2008年9月17日

分かち合いの味



「うわあ、甘~い!」
熟した果実がプチュッとつぶれて、トロ~ッとした甘さが口の中いっぱいに広がる。

昨日、Kさんのお宅にお邪魔した。月一回、何人かで集まって霊気をし、その後、持ち寄ったお昼を食べて、おしゃべりをしたりして楽しい一時を過ごす。

Kさんは手作りの達人で、食べるものに関してもこまめに何でも作っていらっしゃり、いつも感心するのであるが、昨日はイタリアンプラムのジャムをご賞味に預かった。

イタリアンプラムは今が旬。お宅には広い庭があり、そこには大きなプラムの木がある。5メートルくらいあるだろうか。見上げると、上の方には熟れた果実がたわわに実っている。

「とりましょうか」と言って、Kさんはおもむろに庭へ出て行き、私はすぐに後を追った。生っているものを取るのは昔から大好きで、本能的に動いてしまう。

「こうやって取るのよ」と木の下に立って、Kさんはニコニコしながら幹をつかんで「ちょーだい、ちょーだい、ちょーだい」と呪文を唱えるように言って揺すった。すると、バラバラと空から甘い果実が降ってきて、地面に落ちてあちこちに転がった。

「うわあ~!」
歓声が上がった。

私はKさんと一緒に、ワクワクしながらかがみこんで夢中で拾った。後ろで見ていた他の方も、「あっあそこにもある、そこにも」と教えてくれ、取る人も見ている人も興奮していた。

もうみんな童心に返っていた。山菜取りでも芋堀りでもそうだが、取る人の顔は輝き、子供のときのようにはしゃいでしまう。

2回に分けて数回揺すっただけなのに、盆ざるが一杯になった。毎年、何もしなくても食べきれないほどのプラムが生るそうである。

Kさんは、「全部どうぞ」と言って盆ざるに山盛りになったプラムを私たちにくれ、みんなで味見をして、それから自分が欲しい分だけを取って分けた。欲張りな人は誰もいず、最後となった私が一番多くなってしまったのではないかと恐縮してしまった。一連のことがすべてごく当然のように自然な形で流れて、とても調和の取れた一時となった。

そこには分かち合いがあり、笑顔があり、驚嘆と感謝の気持ちがあり、ほのぼのとした温かさがあった。与えられた恵みを、みんなで分かち合う。

単純なことなのに、小さなことなのに、こんなに満ち足りて幸せに感じるのはなぜだろう。

人に取られるかもしれないと恐怖に駆られて、あわてて木を揺すって独り占めして食べたら、おそらくこんな気持ちにはならないだろう。しかも、そんなことをしたら、結局は必ず食べきれない分が出てきて、それは腐ってしまう。

足らない、もっともっと欲しいという考えから出来上がった上下の階級の中で奪い合い、弱者が蹴落とされ、持つ者と持たざる者の格差が広がる社会はもう終わりにしたい。

本当は十分にあるのに、なぜ独り占めしようとするのだろう。

一人一人が持っているものを差し出し、みんなで分かち合えば、たちまち全体が満たされる。それは物質に限らず、才能、知識、労力など、すべてのことにおいてである。

分かち合うことができるとき、人は信頼と助け合いの精神に生きることができる。分かち合うとき、笑顔と感謝の気持ちにあふれ、ほのぼのとした温かさと幸福感に包まれる。それは横に広がる力であり、そこには平和がある。

口の中に甘くトロ~ッと広がったプラムは、そんな平和の味がした。

0 件のコメント: