明日開くバイロンケイティワークショップの準備をするために、もう一度このワークを振り返っていたときに、やって来た理解と明晰。
それは、「魔」は自分の怖れの中でしか生きることができず、それ自体に力はないということ。
「魔が差す」という言葉があるが、私にとって、魔という言葉は、おどろおどろしい響きがあり、外から侵入する得体の知れない強大な力で、悪であり人の命を脅かすような力、呪いのようなネガティブな想念や霊の力を思わせる。
これは、長い間、私自身の根源的な怖れとして根付いていたものであり、かなり強力であったため、今でも100%消えたと言えるかどうかはわからない。しかし、昨日になって、二年前の体験と今の自分との間が、太い一本の「理解の綱」で繋がった感覚があった。
バイロンケイティは、頭の中にある考えを問い直し、ストレスになり自分を苦しめている考えに異なる方向からメスを入れることで、真実を見い出し、 あるがままを受け入れて心の平安へと引き戻すワークであるが、私はその張本人であるストレスや苦しみ、つまり怖れを「役割」として演じるという、ラッキー な体験をさせてもらったことがある。
それは、二年前に岡部明美さんのカウンセラー・セラピスト養成講座卒業生のためのセミナーを受講したときのこと。
セッションとして、参加者の一人の主訴に基づいたプレイバックシアターをすることになった。プレイバックシアターとは、観客や参加者が自分の体験した出来事を語り、それをその場ですぐに演じる独創的な即興演劇のことである。
まず、この方には複数の面があるということで、自分の一部を演じる人が数人選ばれた。その中でも主訴のネックになるのは、強いネガティブな意識であった。
選ばれた人は各自、用意されている色布や道具の中から直感で選び、それを使って感じるままに表現することになる。本人も選ばれた人も、実際に始まるまで、それぞれが何を表現するか、どんな展開になるのかわからない。
私は、置かれている布を一瞥したとき、ふと、できるだけダークな色を選びたくなった。生憎ピッタリくるものはなかったが、濃い青の布を身にまとった。そして、道具に目を向けると、50センチくらいのロープが手招きをしていた。
そのロープを手に取った瞬間、私は彼女の中にいるという「魔」に豹変した。私はこのロープを手に、前かがみになって目をギョロギョロさせて歩き 回った。餌食の匂いがする。このプレイバックシアターを観ている彼女の前に行き、目の前でロープをヒュルヒュル回して、脅しをかけてみた。
案の定、彼女の体は後ろに引き、顔は恐怖でおののいている。こちらは笑いがこみ上げ、ますますちょっかいをかけたくなる。人の怖れと混乱は、魔である私の滋養。相手の怖れが増すに従い、私は力を増していく。
もう笑いが止まらない。私は怖れから生気を吸い取ると、さらに力を得て増強されていく。
「ワッハッハ、どうだ、私を見よ。怯えるがよい、おののくがよい。私は偉大な力なのだ」
今度は、行動範囲を広げ、彼女の一部を演じている他の人たちにも、ちょっかいをかけたくなった。隣で無邪気に走り回っている一人は、目障りで仕方 ない。首にロープをかけてグイッと引っ張り、邪魔をした。相手が驚き抵抗したら、こっちのもの。私は魔になりきって楽しんでいた。
そこに、楽しそうな笑みを浮かべ、クラゲのようにフワフワしているもう一人が視野に入ってきたので、同じように、近づいて首にロープをかけると、 彼女はゆったりとした調子で「や~め~て~よ~」と言いながらも、私を気にすることもなく、自分の興味にフォーカスしているのか、フワフワし続けている。 この彼女は混乱がなく、柔らかい感触がしている。なので、何度ロープをかけても同じ。反応しないのである。
そうなると、全く歯が立たない。相手が反応しないとなると、私は自分の存在が認識されなくなったと捉え、途端に力が抜けていくのである。どんどん 萎えていき、そこにいながらも存在し得ない存在となった。エネルギー源がなくなり、命を吹き込むもの自体がないからである。私はロープを持つ手を離し、完 全に降伏してその場に立ちすくんだ。もう、動くこともできないのである。
私はもともと何の力もない、ゼロの状態であることを思い知った。
そうなのである。魔は自分の怖れの中でしか生きることができず、もともとそれ自体に力はないということ。
「魔が差す」という言葉があるが、それは怖れのあるところに引き寄せられて侵入するというか、怖れが生じた瞬間に命を吹き込まれるようなものなのだと感じた。
程度の差こそあれ、誰もが持っている怖れ。個人の怖れ、社会や国家、人類としての集団の怖れ。いずれにしても、それを呼び込み、ロープで首を絞めるのは自分の考えに他ならない。怖れの考えがないところには、ロープを持った魔の存在のしようがないのである。
バイロンケイティワークの創始者ケイティは、「私が自分の観念を手放すのではない。私は、その観念、思いこみと出逢い、問い直しをする。すると、それが、私を手放す」と言う。
「それが私を手放す」という感覚は、力を失っていったあの魔の立場のようなものだと、私は昨日の朝、目が覚めたときに深く理解できた。
自分を苦しめているその考えがなければ、穏やかでクリアーでいられる。怖れがないところに、魔はいない。
カリブ海と空が繋がる空間 - 天と地は同じ
0 件のコメント:
コメントを投稿