2008年3月1日

路傍の神

春も近いというのに、その日は北極からの寒気が流れ込み、身を切るような寒い日だった。それに追い討ちをかけるように風が吹きすさび、肌に当たる空気は痛いほどであった。水曜日は、夫と一緒にインド料理のレストランで、食べ放題のランチを楽しむ日である。その日、こんな寒い日にはカレーがぴったり、そう思いながら車から降りて、風をよけるように夫の少し後ろを前かがみで足早に歩いていると、そのレストランの隣の店の前に、30代の黒人のホームレスの人がうずくまっている姿が目に飛び込んできた。

その人は、先日スーパーに行く途中で通りがかったときにも、そこにいた。そのとき、私は声をかけられたらどう反応していいのだろうと緊張しながら、まるでそうすれば気づかれないかのように、息を止めて下を向いたままその人の前を通り過ぎたのを思い出した。

私がアメリカに来てすぐの頃、夫は危険な場所や人のタイプを教えてくれた。その説明によると、ホームレスの人の中にはアルコール中毒や麻薬中毒の人もいて、そういう人はもらったお金でまた酒や麻薬を買ってしまう。また実際に、道に立って物乞いをしている方が最低賃金で馬鹿正直に働くより割がよいため、職を探す気がない人もいて、むやみにお金をあげない方がよいということだった。

しかし一方、何かの拍子でつまずき、非情な社会で不運が重なってホームレスになり、そこから抜け出せない人もたくさんいる。アメリカは日本のような国の健康保険制度がないため、病気になって働けなくなり、その上莫大な医療費だけが残り、やがてすべてを失った男性や、夫がアル中で暴力を振るい子供と逃げ出してきたものの、教育を受けていないため仕事にもありつけず行き場を失った女性など、実際にはそういった境遇の人の方が多いだろう。社会の弱者であるこの人たちに、いったい何の罪があるというのだろう。そうはわかっていても、そのような人たちにどうやって接したらよいか戸惑ってしまう。だから私は、いつもホームレスの人の近くを通るときは、複雑な気持ちで体をこわばらせて、見て見ないふりをしてしまうのだ。

しかし、スーパーに行ったあの日、この歩道に座っていた男性からは何か違うものを感じだ。道端で物乞いをしている人は投げやりな目をした人が多いが、その人は違っていた。もちろん、危険な感じや図々しい感じは全くなかった。私はその人を見た瞬間、何かしてあげたい気持ちに駆られたが、そういう気持ちでいる自分を考えると自意識過剰というか気恥ずかしい思いになり、結局下を向いて通り過ぎてしまった。そのくせ通り過ぎてしまってから、あの人に何がしてあげられるだろうかと考えていた。「こんな寒い日には、きっと暖かいスープ1杯で体が温まるだろう。あそこのお店でスープを買って渡したらいいだろうな」「いや、隣りのカフェのコーヒーでもいい」などと考えたが、行動する勇気はなかった。

通り過ぎてから振り返ると、一人の男性が気遣うようにその人の肩に手を置いて、声をかけていた。分厚いロングコートを着たその男性の素振りは堂々としており、落ち着いた後姿であった。それを見ていた私は、私もあんな風にできたらと羨ましく思った。

そして今日、レストランへ向かうときに、再びそのホームレスの人の前を通り過ぎることになった。今日は隣りに夫が歩いていたが、夫も通り過ぎるときにその人をちらっと横目で見ていた。その人は、風がまともに当たる氷のように冷たいコンクリートの上にプラスチックの容器を椅子にして、身をこわばらせ、前方を見据えて寒さにじっと耐えて座っていた。足元に置かれた発泡スチロールのコーヒーカップには、わずかなコインと1ドル紙幣が2枚ほど入っていた。そしてその横には、誰かが彼にあげたものだろうか、黒い表紙の聖書が置かれていた。

