七夕の夜、天の川を渡るように太平洋を渡った。別に大げさにもロマンチックにもなるつもりはないが、私にとっては象徴的なことである。
実際7月7日の夕方に日本を出て、同じ日の朝にシアトルに着いた。時差があるからと言ってしまえばそれだけのことであるが、ものの見方と感じ方が、今年に入ってから変化したことをはっきり自覚できるようになった。「今ここ」に集中できるようになるに従って、逆に「今」という時間が線的な時間の一点ではなくなるのである。
過去と現在と未来が同時に起こっているということを耳にするが、実際、日本からアメリカに渡るときそれが起こる。アメリカへ行くという目的(未来)へ進みながらも、時間は過去へと戻っていくからである。
時差でいう16時間という時間を遡る間、いったい私はどこに属しているのだろう?明らかに、地上にいる時間とは異なるトワイライトゾーンのような領域にいる。考えると奇妙な感覚になる。
もっと奇妙なのは、地上でいう同じ時間に2つの私が存在しているということでもある。例えば、7月7日の正午、私は仙台の台所で昼ごはんにロールキャベツを冷凍庫から出して、煮込んでいた。同じ7月7日の正午、私はシアトルタコマ空港に迎えに来てくれた友人の車に乗って、高速道路からの景色を眺めながら、彼女が最近開いたというイベントの話を聴いていた。
そうなると、時間とは人間が都合上設定しただけのものであり、リアルだと思っていたことが、リアルでなくなってしまう。と同時に、違った次元の扉が開き、宇宙空間へと広がっていく感覚になる。
その空間にいるとき、自分を核として点在しているあらゆる物が結びつき、心に浮かぶ人々や出来事が距離や時間に関係なくそこにあり、みんなが微笑んでいる。穏やかな陽だまりのような空間であり、それは柔らかな球体感覚。
そのとき響いてくる言葉がある。「これが真実。この球体感覚。奥まで見通す眼は、表面の幾層も貫いて魂に届く眼。常にその中心から外に向かっていなさい。中心から鼓動するように、溢れるように、流れるように。今このときはすべてを包含しているのだから」
滞在している友人の家は、森の中。すぐ目の前に大きなスギの木があり、太陽がまぶしく照らしている。
「ありがとう」
「お帰りなさい」
<写真:友人宅の裏庭にて>
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