2011年5月2日

魂の母胎(2)



オサマ・ビンラディンが殺害された。大統領や人々の口からは Justice has been done という言葉が出てくる。

それは「目には目を、歯には歯を」のやり方であった。Justice(正義)。殺すことで正義がもたらされたのか。

映像にお祭り騒ぎをしている人々が映し出されるのを見て、何となくむなしく感じたのは私だけだろうか。

発せられた正義という言葉は、私の耳に違和感を伴って響いた。
「そんな単純なことではないでしょ」と言いたい。

オサマ・ビンラディンが全て悪いように言っているが、もともとアフガニスタン紛争時にソ連軍への抵抗武装勢力を支援し、訓練や武器を供給して莫大な金額を費やしたのはアメリカであったのに、そのことを忘れているのだろうか。

そんなことを考えていた時、ふと思い出したことがあり、それが今日のことと重なっているように思えるのでシェアしたいと思う。

昨年、岡部明美さんのカウンセラー・セラピスト養成講座を受講中に、名古屋のメンバーで自主トレがあった。回を重ねるごとにセッションが深まり、ちょうど一年前の自主トレでは、「権力と支配、平和と調和」というのがテーマになった。

これは、歴史を振り返るとどの時代にもあったことだろう。それは今なお、大きなテーマである。

まず、世の中は悪い人たちと良い人たち、または支配する側とされる側の2つに分れ、良い人たちが悪い人たちをやっつけることで平和が訪れ、そうすることが「正しい」という当然のごときの考えがある。

自主トレで直面したのは、能力を競い合い、誇示しあい、支配やコントロールが渦巻く世界であった。

支配する側    される側という関係において、その2つの立場のそれぞれからどのような言い分が出てくるのかを見ていった。すると、興味深いことに、それぞれが正反対の立場にありながら、望んでいることは全く同じだったのである。

それは平和と調和であった。同じ理想・目的でありながら、それぞれが抱く平和と調和の観念は、それぞれの立場ゆえに全く異なっていた。また、両方に「怖れ」があり、そこから歪みが生じて不調和や問題が起きたこともわかった。結局、天秤に乗せてみると、どちらが正しくてどちらが間違っているとは一概に言えなかった。

このことは気づきを与えてくれた。さらに、このことを平凡な一市民である私たちがセッションを通して感じ取ったことも驚きであった。

平和と調和などと言うと、ちっぽけな自分にはとても大きすぎて、自分が何かをしたからって、何が変わるの? 一人の人間に対して社会や世界では、あまりにも力の差があり過ぎる、と思いがちである。

ところが、心の中にある内なる智慧に耳を傾けたとき、自分の中から次のような言葉が出てきた。

「平和と調和はイデオロギーや観念や知識や思考の範疇にあるものではなく、力でもたらされるものではない。このことから真の平和と調和はもたらされることはない。

平和と調和は心の最も深い中心にある愛の泉の源にあり、そこからあふれ出すものである。それは誰の心の中にもある。そこに行って、その源になり、そこから言葉を発し、そこから行動したとき、それは愛の実践になる。

それはおのずと平和と調和をもたらす。いや、それ自体が完璧な「あり方」であるため、おのずと平和と調和に包まれ、それが広がる。

あなたが平和であることから始め、その愛の中心にとどまって日々を送り、言葉を発し、行動するとき、おのずと人が集まり、分かち合い・助け合いが始まり、その輪が広がってゆく」


心の最も深い中心にある愛の泉にたどり着くと、そこには分離はない。それは、根っこは同じでありながら、特徴や個性が異なる人をすべて包み込むほどのものである。

大切な人を失くした悲しみが癒えることはないだろうが、憎しみが安らぎをもたらすこともないだろう。

今日のasahi.com の記事に、2001年9月11日の同時多発テロの遺族の言葉が載っていた。

事件の時は幼児だった小学6年生の次男に同容疑者(オサマ)の死亡を伝えると『それでどうなるの?』と聞かれた。どうなるとも思えないんだよね、と答えた。「(アルカイダの)組織の層は厚く、むしろ状況が悪化するかもしれない。この10年で、米軍やアフガニスタンの市民など命を落とした人がどれだけ増えてしまったか。テロを武力で解決できるのか疑問に思うし、今後も犠牲者が出てしまうのかと考えてしまう。これを区切りとは思えないし、癒やされるわけでもありません」

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