名したお年寄りの方達の姿が目に浮かび、胸が熱くなった。
高齢になって経済的に不安であるというのは、さぞ心細いことであろう。でも、私も何かの役に立っているのだ。そう思うと、ほんの少しの野菜を寄付しただけなのに、とても嬉しくて心が満ち足りて、その日は1日中気分がよかった。これからは、惜しみなく寄付しよう。
自然が与えてくれるものを分かち合うことは当たり前のことなのに、いつしか私たちは抱え込むことしかしなくなってしまった。でも、これからは違う。人が助け合って分かち合うことの素晴らしさが広がる、その時期に来ている。そう感じる。
3つめは力が湧いたこと。
本日8月20日付けの新聞 Seattle Post IntelligencerのB面(地域の出来事)に、庭で食べきれず、とらなかったら腐って落ちてしまう果物を、連絡1つでボランティアがやってきて収穫し、付近のFood Bankに寄付するという記事があった。このプログラムはいつ始まったかは書かれていなかったが、シアトル市内の多くの地域で行われているとのことである。
昨日、雨で道にたくさん落ちているりんごを見て、そのほとんどが食べられそうだったので、このまま腐るだけなのはもったいないな~と思っていたところである。他にも、そう思っている人がたくさんいるだろう。
個人レベルで動きが始まっている。そして、それをサポートする体制ができつつある。この記事によって、寄付する人とボランティアをする人が共に増えるだろう。素晴らしいことである。
溜め込んでも腐ってしまうと無駄になる。生かされていないのである。私も、私なりに与えられた実りを無駄にすることなく、分かち合おうと気持ちを新たにした。
最後にもう1つ。
食べ物だけでなく、自分が学んだこと、気づいたことも「溜め込まず分かち合う」ことで健全な循環が始まる。
収穫のときを迎え、自然は1人では食べきれないほどの豊かな実りを与えてくれている。なのに、それを十分に分かち合っているだろうか。
これに関することが3つあった。
1つは反省したこと。
私はここ9年ほどオーガニック畑で色々な野菜を作っているが、冷蔵庫の中で古い野菜を次々に新しくとれるものの下敷きにして腐らせてしまうことがある。先日このメッセージを受け取ったときに寄付に出そうと思いつつ、そのままになってしまった。遅かったか!今日チェックすると、案の定、きゅうりが2本腐っていた。あぁ、なぜあのときすぐに残っていた分を惜しみなく寄付しなかったのだろうか。きゅうりさんに申し訳ない。欲張って溜め込み過ぎていた。反省。
2つめは感動したこと。
私は、シアトル市が所有する土地で「1件に1つの畑を!」をモットーに運営されている「P-Patch」と呼ばれる組織に参加して畑をしている。そこには100を超える区画があり、たくさんの人が野菜や花を作っているが、余った野菜を1箇所に集めて、定期的に市内のFood Bankやその他の施設に寄付することになっている。
先週、ズッキーニときゅうりがたくさんとれたので、そのほとんどを収集場所に持って行ったところ、ある老人施設からのお礼の手紙がそこに置いてあった。「収入が限られている私たちには、このような新鮮な野菜が手に入ることがとても有難く、皆さんのご親切のお陰で、厳しい生活がほんの少し楽になっています。これからも、どうぞご寄付をよろしくお願いいたします」というような文面で、住人一人一人の署名が末尾に連なっていた。ゆがんだ字、弱々しい字、波打っている字など・・・。深くしわ寄った手に鉛筆を持ち、小刻みに震えるこわばった手で一生懸命署名したお年寄りの方達の姿が目に浮かび、胸が熱くなった。
高齢になって経済的に不安であるというのは、さぞ心細いことであろう。でも、私も何かの役に立っているのだ。そう思うと、ほんの少しの野菜を寄付しただけなのに、とても嬉しくて心が満ち足りて、その日は1日中気分がよかった。これからは、惜しみなく寄付しよう。
自然が与えてくれるものを分かち合うことは当たり前のことなのに、いつしか私たちは抱え込むことしかしなくなってしまった。でも、これからは違う。人が助け合って分かち合うことの素晴らしさが広がる、その時期に来ている。そう感じる。
3つめは力が湧いたこと。
本日8月20日付けの新聞 Seattle Post IntelligencerのB面(地域の出来事)に、庭で食べきれず、とらなかったら腐って落ちてしまう果物を、連絡1つでボランティアがやってきて収穫し、付近のFood Bankに寄付するという記事があった。このプログラムはいつ始まったかは書かれていなかったが、シアトル市内の多くの地域で行われているとのことである。
昨日、雨で道にたくさん落ちているりんごを見て、そのほとんどが食べられそうだったので、このまま腐るだけなのはもったいないな~と思っていたところである。他にも、そう思っている人がたくさんいるだろう。
