昨年、タッチドローイングの創始者デボラ・コフチャピンさんによるワークショップでタッチドローイングをしていたときに20枚ほど絵を描いたが、その最後の方で、意識は突然自分の家族にフォーカスし始めた。
私は生まれたときから母親との繋がりが極めて強く、その反動もあってか(?)一人アメリカに渡り、そこから20年近くが経とうしているが、ワークショップで白い紙に向かったとき、内側から自分の家族に対する想いのようなものが出てきた。
指は母の胸に抱かれる赤ん坊である私のようなものを描き始め、その絵は、かつてへその緒で繋がっていた自分と母は、それが切れた後も、どんなに遠く離れていても、ずっと繋がっていることを語りかけてきた。突然胸の中から溢れる想いに、描きながらも涙があふれ出た。
その母子をぐるっと円で囲むと、小さな芽を描きたくなった。それは私でもあり、成長する生命でもある。それもぐるっと円で囲むと、芽はやがて大木へと育っていく。描きながら、その木は私でもあり、家系という木でもあるように感じられた。
次に、指は、最初に描いた母子とこの木の間に私の家族を描いていった。父、母、姉と私の4人の顔が互いに向かい合ったような形になった。これが日本にいる私の家族。
しかし、まるで最初からそれが用意されていたかのように、その下に中途半場なスペースが残っており、絵の具を塗った板の上に紙を置いたときのわずかなシミが、そこに付いていた。それは人の目のような形にイメージされ、そこから指は勝手にもうひとつの顔を描いた。
その後、家族4つの顔を線で結びたくなり、繋いでひとつの輪にした。追加したもうひとつの顔は、自然にその内側に入っていた。さらにその家族の固まりを円でぐるっと囲んで、今まで描いた円と繋いだ。
描いた後、全体を見てみてハッとした。
実は、私の下にもうひとつ、この世に送り出されることのなかった命があったのである。私がそのことを知ったのは、結婚後十年近く経ってからのことであった。帰省した際に、母は突然何を思ってか「もう話してもいい頃だと思うので」と言い、その事実を話してくれた。それは全く計画していなかった妊娠だったそうだ。
「子供は最初から二人と決めていたし、経済的な余裕もなかったし、あんたが生まれたばかりでまだ首もすわっていない状態だったから、そんな状態でもう一人産むことは考えられなかった」と母は言った。妊娠3ヶ月のときに中絶したとのこと。
この突然の告白に、私は最初ショックで何も言葉が出なかった。おそらくじっと母の目を見続けていたのだと思う。母は、そんな私の表情を見て、少し弁解するように「あの時分は中絶する人も多くてね、3ヶ月だったら魚みたいでまだ人間の形になっていないし・・・」と言った。
その言葉と裏腹に、母の左の目から涙がにじみ出たのを私は見逃すことはなかった。その涙に、私も涙がこみ上げた。しかし、口では多分「ああそうだったの」くらいしか返事ができなかったと思う。それもよく覚えていない。
その後、無言という反応で耳と目から受け取った情報を、自分の中で整理しなければならなかった。最初に母に対する怒りが出た。それは正しさだけにフォーカスした、小さな自分の反応だった。
その後、母の涙を思い出すと、そんな批判というものは全く意味をなさなくなり、母というよりも女性の深い哀しみのようなものがこみ上げ、私は妊娠したことがないのに、自分の子宮も一緒に震えて悲しんでいた。そのときの感覚は、自分というものを超えたもっと大きな意識の一部から来たものだった。
私の指は、この絵によって、そのときのことを再び見るように促してくれたのであろう。
最後に追加したその顔は、こちらを見ている。指の勢いで描いた表情は、私の目には笑っているように見える。というよりも、そこにいることが嬉しそうに見える。
生まれてこれなかった命だけれど、こうして家族の中にいる。私の弟か妹になるはずだったこの子の場所は、家族の輪の内側。
今まで意識の上に出てくることはなかったが、こうして絵にして見てみると、これが本当に円になれる私の家族であり、完全な形であるように感じられる。
多分、私はそれをしたかったのだろう。今これを見ていると胸が痛むが、それは悲しみではない。
それを描いたときとは別に、私の中で新たに何かが癒され始めているのを感じる。
<写真> タッチドローイング「いのちと家族」
0 件のコメント:
コメントを投稿