レストランの中はとたんに肌が緩むほど暖かく、カレーやサラダ、デザートがずらりと並んだ食べ放題のランチが私たちを待っていた。いつもなら美味しい料理に舌鼓を打ちながら、途切れることのない会話を楽しむのであるが、今日の私は、今通り過ぎて来た人のことで頭が一杯になり、まるで処理工場のパイプを物質が流れて行くように、ただ食べ物がのどを通過しているだけであった。

今、私たちはここで暖を取り食事をしているが、あの人は、今この瞬間にも、凍てつくコンクリートの上で寒風に吹かれながら空腹の身をこわばらせているのだ。そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになった。私たちは同じ人間なのに、この2つの状況は天国と地獄の差ではないか!皿の上のカレーが涙ににじんだ。「あの人のためにお金を払って中に入れて、この暖かい場所で食べさせてあげられたら・・・」、「しかし、店の人はホームレスの人を中に入れることを拒むだろう」などと考えが頭の中を巡る。結局、思いが空回りするだけで夫には何も言わなかった。言えなかった。そして、勇気がないそんな自分が情けなく、嫌悪した。

気が付くと、夫も下も向いたまま黙々と食べていた。いつもなら話題が尽きないのに。二人の間に重い空気が流れていた。私の舌は一瞬にしてその機能を放棄してしまったのだろうか、味が全く感じられなかった。こんな「まずい」食事は初めてだった。

食事が終わってから気づいたのだが、その日に限って私は現金を持っていなかった。財布を家に置いてきてしまったのだ。「なぜこんなときに限って!」お金をあげたくてもあげられないのを悔しく思った。しかし、夫の前で堂々とあげることができただろうかというと、きっと「そんなことをしなくていい」などと言われるのが嫌でできなかったと思う。それに、当時の私は、そういうことをしている自分を他人に見られることを恥ずかしいと思っていたのだ。

レストランを出て車に戻るために、またその人の前を通ることになった。その人は、2~3枚の薄い布に包まり、首をすくめて縮こまっていた。誰だって1分だって、いや数秒だって外にいたくない寒さだ。

私は下を向いて歩いていた。まるで自分自身に背を向けているように。後ろめたい気持ちにさいなまれた自分が情けなかった。硬くなって、それでも目の端に映る姿に集中していた。すると、驚いたことに、夫はその人に近づいたとき、おもむろに立ち止まって財布を出してお金を手渡した。夫はどちらかというと、ホームレスの人には構うなという考え方をしており、今までお金をあげるところを見たことはなかった。

次の瞬間を今でもはっきり覚えている。手渡されたお札を受け取り夫の顔を見上げたその人の顔は、今まで見たこともないほど美しかった。大きな笑みを浮かべ夫をまっすぐに見つめた黒い瞳はきらきらと輝き、とても眩しかった。すらりとした長身を伸ばし
「Thank you very much! God bless you!(ありがとうございます。神の祝福を!)」と言った声は張りがあり、目と同様、透き通るようにさわやかであった。私の心は震えた。

この瞬間、私は神を見、神を強く感じた。神はそのホームレスの人の中にいた。そして、夫の中にもいたのである。そのとき、その人と夫の胸のあたりからはじき出た光が通い合い、膨れ上がってそばに立っていた私を一瞬のうちに包んでしまった。それは圧倒されそうなほど強烈なエネルギーであり、この最も神聖なものに触れた私の心は、下から突き上げられるような力で左右に大きく揺すぶられ、洗われた。

最も清らかなものは愛である。人を思いやる心、それを感謝する心。純粋であればあるほど強く美しい。

私は、神が姿を変えてそこに座っていたのだと今でも思う。きっと私たちを試し、教えるために待っていたのだ。その「神」は夫の中の「神」を引き出した。そして、それを目の当たりにした私に、大きな学びのチャンスを与えてくれた。

