2014年6月30日

ライティングのワークを受けて


6月28日に、あるイベントでライター熊谷圭子さんの2時間のライティングセッションを受けた。セッションは、今感じていることを書くウォームアップで始まり、シェアをした後に、自分への批判とそれへの反論を書くという流れになった。



私は自らもタッチドローイングを実践しながらワークショップを開き、体験をさらに深めて行きたいと思っているが、自分の絵やファシリテートについてこれでよいのかと揺らぐこともある。そこで、批判という形でその部分に光を当てることにした。



私が開くワークショップは、回を重ねるごとに変化してきており、ワークのときにサポートしてくれるスピリットと繋がったり、小さな儀式をしたり、エルクのドラムを叩いたり歌を歌ったりと、自然にシャーマニックな要素が濃くなってきている。これらはすべて、感覚的に自分がそうしてみたいと思ったことだった。



そこに、どうやら今度は、ラブフルートという木製の縦笛が加わることになりそうだ。先月北海道でお会いした小野昭一さんは、私が9月に行うワークショップでお借りする会場のオーナーさんで、ネイティブアメリカンのラブフルートの製作者であり演奏家である。小野さんとお話ししているうちに、私はフルートに強く惹き付けられ、結局一本手に入れることになった。



フルートと言えば中学でリコーダーを吹いたくらいで、他には何の経験もない。絵を描くことがそうであったように、経験がないのに、なぜこれほど強く惹き付けられたのだろうか。ラブフルートを試しに何本か吹かせてもらったとき、これはこれからの私のワークで絶対必要だと1ミリの疑いもない強い思いが沸き起こったが、それはなぜなのか。



そもそも、私は一体なにをやっているのか?なぜあんな形でタッチドローイングのワークを行うのか?タッチドローイングはどこへ向かっていくのか?

そんな考えが頭をよぎった。



タッチドローイングは今年で誕生から40年を迎え、創始者は来年から新たな方向を見出そうとしている。来週私はリトリートに参加するためにアメリカへ出発する。小野さんのフルートは今仕上げに入っているというので、近々出来上がる予定だ。



様々なことが動いているこのタイミングで、圭子さんのセッションを受けられることは有り難いことだった。ライティングでは、心の中にある小さな揺らぎにフォーカスし、まず他人が私を批判するという設定で書き、その後それに対して親友が反論するという形で書くことになった。



これは私にとって初体験だったが、批判を書いているとほとんど同時に反論する声が上がって来て、それはまるで批判と擁護のパラレルワールドに片方ずつ足を掛けて立ち、上から静観しているかのような感覚だったのは興味深かった。



批判を書いているのにニヤニヤしたりして、感情には流されず、この批判はやっぱり無理に頭がこじつけたがっているなあなどと思う余裕があったので、私は以前より少し成長したのだろう(笑)。



その批判と反論をストレートにここに並べてみた。



<他人からの批判>

「あなたのこと見てると我慢ならない。タッチドローイングの絵をこれ見よがしにわざとらしいメッセージでFacebookに投稿したりして。私は「イイネ」を付けてるけど、本当はうっとおしい。見たくもないのよ!絵が幼稚でいつも同じ感じでつまらないし、クレヨンや色鉛筆ってすごい素人っぽい。それを製品にしたいって?バカじゃない?そんなもの、誰も欲しいとは思わないよ。もっと外に出て人に会ったら?自分の殻に閉じこもってないで。独りよがりやってんじゃないの!」



<親友の反論>

「私はずっと昔からあなたを見守って来ていて、私はひょっとしたらあなたが思っているよりも、あなたのことをよく知っているんじゃないかな。あなたのタッチドローイングは素晴らしい。私にはあんな絵は描けないもの。あなただから描けるのよ。私は毎回楽しみにしてるの。見るだけで身体の奥が反応するのがわかるからよ。見ているだけで力が出てくるの。元気になるの。私に起こっていることと共鳴してるのよ。だから、これからもずっと描いていってね」



<批判>

「タッチドローイングのときに、あのドラムと歌、あれはやめて欲しい。なんでネイティブアメリカンなの?あんたは日本人だろ!それにネイティブの人と関わってきたわけでもないくせに。あの歌とドローイングとどんな関係があるっていうの?どうせなら、私はもっと綺麗な曲を聴きながら描きたい。ドラムの音がうるさい。私は音が全くない方がいい。



