2008年7月27日

人間が雨を降らせる日

テレビでこんなニュースを見た。

中国のある地域では、塩化銀を含んだ霧を空中に散布して雨を降らせ、旱魃の被害を免れている。「散布」といっても、画面には、小さなロケット弾のようなものを空に向けて打ち込んでいる様子が映っていた。塩化銀が核となって水蒸気を集めて雲を形成し、地上に雨を降らせるという仕組みだそうだ。「天候を技術によってコントロールする」というような表現が使われていた。

私はこの様子を見た瞬間、体の中がサッと冷たくなる感触を味わった。何か恐ろしいことが起きているようで仕方ない。

すべてのことは、私たちが自然の中の一存在であるということを認識することから始まる。自然の中に私たち人間が生かされているという立場に立つからこそ、また、偉大な力に身をゆだねるからこそ、願いは「祈り・乞う」という形になり、雨乞いは、長い歴史の中で祈りとともに行われてきた。

シャーマンやメディスンマンは一人で勝手に儀式をするのではなく、雨を乞う願いをもった村人たちを代表して、人間界と自然界の橋渡しをするのである。

シャーマンやメディスンマンは雨乞いの儀式の中で、そのような村人の心を運ぶ。そして、自然、事象、スピリットと交信して繋がり、一体となる。それは、目に見えない偉大な秩序に対する正当な手続きであるように思われる。天や雲、雨のスピリットを呼び、感謝し、許しを求め、交渉し、様々な力と繋がることで、結果として雨がもたらされるのではないだろうか。

畑をしていると天候に敏感になる。太陽の光と空気と水と大地の絶妙なバランスの中で、植物が生きていることに気づかされる。雨が降った後の植物は、人間が水をあげたときとは比べ物にならないほど、大きく力強く成長している。気温は、高すぎても低すぎても成長に影響する。そんな自然の偉大な力とその繊細なバランスを目の前に、おのずと畏敬の念が沸き起こる。

人間には限りない創造力があり、そこから素晴らしい技術が生まれる。しかし、その創造力は与えられたものである。与えられたものを十分に活用することは正しいことではあるが、超えてはいけない一線というものがあるのではないだろうか。

そう言うと、今の時代になんて馬鹿なことを言っているのだろうと科学者はせせら笑うだろう。しかし、開発した技術が現在と未来の環境に与える影響に、科学者はどれだけ責任がとれるだろうか。また、どこまでそれを意識しているだろうか。

塩化銀を打ち上げて雨を降らせることは即効性があり、農業にとっては画期的な技術である。しかし、私には、これは傲慢で乱暴なやり方のように思えてならない。

日本でも本格的な使用を前に、この実験が進められているということであるが、もしこの技術が広まれば、その先にはもっとスケールの大きい技術が現われるだろう。天候を技術によってコントロールすることは、当たり前の時代がやってくるかもしれない。それが勢いを増し、やがては国家権力が絡んでくるといったシナリオも、不可能ではない。

しかし、宇宙には秩序がある。人間の頭ではとうてい処理できない壮大かつ緻密な秩序。

利害が衝突し、人間がそこらじゅうで好き勝手なことをしたら、今でさえ混乱している世の中、ますます収集がつかなくなり、やがてはその大きなツケが回ってくるのではないだろうか。

ある日、市民農園の畑で草抜きをしていたときに、野外授業の一貫で散策をしていた近くの保育園の先生と園児のグループが、私の畑の前で立ち止まって、何をしているのか尋ねてきた。私の説明を聞き終わり、園児たちがさあ帰ろうと歩き始めたときに、そのうちの一人の女の子が振り返ってチラリと野菜に目をやり、次に私の目をまっすぐに見て
「Be gentle to the plants(植物たちに優しくしてあげてね)」と言い残して立ち去った。

一瞬、私の目にはその女の子の背中に羽が映り、妖精の姿と重なった。その真剣な面持ちと言葉は、今でも私の心に深く刻まれている。小さな体から出たパワフルなメッセージ。彼女は植物からのメッセージを伝えてくれたのだった。

「植物たちに優しくしてあげてね」

そこには、繊細で優しい心が溢れていた。

子供は見抜いている、私たちは自然の中に生かされていることを。当たり前のことなのに、いつしか忘れてしまう大人もいる。感謝と喜びの大いなる秩序の中で循環する宇宙。私たちはその宇宙の一部。

「空に優しくしてあげてね」

塩化銀を打ち込まれた空からは、傲慢で勝手な人間に対する悲しみの涙の雨が降る。

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