この時、私は心の中で夫に感謝した。ふと見ると、明らかに夫は何か純粋なものに満たされていた。なぜなら顔つきが変わり、夫を包むエネルギーが大きく変わっていたからである。本人もそれを感じていたようである。寒さで硬直するはずの夫の横顔は緩んだように見えた。私の胸の奥からはカーッと熱いものが突き上がり、私たちは言葉こそ交わさなかったが二人とも心が温かく、並んで歩いていただけであるが、心の中では手をつないで弾んでいた。

そのホームレスの人を背にして、私は心の中で彼に感謝した。暗い現実を背負っている彼こそが、最も神聖なものを持っていたのだ。私の脳裏に焼きついたその美しく澄んだ目と大きな微笑は、まさに闇の中の光だった。それとは対照的に、指一本で何億という大金を動かし、儲けることだけを考えている「社会の成功者」と言われている人々のずる賢く濁った目が浮かんだ。いや、この経済社会にあり、成功者だけでなく、私たちの大半が濁った目をしているかもしれない。そんな私たちに、神はこの状況に遭遇させることで挑戦を突きつけたのだろうか。

あの圧倒されるほどのエネルギーは、どこから来たのか。人は物質を失うとき、最も大切なものを得るのだろうか。暗闇にいる人は、実は強い光と背中合わせなのである。辛いときほど苦しいときほど、人の心の温かさ、ありがたさを身にしみて感じるものである。

私は、彼(神)がこの状況を、学びを与えてくれたことに感謝した。彼(神)からのメッセージは明らかだった。

ほんの少し勇気を持つこと。思ったら行動すること。一歩踏み出すこと。

「真」の私は行動したかった。何も考えずにただ思いのままに。私の手足は誰かのために何かできることをしてあげるために動いただろう。

突き動かされる思いは頭で考えるよりも強く、直接的である。理由も何もいらない。ただ、心のままにストレートに行動する、「無」になって。

ところが、私は行動する前にごちゃごちゃ考えて、結局勝手な結論に至り何もしなかった。そして今まで、そんな自分を振り返って責めることを繰り返してきた。何故こんな「嫌な」思いになるのだろう。それは、「真」の私は周りを気にすることもなく、ただ自分の中から溢れ出る思いに正直に行動したいからであった。

私たちが生きるこの社会は闇だらけである。それが変わって欲しいと思うならば、自分が変える力になることである。ただ、心に耳を傾け、勇気を出して一歩行動に踏み出すだけのことである。何故なら心は正しい方向を知っているから。

ホームレスの人にささいなお金をその時あげただけで、何の足しになるのだと言う人がいるかもしれない。もちろん、あの時の結果的なことだけ見ればそうである。それであの人の境遇が変わったかと言えば、そうではないことは明らかである。

しかし、何もしなければ何も変わらない。私が温かい飲み物をあげていたら、その人の体はその時だけであっても温まっただろう。それは、何も起こらなかったことと比べると大きな違いである。時は瞬間の連続であるとしたら、一瞬一瞬の出来事には大きな意味がある。

例えば1,000人の人が気持ちだけあって何もしないのと、みんなが些細なことでも自分にできることをするのとでは、どれほどの差が出てくるだろうか。明らかに状況は大きく変わるのである。神はホームレスのこの人を通して、そのことを教えてくれた。

もうひとつ大切なことは、彼も夫も私も、同じ感情を分かち合う同じ人間であり、私たちだって何らかの状況でいつでも彼の立場になり得るということである。もともと私たちには、何の違いもないのである。

私たちが「裸」になったとき、残されたものはあの一瞬、夫とその人の間に通い合った光だけである。それは純粋な心にしか存在しないものである。物質世界にあり、その光りが結局すべてであり、それこそがすべてであることを私は教えられた。

私は、臆病な自分を捨てて行動しようと決意した。すると、そう決意したとき、まるで真の私がそう決めた私を応援してくれるかのように、心の奥深くから強く温かいものが流れ出た。

心に従い行動すること。些細なことでよいのである。勇気をもって行動すること。

あれから数年経つが、あのホームレスの人の姿はそれ以来全く見ていない。

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