それにあのカラス。私はカラスが大嫌い。なんでワークにカラスが関係あるの?それは自分だけのものにしておいてよ!私たちには関係ないの。私は絵を描きに来たの。気持ちの悪い羽根なんか見たくない!」



<反論>

「タッチドローイング。あなただけのタッチドローイング。私はあなたの声もドラムの音もカラスのマジックもすべて大好き。あれがそろって初めてできる場。あなたが席を外していたあのときの場のエネルギーを覚えている?まるでもぬけの殻だったわ。



カラスの儀式の時に降りて来た強烈なエネルギーを覚えている? Kさんが、普段そういうことに疎い自分でさえ感じたって言ってたでしょ?カラスがサポートしていることを知らないっていうの?クリエーションは共同創造であることを知っているでしょ?そうやってさまざまな存在たちがサポートして参加者を包み込むあの場ができていることを、あなたが一番よく知っているはず。



ドラムの波動にどれだけの人がポジティブな反応をしているか知ってる?ほとんどの人がドラムの音がよかったって言っているじゃない。あの音はとても安心できるし、懐かしい感覚を呼び覚ましてくれるのよ。



あなたの声は波動だということをあなたも知っているでしょ?その波動はとても大切よ。描いている人の意識に作用しているのよ。その人が出したくない見たくないところへも安心して行ける(アクセスできる)ように、意識の道を作っているの。あなたの声は真っ暗な道を照らすろうそくの光、道案内なのよ。



祭壇は必要。それによって参加者の意識がフォーカスできるし、それが不可知の領域と接する入り口になるの。



タッチドローイングを成り立たせているのは、全て目に見えないもの。だからこそ、これらが大切。目に見えない世界は唯一感じ取ることでつかみ取れるの。そこに祭壇、ドラム、声、カラスなどのスピリットがすべて関わっている。



あなたが日本人であることで定義付けられて、それによって制限されるのであれば、その枠を外せばいい。あなたは日本人ということを外してよいの。ただあなたとして、何にも属さない自由なあなたでいればよいの。タッチドローイングは、日本人とか日本文化とか社会とか、そんな枠にははまらない。むしろ、それを取り外すもの。



一人一人が本当の自分を思い出していくプロセス、自分の中にある智慧と意志の力を見出す助けになるのよ。それは、野生の原始の感覚で、大自然に、大地に繋がることで呼び覚まされるもの。直接指で描くことは、とてつもない感覚と記憶に繋がっているのよ。それを取り戻すためにサポートしてくれるものとして、あなたの魂がネイティブアメリカンの感覚をよく覚えているから今それを選んでいるだけで、本当はそんな区別なんてなくてもよいの。



本当の自分に出会うことは、あらゆる定義がなくなっていくことだから、その定義を外したところから創造していくとき、全く新しい世界が出現するの。



あなたが感じることがすべて。その感じることをただ表現するだけでいいのよ。



大地に根を張り天に向かって伸び、生きとし生けるものを育み見守ってきた木。その木をくり抜いて穴をあけ、そこにあなたの息を吹き込むことがフルートを吹くということ。息は、今というときに込められたあなたの存在そのものなの。フルートを吹くということは、生きとし生けるものとひとつになり、その大調和の中であなたという存在のすべてを表現すること。息はあなたという最も純粋な存在そのもの、最も純粋なあなたのエッセンス。



だから、あなたはあらゆる枠を外して、ただありのままのあなたであるだけでいいの」 (ライティング終わり)







「自分のことはやっぱり自分が一番良く知っている。答えは自分の中にある」とおっしゃるライターの熊谷圭子さんに私は強く共感する。



圭子さんは紙に直接ペンで書くスタイルのライティングを薦めるが、そのライティングとタッチドローイングは似ているところがあると思う。ライティングでは手を止めないようにして書き続け、タッチドローイングでは描いた絵を振り返ることなく、感じるままに描き続ける。どちらも指から自分を包み込む愛と真実がこぼれるのである。



ワークに参加してよかった。書いてよかった。これで、2週間後のリトリートでさらに体験を深め、フルートを迎え入れることができそうである。



愛ある存在で温かく見守り、安心できる場を提供してくれた圭子さん、ありがとう。



熊谷圭子さんのブログ:http://ameblo.jp/hadashinok

圭子さんのウェブサイト:http://www.hadashinok.com

震災ノート「311から歩いて行こう」:http://hadashinok.exblog.jp


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