個人レベルで動きが始まっている。そして、それをサポートする体制ができつつある。この記事によって、寄付する人とボランティアをする人が共に増えるだろう。素晴らしいことである。
溜め込んでも腐ってしまうと無駄になる。生かされていないのである。私も、私なりに与えられた実りを無駄にすることなく、分かち合おうと気持ちを新たにした。
最後にもう1つ。
食べ物だけでなく、自分が学んだこと、気づいたことも「溜め込まず分かち合う」ことで健全な循環が始まる。
愛を実践する
義務と思った瞬間、それは愛ではなくなる
我が入ったとき、それは愛ではなくなる
情が入ったとき、それは真の愛ではなくなる
愛は心の中からほとばしるエネルギーであり
純粋に喜びだけである
理由はいらない
理論もいらない
知性もいらない
奥深くから突き動かされ
次々に沸き起こり
疲れを知らない
それが愛
愛を実践するとき、その何倍もの喜びを受け取る
愛は与え、与えられるもの
愛を実践するとき、人は真に生きている
愛を実践するとき、人は真の自分になる
我が入ったとき、それは愛ではなくなる
情が入ったとき、それは真の愛ではなくなる
愛は心の中からほとばしるエネルギーであり
純粋に喜びだけである
理由はいらない
理論もいらない
知性もいらない
奥深くから突き動かされ
次々に沸き起こり
疲れを知らない
それが愛
愛を実践するとき、その何倍もの喜びを受け取る
愛は与え、与えられるもの
愛を実践するとき、人は真に生きている
愛を実践するとき、人は真の自分になる
夢日記のすすめ
夢にも色々あり、全く意味をなさないものも多いが、時としてメッセージ性の強い夢や啓示的な夢を見ることもある。
私は夢日記を付け始めて8年ほどになるが、なんだこりゃと思うような内容のものでも書くようにしている。しばらくたってから読み返すと、大きな意味があったりするものだ。
ひとくちに日記をつけるといっても、寝ている間に見たことを目覚めたときに書き記すというのだから、なかなか容易ではない。特に、最初のうちは慣れるまでに苦労するかもしれない。緊張してしまって深い眠りに入れないかもしれない。そういう場合は、あまり日記を書くことにこだわらない方がよいだろう。質の良い睡眠をとることの方が大切だからだ。
枕元に紙と鉛筆を置いておいて、目が覚めて記憶が新しいうちにできるだけ詳細に書くようにする。これを習慣付けるとなかなか楽しいものになってくるだろう。そして、日記を付けているうちに、結構内容が濃いものになってきたり、あるパターンがあることもわかってくるかもしれない。
私の場合は、メッセージ性のある夢は本人が全く意識していないときに出てきて、強烈なのでしっかり覚えている。記号やシンボル、文字・文章、動物、色、自然現象などビジュアル的に訴えるものや、音楽、声など聴覚に訴えるものもある。予知夢、警告、ヒーリング・治療、過去生の情報、守護霊・指導霊・異星人からのメッセージ、魂の出所の情報、時空間移動など様々だ。私は夢について学問的な知識はないが、夢はかなり深いレベルまで見せてくれることを経験で知った。
興味深い例として、私の場合、大きな波がやってくる夢は、必ずと言ってよいほど変化を迎えるときである。波の大きさを始め、その波を遠くで見ているか、自分に降りかかってくるかでも変化の度合いや内容が異なるようである。
変化と言えば、砂嵐の夢もそうである。「砂嵐」と聞くだけで怖い感じがするが、私にとってはこれは「ちょっと難と思われることがあるけれど、結果的には良い」というみたいである。
繰り返し見る夢は、自分の中で解決されていないこと、実行されていないことを伝えているのかもしれない。アメリカに引越しして自分自身が確立されていない数年間、私はまるで後ろ髪を引かれるがごとく毎日のように夢の中で日本の両親と一緒にいた。しかし、ある気づきがあってから、そのような夢はピッタリとなくなった。
過去生の情報は、何年たっても忘れられないものであろう。映像を見ているだけなのに、すべてがわかる不思議な世界である。そしてその情報は、きっと夢を見た時点の自分が何かを深く知るために必要なものなのであろう。私が見た過去生のひとつは、自分の中のトラウマの原因と、それを助けてくれている夫との関係を深いレベルで理解する上で大きな助けとなった。
さて、「私は夢は見ない」という人もいるだろう。私の友人でもひとりそういう人がいるが、話してみると、そういう人に限って、大事なときには必ずといってよいほどポコッとメッセージ性のある夢を見ている。誰でも夢で必要な情報を受け取っているのだろう。ただ、本人がそれをどれだけ理解しているかは別だが。
また、解釈にこだわる必要もないと思う。わからなかったら、そのままにしておけば、いつかわかるときがくるだろう。私は自分の魂についての情報を受け取ったときには、それがそういう情報であることさえ全くわからなかったが、5年程たってあるチャネラーから魂の出所を知らされて、ある日何気なく夢日記を読み返していたら、ズバリそのものを示す夢を見ていたことがわかった。「あぁこのときに来てたんだ。でも、あまりにも通常の感覚を超えた域だったから理解できなかったのだ」とわかった次第。書いておいてよかった。
夢と上手につきあうと、問題の解決策、自分のやるべきことなど日常生活の中で助けとなる情報を得られて、より前向きに生きられるのではないかと思う。
夢日記をお勧めする。
私は夢日記を付け始めて8年ほどになるが、なんだこりゃと思うような内容のものでも書くようにしている。しばらくたってから読み返すと、大きな意味があったりするものだ。
ひとくちに日記をつけるといっても、寝ている間に見たことを目覚めたときに書き記すというのだから、なかなか容易ではない。特に、最初のうちは慣れるまでに苦労するかもしれない。緊張してしまって深い眠りに入れないかもしれない。そういう場合は、あまり日記を書くことにこだわらない方がよいだろう。質の良い睡眠をとることの方が大切だからだ。
枕元に紙と鉛筆を置いておいて、目が覚めて記憶が新しいうちにできるだけ詳細に書くようにする。これを習慣付けるとなかなか楽しいものになってくるだろう。そして、日記を付けているうちに、結構内容が濃いものになってきたり、あるパターンがあることもわかってくるかもしれない。
私の場合は、メッセージ性のある夢は本人が全く意識していないときに出てきて、強烈なのでしっかり覚えている。記号やシンボル、文字・文章、動物、色、自然現象などビジュアル的に訴えるものや、音楽、声など聴覚に訴えるものもある。予知夢、警告、ヒーリング・治療、過去生の情報、守護霊・指導霊・異星人からのメッセージ、魂の出所の情報、時空間移動など様々だ。私は夢について学問的な知識はないが、夢はかなり深いレベルまで見せてくれることを経験で知った。
興味深い例として、私の場合、大きな波がやってくる夢は、必ずと言ってよいほど変化を迎えるときである。波の大きさを始め、その波を遠くで見ているか、自分に降りかかってくるかでも変化の度合いや内容が異なるようである。
変化と言えば、砂嵐の夢もそうである。「砂嵐」と聞くだけで怖い感じがするが、私にとってはこれは「ちょっと難と思われることがあるけれど、結果的には良い」というみたいである。
繰り返し見る夢は、自分の中で解決されていないこと、実行されていないことを伝えているのかもしれない。アメリカに引越しして自分自身が確立されていない数年間、私はまるで後ろ髪を引かれるがごとく毎日のように夢の中で日本の両親と一緒にいた。しかし、ある気づきがあってから、そのような夢はピッタリとなくなった。
過去生の情報は、何年たっても忘れられないものであろう。映像を見ているだけなのに、すべてがわかる不思議な世界である。そしてその情報は、きっと夢を見た時点の自分が何かを深く知るために必要なものなのであろう。私が見た過去生のひとつは、自分の中のトラウマの原因と、それを助けてくれている夫との関係を深いレベルで理解する上で大きな助けとなった。
さて、「私は夢は見ない」という人もいるだろう。私の友人でもひとりそういう人がいるが、話してみると、そういう人に限って、大事なときには必ずといってよいほどポコッとメッセージ性のある夢を見ている。誰でも夢で必要な情報を受け取っているのだろう。ただ、本人がそれをどれだけ理解しているかは別だが。
また、解釈にこだわる必要もないと思う。わからなかったら、そのままにしておけば、いつかわかるときがくるだろう。私は自分の魂についての情報を受け取ったときには、それがそういう情報であることさえ全くわからなかったが、5年程たってあるチャネラーから魂の出所を知らされて、ある日何気なく夢日記を読み返していたら、ズバリそのものを示す夢を見ていたことがわかった。「あぁこのときに来てたんだ。でも、あまりにも通常の感覚を超えた域だったから理解できなかったのだ」とわかった次第。書いておいてよかった。
夢と上手につきあうと、問題の解決策、自分のやるべきことなど日常生活の中で助けとなる情報を得られて、より前向きに生きられるのではないかと思う。
夢日記をお勧めする。
ふと思ったこと
エネルギーの使い方を逆にしてみる
押すより引くこと
力を入れることより抜くこと
吸うより吐くこと
リラックス
すると本来の力が出る
心が広がり
周りに溶けていくよう
なんだ、こんなに簡単なことだったのか
押すより引くこと
力を入れることより抜くこと
吸うより吐くこと
リラックス
すると本来の力が出る
心が広がり
周りに溶けていくよう
なんだ、こんなに簡単なことだったのか
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